ティリアンの葛藤
リドリーとルーシェのフォート兄弟ふたりが報告に来てから3日後の朝、ティリアンは朝食を取ると早々に乗馬へ出かけた。ゆうべもあまり眠れなかったため、軽く運動して頭をすっきりさせたかったのだ。
厩舎頭のロジャーが愛馬のテンペストにつけてくれた鞍を自分でも点検してから、ひらりとまたがって屋敷を出る。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ」
目的地は北街区の東の端にある大きな公園だ。そこには馬場があり、王都を出なくても馬を走らせることができる。
午後になると乗馬服をまとった貴族たちや馬車に乗った紳士淑女たちが繰り出してくる場所だが、午前中は貴族はまず屋敷から出ないから、人影もまばらな馬場でテンペストをしっかり走らせることができるのだった。
「気が逸るのは分かるが、公園に着くまではゆっくり歩くんだ、テンペスト」
馬の首を優しく叩くと、テンペストはこちらの言葉が分かったかのように、少しおとなしくなった。
漆黒の毛並みを持つテンペストは、ティリアンが戦地から戻って真っ先に購入した駿馬だ。
兄が死んだという知らせを受けて、ティリアンは慌ただしく駐屯地を出発して王都へ向かった。北街区にある陸軍省で正式に退役の手続きをしてから公爵領へ向かったのだが、その前にテンペストを買ったのである。
王都にある公爵邸の厩舎にいた馬は、いずれも乗馬向けというよりは馬車を曳かせるための組み馬で、時間のかかる馬車ではなく馬に乗って公爵領の本邸に向かいたかったティリアンの意にかなうものではなかった。そこで自分が乗るための馬を一頭買うことに決めたのだ。
この極上の牡馬を購入できたのはたいへん幸運だった。なにしろテンペストと名付けたこの馬は素晴らしい馬で、血統も外見も能力も、そこにいた他の馬よりも明らかに秀でていたのだ。相当な高値ではあったが、値段以上の価値がある馬だった。
そんなテンペストを御しながら北街区の美しい町並みを通り抜け、公園へ向かう。公園に着くと少し速度を上げて馬場へと急ぎ、予想通りほとんど人影がないことに安堵しつつ、手綱をゆるめた。
「ほら、走れ!」
テンペストはお許しが出たとばかりにのびのびと走り出す。気持ちよさそうに馬場を疾駆するテンペストの手綱を軽く握りながら、ティリアンもつかの間の疾走感を味わった。本邸に戻ればいくらでもテンペストを駆けさせる場所はあるが、王都にいるかぎりはここしか走れるところがないのだ。
しばらく自由に走らせたあと、ティリアンはテンペストの速度を落とし、ゆったりと走らせた。そうしながら、先日から頭を離れない難問と、あらためて向き合う。
(兄上の秘密を、私は暴いていいのだろうか……?)
情報屋のフォート兄弟は、こちらの期待以上の働きをしてみせた。兄は亡くなったときひとりではなかった。一見ひどく品行方正な生活をしていた。死んだときに奪われたとばかり思っていた指輪は、どうやら兄の意志で誰かに渡したもののようだ――そういった、新たに知りえたいくつもの事実を、ティリアンに伝えてくれた。そして、ティリアンが思ってもいなかったことを指摘した。
『兄は何か隠していたのだ。それが何なのかを突き止めない限り、兄の死の謎は解けない』
『何を隠しておられたにせよ、ランドール様はそれを秘密にしておきたかったのではないかと。暴かれることは望んでおられなかったのではないでしょうか』
リドリーとのやり取りが脳裏によみがえり、ティリアンは唇を噛みしめた。
兄には秘密があった。おそらくはマドロン地区に関わる秘密が。どのようなものであれ、兄はそれを周囲から隠しておきたかったはずだ。
いったいどんな秘密だったのだろう。兄と疎遠だったティリアンにはまったく見当もつかない。ただ確実なことがひとつある。兄はきっと、自分の秘密を弟に知られる事態など望んでいなかっただろうということだ。
マドロン地区にある、よそものが通う場所。ルーシェによれば、普通ではないものを賭けて遊ぶ賭博場や、特殊な嗜好を持つ男のための娼館や、後ろ暗い商品の取引の場所だという。
そんなところに、本当に兄が通っていたというのだろうか。繊細で芸術家肌だった兄がそんなところへ足を運ぶようなことがあろうとはどうしても思えない。
だが、兄がマドロン地区で殺されていたという事実がある以上、兄がその地区と関わりを持っていたことは否定できないのだ。そして、関わっていたであろう相手――おそらく兄を殺した相手は、今でもマドロン地区でのうのうと暮らしている。
その殺人犯のことを考えるとはらわたが煮えくり返るようだった。兄を殺した犯人が何の罰も受けずにこのまま生きていくなど、許しがたいことだ。兄の命を奪った相手に報いを受けさせてやりたい。
何よりも、その犯人は、兄と南街区で関わっていたなら、兄の秘密を知っていたはずだ。その秘密を盾にしていつかリールズ公爵家を標的にした行動を起こしてくる可能性もなくはない。先代公爵の秘密を暴露されたくなければ金を払えなどと、こちらを脅してくる可能性だってあるのだ。
「……やはり、放ってはおけないのだろうな……」
兄は望まないだろうが、兄が抱えていた秘密を明らかにしない限り、犯人を探ることも、リールズ公爵家にまで影響が及ぶという事態に備えておくこともできない。ティリアンは肚を決めた。兄の秘密を探り出す必要があると。
そのためにはこれからもフォート兄弟に調査を頼む必要がある。だが気がかりなことがひとつあった。
(そうなると、あのふたりにまで、兄の秘密が知られてしまうことになる)
秘密を知る人間は少ないほどいい。まして彼らは素性も知れない南街区の情報屋だ。その秘密を手にしたら、それを悪用しないという保証はないのではないだろうか。
かといって、彼らの協力なしには今後の調査は難しい。南街区のことはティリアンにはまったく分からないのだ。自分の力だけで犯人に近づけると思うほどティリアンは愚かではない。
幸いにして彼らは信用に足る人間のようではある。そもそも、依頼人を裏切るよう求められてあれほど激怒したルーシェと、そんな彼を育てたリドリーなのだから、たとえ兄の秘密を知ったとしても、それを言いふらしたり脅しの材料に使ったりすることはないはずだとティリアンは判断した。それくらいにはひとを見る目はあるつもりだ。
ただ、全面的に信用してしまうのは危ないかもしれない。まずは彼らのことも一通り調べて、彼らに何か弱みとなるものがないかをさぐる必要があるだろう。いざというときはその弱みを利用する、そうならないように励めと、ひとこと釘を刺しておけばいい。
(だが、南街区でほかに情報屋を当たるといっても、私にはそのつてがない。ハーディスに、別の者を知っていないかと尋ねるか、あるいはローレンスに聞いてみるしかないかもしれないな)
おそらくあの兄弟は南街区ではそれなりに知られた情報屋だ。兄弟で、というのが珍しいだけでなく、片方がまだ少年だということも、あまり普通ではない。彼らのことを知っている人間は多そうだから、調査を受けてくれる者さえ見つかれば、彼らの情報を得るのは難しくはなさそうだった。
それにしても、とちらりと思う。あのフォート兄弟はなかなか不思議な情報屋だ。面と向かい合っていても南街区の者とは思えないほどだった。くたびれてはいても清潔そうな身なりだったり、立ち居ふるまいが下品でなかったりするからだろう。それに話し方にも違和感がなく――
「……それか」
ティリアンは原因に思い当たってつぶやいた。そうだ、南街区に住んでいるにも関わらず、彼らの言葉には南街区特有の訛りがないのだ。だから話していても違和感がない。不思議だという印象を受けたのはそれが一番の理由だろう。
ティリアンとて王都では南街区の住人と接点があるわけではないが、戦地にいたとき、ほかの者たちと少し違う抑揚で話す兵士たちはけっこう多かった。たいていはディエリアの辺境出身の者だったが、それだけではなく、王都の南街区から来たという男たちもそれなりにはいたのだ。南街区出身の者たちの言葉には独特の訛りがあり、彼らだけで固まってしゃべっているときはその特徴が特に顕著に表れていた。
そういった男たちはみな荒くれ者で、おそらくは何か後ろ暗いことをしてそこにいられなくなり、やむなく兵士に志願して王都を離れたという経緯があるのだろうと察せられた。
賭け事で盛り上がるのも、女をめぐって喧嘩を始めるのも、盛り場で派手に騒いで酔いつぶれるのも、たいていは彼らだったが、いっぽうで、仁義には篤いところがあるというか、いったん気を許すとやけに打ち解けてくれるのも彼らだった。
年若い士官だったティリアンにサイコロ賭博を伝授したのも、下士官たちの性格や相互の人間関係などについてこっそり教えてくれたのも彼らだ。彼らの起こす騒ぎに手を焼かされたことも多かったにせよ、色々と世話にもなったと言えるだろう。
そういう経験があったから、ティリアンは南街区の訛りを聞き取ることができる。だが、あの兄弟が話しているのは、南街区出身の兵士たちとは違う言葉――独特の抑揚や発音の違いがない、王都のほかの地区で話されているのと同じものだ。
なぜ彼らがそうなのかは分からないが、もとはあった訛りを矯正して南街区っぽさをなくすことで、受ける仕事の範囲を南街区から中央街区や北街区にまで広げたかったのかもしれない。
そうだとしたら、この自分の仕事を受けていることからも分かるように、彼らの目論見は成功していると言えるだろう。有能で勤勉なあの兄弟が、より上の仕事を目指すことは不思議ではない。
「彼らについての調査が終わったら、雄羊亭に伝言を送って、調査の継続を頼むか」
ティリアンは小さくつぶやき、帰る前にともう一度テンペストを自由に走らせ始めた。




