マドロン地区再訪 2
「……ということは、きっと、彼はひとりではなかったはずだ」
「なぜですか?」
「明かりだよ」と老人は指摘した。
「よそ者が夜のマドロン地区を明かりもなしに歩けるわけがないだろう? だから、ランタンを持っていた人間が、ほかにいたはずだ。そのへんの子供を小遣い稼ぎに明かり持ちにしておったのか、それとも彼を<客>として招いた奴が明かりを持っておったのか、そこまでは分からんが……誰かが彼の歩く道を照らし、そして倒れた彼を置き去りにして明かりとともに去った。それは確かだろうて」
「なるほどね。とても参考になりました。何かほかに気づいたところはありませんか?」
「いや、もうないな……思い出せることも、思いついたことも、全部しゃべったよ」
「そうですか。どうもありがとうございました。話してくださって感謝します」
リドリーはまた銅貨を取り出して老人の手に握らせた。「おや」と目を見開いた老人が嬉しそうに笑う。
「こんなことを話したくらいで、金などもらっていいもんかとも思うが……まあ、ありがとよ」
「いいえ。あなたの情報は役に立ちました。何より……ちゃんと憲兵局に通報してくださったこと、おこがましいことではありますが、彼の家族に代わりお礼を申し上げますよ」
それではこれで失礼します、と言ってリドリーとルーシェリアはその場を辞した。女と老人が見送ってくれる。ぎしぎしと階段を降りながら、ルーシェリアはつぶやいた。
「お兄さん、見つけてくれた人がいて、よかったね」
「ああ。……確かに、誰にもそういう配慮をされず、この地区のどこかに打ち捨てられることになっていたかもしれないからな……あの爺さんが善良なお人で、よかった」
眉根を寄せたリドリーが答えた。建物の外に出ると、大きく伸びをして、「さて」と息をつく。
「俺はこのへんで話を聞いて回ってみる。望みは薄いが、ランタン持ちの仕事をやってるような子供がいるかもしれないし、このあたりの賭場や娼館についても、俺にできる範囲で聞き込みをしてみるよ。おまえはあの店に行くんだろう?」
「うん。もうすぐ約束の時間だからね。掃除をしたあと、僕もちょっとだけ聞き込みをしてから戻るから」
リーサの店の近くまで来てふたりは別れた。
「リーサさんによろしく言っといてくれ」
「分かった。掃除が嫌で逃げ出したって言っとく」
「それはやめてくれ」
苦笑したリドリーがルーシェリアの頭をぽんぽんと叩いてから「じゃあな」と歩いていく。ルーシェリアはリーサのところに向かうべくそちらへ歩き出した。
店の前まで来ると、扉はもう開け放たれていた。ひょいとのぞきこみ、「リーサさん、僕だよ、ルーシェだよ」と声をかけると、奥から「よく来たね」とリーサが出てきた。
「本当に来たんだね。物好きな子だ」
「来るって言ったんだからそりゃあ来るよ。さあ、掃除するから、道具を貸してくれる?」
リーサがごそごそと出してきた、年季の入ったほうきとバケツ、そして雑巾を横目に、ルーシェリアは店内を見回した。
「うーん、まずははたきが欲しいかも」
「ああ、はたきね。どこにしまったかねえ……」
いったいいつから掃除をしていないのだろうとルーシェリアは首をかしげた。これは長丁場になりそうだ、というより今日一日で終わるとはとても思えない。
「ねえリーサさん、今日はとりあえずはたきをかけるところで終わりそうだ。続きはまた来週やるよ」
「また来るのかい?」
「リーサさんがよければ。あ、はたき、あったんだね」
まずそれからはたく必要のありそうなはたきを手にして戻ってきたリーサを見て、ルーシェリアが笑う。リーサは気まずそうな顔で目を逸らした。ルーシェリアはそれを受け取り、外でぱんぱんと叩いて埃を払った。
「よし、じゃあ、やります!」
はたきをかかげてルーシェリアはいさましく宣言した。まずは持ってきた大判の布で口と鼻をおおって頭の後ろできゅっと結ぶと、店の奥から順番に、適当に積まれた品物にはたきをかけていく。
「埃っぽいからリーサさんは奥に入っててよ」
「……ああ」
何となく圧倒された雰囲気で、リーサは奥へ引っ込んでいった。
ルーシェリアは頼もしい相棒となったはたきを片手にぱたぱたと埃を落としていった。丁寧にやっていてはとてもきりがないのでざっとかけているだけだが、それでも店の中にはもわもわとものすごい量の埃が舞い、扉から差し込む日光にくっきりと照らし出されている。
「うわ、なんかこうやって見ると煙みたいだな。リーサさん、いったいいつから掃除してないんだろ」
どう見積もっても数年以上は手をつけていないのではなかろうか。実際のところ、この店の存在意義はここに置かれた商品ではないのだから、扱いが雑になるのも致し方ないところではあるのだろうけれど。
一番隅のほうには家具がごちゃごちゃと置かれている。テーブルや椅子はまだしも、背の高い箪笥や棚まで壁に寄せて置いてあり、そういうものだとさすがに上にまでははたきが届かない。今回は諦めることにして、手の届く範囲でどんどん品物の埃を落としていった。白っぽく積もっていた埃がみるみる落ちていくので、意外に楽しいというか、やりがいがある。
「やった成果が目に見えるって、なんかいいものだなあ。なんだか楽しくなってきたかも」
ルーシェリアはひたすらはたきを振るった。いつの間にか鼻歌まで出ている。剣を振るって敵を切り伏せる勇者はこんな気分なのかもしれないと思う。……今の場合、戦う相手は埃でしかないのだけれども。
そうやって無心に埃を落としていたルーシェリアに、どれくらい経ったのだろうか、「もうそろそろやめにしちゃどうだい」とリーサが声をかけた。
「あ……」
「なんか楽しそうにやってたねえ。でももう1刻くらいは経ってるよ。疲れただろう、お茶にしないかい?」
ぱちくりとまばたきしたルーシェリアに、リーサは「ほら、一緒に飲もう」と用意したお茶のカップを指さしてみせた。




