帰宅
パーセル伯爵邸を出たルーシェリアは、ミンナから手土産にと持たされたパンと肉のパテにほくほくしながら南街区に戻ってきた。長い距離を歩いて疲れてはいたが、食べ物をもらったことと、実入りのいい仕事が得られそうなことで足取りは軽い。
このまま兄のところへ行こうと最初は思っていたが、食べ物を全部持っていくとルーシェリアもあちらで夕食を取ることになる。帰りが遅くなるとリドリーにここまで送ってもらうことになってしまうので、ルーシェリアは先に自分の部屋に寄ってパンとパテを取り分けることにした。
ルーシェリアの借りている部屋は、リドリーたちの家の近くにある建物の屋根裏部屋だ。とても狭いものの、そのぶん家賃が安いのと、窓から屋根の上に出られるのとが、気に入っている点である。
歩くたびにきしむ木の階段を5階まで上り、がちゃがちゃと鍵を差し込んで扉を開けると、殺風景な狭い部屋に入る。
屋根裏部屋なので天井は斜めになっているし、傾斜のいちばんきついあたりは真っすぐ立てないほどに低いけれど、そこに寝台を置いて使うぶんには特に問題はなかった。そのせいで立地のわりに家賃が安いのだと思えば喜ばしいくらいだ。
狭い部屋にある家具は、寝台、小さな円卓と椅子が1脚ずつ、そして木でできた衣装箱がひとつあるきりだった。衣装箱といっても別に衣装がぎっしり詰まっているわけもなく、コップや皿、わずかばかりの着替えなど、持っている日用品を全部入れている。鍵がかかるからだ。もっとも、衣装箱ごと持っていかれたらどうしようもないのだが。
ルーシェリアはその衣装箱から皿を出してテーブルに置き、パンとパテをそこに取り分けた。ふわりと布巾をかぶせてからまた部屋を出る。そして兄のところに向かった。
もう日が暮れてきていて、ルーシェリアの足もとに長い影が落ちている。つましいながらも夕食の支度をしているのだろう、あちらこちらから食べ物の匂いが漂ってきて、ルーシェリアの腹がクゥと鳴った。
「リドリー、戻ったよ」
リドリーの部屋に着くと、ふたりが笑顔で迎えてくれた。パンとパテの入った袋を差し出して、「はい、おみやげ」と渡す。
「どうしたんだ、これ」
「伯爵様のところで貰ってきた」
「ああ、ミンナさんか。おまえ、彼女のお気に入りだからな」
リドリーが笑って受け取りながら、「それで、何の話だったんだ?」と聞いてきた。
「新しい仕事の依頼だよ。でも伯爵様からじゃなくて、いとこだっていう公爵の依頼だった」
「こ、こうしゃく?」
リドリーの声が裏返る。公爵なんて本来なら一生会うこともないような別世界の人間だ。そんな相手からの依頼となれば驚くのも無理はない。
「うん。しかも、こないだエールぶっかけたあの客だった」
「……何だって!?」
リドリーがさらに素っ頓狂な叫びを上げた。
「伯爵様の情報を売れって言ってきた、あの客か!?」
「そう。僕も驚いた」
あのとき、声を上げることも逃げ出すこともしなかった自分の自制心を褒めたい。しみじみとそう思いながらルーシェリアは同意した。
「それの仕返しとかじゃなかったんだろうな」
「僕も一瞬そう思ったけど、違ったよ。それどころか、あのときのことを謝ってくれた」
リドリーは驚きすぎてもう言葉が見つからないのか、首を振って黙ってしまった。ルーシェリアは構わずに話を続ける。
「その公爵のお兄さんが4か月前にマドロン地区で殺されたそうなんだ。それで彼が跡を継いだんだけど、最近になって怪しい走り書きが見つかって、どうもお兄さんは犯人と待ち合わせていたのではないかってことになった。ただの強盗殺人ではないかもしれないって。そのへんを僕たちに調べてほしいと言ってた」
「まあ……殺されたなんて」
「殺しか、物騒だな」
キリアがぞっとしたように身体を震わせ、リドリーが難しい顔になったところで、ルーシェリアはとどめの一言を放った。
「伯爵様も、幼馴染のいとこだったからぜひ調べてほしい、礼ははずむ、と言っていたよ」
「分かった。やろう」
リドリーが即決した。予想通りの展開だ。
ルーシェリアが「公爵が、返事はなるべく急いでほしいと言ってた」と付け加えると、リドリーは「明日、さっそく彼の屋敷に行って、詳しく話を聞こう」とうなずいた。
「じゃあ明日、朝ごはんを食べたらまた来るよ。またね」
ルーシェリアはそれだけ言って部屋を出ようとした。リドリーが慌てて引き止める。
「待てルーシェ、一緒に食事くらいしていけよ」
「いや、僕の分は部屋に置いてきたから。今日はキリアとふたりで食べて?」
「じゃあ明日はちゃんとうちで夕食を食べるのよ。ほら、ランタン」
キリアが明かりの入ったランタンを渡してくれた。まだ外はほんのり明るさが残ってはいるが、じきに暗くなる。部屋に戻ったときに火がないと面倒なので、ルーシェリアはありがたくランタンを受け取ると、にっこり笑って部屋を出た。
後ろからリドリーが「じゃあ明日の朝な」と声をかけてくれたので、ひらひらと手を振ってから階段を降りる。外の街路を歩くあいだにもあたりはどんどん暗くなってきて、部屋に着いたら中はもう薄闇の中に沈んでいた。
持ってきたランタンを使って蝋燭に火をつけ、燭台に刺す。ぼぅっとまわりが明るくなった。ランタンのほうの火を消してから椅子にどさりと座り、ぼんやりと蝋燭の光を眺める。今日は北街区まで往復したから、さすがに疲れた。脚も痛い。
「……疲れたな……眠いや」
でも、寝る前に腹ごしらえをしておかないといけない。食べられるときにはきちんと食べておく、というのは、これまでの生活で身に染みついている習慣だ。ルーシェリアはパンとパテをのせた皿の覆いを取り、ささやかな食事を取った。パテをつけて食べる上等なパンはとてもおいしくて、うとうとしかけていたルーシェリアも少し元気を取り戻した。
ミンナに感謝しつつ食べ終えたあと、せっかく少しだけ元気になったのだからと、寝る前にいつも通りにナイフの練習をすることにする。木組みの柱のところに木の板を引っかけて的にしてあり、それに向かってナイフを投げる練習をするのがルーシェリアの日課だった。
ブーツの中に仕込んであるナイフを引き抜いて投げる。トスッと軽い音を立てて的の中心に刺さるナイフを抜きに行き、今度はしゃがみ込んで投げたり、軽く跳ねてから投げたりと、さまざまな態勢からの練習を重ねる。腕が疲れてきたら無理せずにそこでやめる。とにかく『続けること』が一番の練習なのだから。
男ではないルーシェリアは、どうしたって腕力や体力に限界がある。南街区で生き抜くためには絶対的な不利を抱えているわけで、そんなルーシェリアにリドリーが教え込んだことのひとつがナイフの扱いだった。ルーシェリアの身体の軽さと敏捷性を生かした戦い方や身の守り方を考えるうえで、小さくて扱うのに力のいらないナイフは最適の武器だからだ。
もちろん、投げてしまえば武器を失うことになるので、それは最後の手段だ。できるだけ手に持ったまま戦うことを心がけているけれど、どうしようもないときは最後の『飛び道具』に頼るしかない。幼い頃からリドリーに鍛えられてきたこともあり、自分のナイフさばきはなかなかのものだと自分でも思う。何度これに命を救われてきたか分からない。そして、今後も引き続き命を救ってもらうためにも、練習を怠るわけにはいかないのである。
ひとしきり練習したあと、そろそろやめてもいいだろうと判断したルーシェリアはナイフを的から引き抜き、革砥で軽く研いだ。きらりと光をはじく刀身に、再会したリールズ公爵をふと思い出す。刃のような冷徹さをたたえた、いかにも貴族然とした青年を。あの顔に――冷たく整いすぎていてまるで彫像のようなあの顔に、喜怒哀楽の表情が浮かぶことなどあるのだろうか。
(まあ、どうでもいいか。どうせ僕がそんなものを見ることはない)
大切なナイフを丁寧に研いで鞘にしまう。もう片方のブーツからもナイフを回収し、同じように研いでから枕の下に入れた。武器を肌身離さず持っておくことはリドリーからいちばん最初に教わったことのひとつだ。それからブーツを脱いで寝台の脇に揃えて置いた。
はだしのまま小さな食卓まで歩いて蝋燭を吹き消し、寝台に戻って腰を下ろす。
帽子をまだ脱いでいなかったことに気づいてばさりと脱いでそばに置いた。背中に流れ落ちた長い金髪は、帽子の中に押しこめていたせいで、すっかりくしゃくしゃになっている。
本当ならばっさりと短くしておきたいのだが、『おまえみたいな金髪ならそれなりの値段で売れるから、ふところ具合がせっぱつまったときのために伸ばしておけ』とリドリーに言われているために、がんばって長いままにしているのだ。その髪をぞんざいに手櫛ですいてから、ルーシェリアはぱたりと寝台に横たわった。
(今日はなんだか疲れる一日だった。とりあえず寝て、明日また元気にがんばろう……)
ルーシェリアは粗末な寝具にくるまり、目を閉じた。とりあえず腹が満たされて、眠れる場所があれば、この街ではしごく上等なのだ。そのことに感謝しつつ、ルーシェリアはあっという間に眠りに落ちた。




