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公爵と情報屋 ~男装美少女は氷の公爵から一途に愛される~  作者: やまのみき
第1章 春

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新しい依頼人 1

「パーセル伯爵の呼び出し?」


「そうなんだ。おまえ、行ってくれるか」


 訪れた兄の家――といっても南街区にごちゃごちゃと密集した集合住宅の三階にある、台所兼居間と寝室の二間しかない狭い住まいだが――で、リドリーがひらりと書き付けを振ってみせた。


「依頼の件は解決したのに? 何の用かな」


「さあな。また別の新しい仕事じゃないか?」


 ふうん、とルーシェリアは首をかしげたが、気前のよい元依頼人からの呼び出しとあれば行かない理由はない。うなずいたところにリドリーの妻キリアが寝室から居間に入ってきた。


「やあ、キリア。体調はどう?」


 ルーシェリアが挨拶すると、キリアはにっこりと微笑んだ。


「いらっしゃい、ルーシェ。今日はわりとましかな」 


「それはよかった」


 キリアの妊娠が分かったのは彼女がつわりに苦しみ始めたことからだった。それからしばらく経つ。彼女のつわりは通常よりも長く続いていて、リドリーもルーシェリアもずいぶん心配しているのだが、今日は比較的元気なようだ。ほっとしたルーシェリアは持ってきた小さな(かご)をキリアに渡した。


「これ、食べて。たくさん食べて栄養をつけなきゃって、市場のおばさんも言ってたよ」


 籠の中をのぞいたキリアは、「まあ、卵!」と嬉しそうな声を上げた。


「ありがとう。嬉しいわ」


「大丈夫なのか、ルーシェ? おまえの食べる分もちゃんとあるのか?」


 リドリーがルーシェリアを見つめる。ルーシェリアは慌ててうなずいた。


「あるから大丈夫だって。卵は栄養があって妊婦にはもってこいだって言われてさ。今日はいつもより安かったおかげでちょっと多目に買えたんだよ」


「ありがたいけど、無理するなよ」


 リドリーが帽子ごとルーシェリアの頭をわしわしと撫でる。幼いときから変わらないその癖にルーシェリアは顔をほころばせたが、リドリーが手にしたままの書き付けをふと見て、「え、呼び出しって、今日じゃないか!」と焦った声を上げた。


「あれ、明日じゃなかったか? ……あ、6月6日じゃなくて、5日か。今日だな。わりい」


「もう、リドリーってば! とりあえず行ってくる。あとでまた報告に寄るから。キリア、またね」


 ルーシェリアはあたふたと兄の部屋を出た。

 北街区の貴族街にあるパーセル伯爵の屋敷は遠い。貧民街を出たところで辻馬車を拾えば速くて楽ではあるが、いかんせん金がかかるので、貧民街の住民たちが使うことはまずない。運が良ければ大型の馬車の後ろにこっそり飛び乗って運んでもらうことは不可能ではないものの、基本的にはいくら遠くても自分の足で歩いていくしかないのだ。ルーシェリアはため息をついて歩き出した。


 貧民街である南街区を出て北に歩いていくと、中央街区の中の、いわゆる商業地区と呼ばれる地域に出る。貴族街である北街区はさらにその北だ。市域の北に行くほど金持ちの住む区域になっていくのがこのディエリアの王都で、ちなみにいちばん北にあるのは王族が住むディエリア城である。

 

 このディエリアという国は、リドリーから聞いたところによると、エドラス大陸の北西部に位置する、大陸でも最も大きな国だ。


 今から200年ほど昔のディエリアの初代国王の治世に、北街区から南街区までが王都として整備された。はるか昔に栄えた古代帝国の都とほぼ同じ区域だったらしい。だが、大陸のほぼ全土を支配した古代帝国ほどの版図(はんと)を持たない王国の王都としては大きすぎたのだろう、王城から遠い南のほうから次第に寂れてゆき、建国から50年ほど経った頃には南街区はほぼ廃墟となってしまっていたという。


 ところが、ここ数十年で、新興産業の勃興にともなって王都の人口が大幅に増加し始めた。もともとの住人が増えただけでなく、地方からの人々の流入がどんどん加速しているのだ。そして王都にやってきたものの仕事がなくて食い詰めたり、二度の戦争で困窮したりした人々が、打ち捨てられていた南街区に集まり、貧民街が形成されるにいたったらしい。

 

 その貧民街は南へ南へと広がり、やがてディエル川に突き当たってそこで止まった。自然発生的にできていったあぶれ者の街だから秩序もなく、王の支配も及ばない。近年でこそ憲兵局が組織されて王都の治安維持にあたるようになり、南街区にも多少は官憲の目が届くようになりつつあるけれども、未だにそこは基本的には王都の秩序が及ばない地区である。


 要するに、南街区は、繁栄する華やかな王都の暗部ともいうべき地区、吹き溜まりのような場所なのだ。貧しい者たちがごちゃごちゃとした家屋に住まい、独自の、そして暗黙の掟が幅を利かせ、有象無象の悪者たちが暗躍し、ありとあらゆるものが――そこにはもちろん人間も含まれる――売り買いされる場所。ルーシェリアが暮らしているのはそういう場所なのだった。


 うんざりするほど歩いたのち、ようやく中央街区を抜けて北街区の貴族街にたどり着く。

 そこはもう空気からして南とは違っていた。汚水や安酒や糞尿の臭いとは無縁の、美しく舗装された広い街路。その両脇には意匠をこらした屋敷が立ち並び、それぞれの庭に植えられた木々がかぐわしい6月の風にさらさらと葉をそよがせている。道ゆくひとたちの服装もがらりと変わり、しゃれた外出着の紳士や小綺麗なお仕着せの使用人たちが目につくようになる。


 仕事でこのあたりに来るたび、ルーシェリアは不思議な気分になる。貧民街で暮らす自分たちと、これらの屋敷に住む貴族たちは、はたして同じ人間なのだろうかと。流れている血の色が違うと言われれば素直に信じたくなるほど、両者はあまりにも異なっている。


(いっぺん、お貴族様を切ってみて、確かめてみたいな。やらないけどさ)


 そう心の中でつぶやいて、ルーシェリアはパーセル伯爵の屋敷に向かった。


 パーセル伯爵邸は北街区の中でもかなり北の方に位置している。由緒正しい名門貴族ほど王城に近いところに屋敷を構えているので、北街区のどのあたりに住んでいるかでだいたいの家格が分かる。パーセル伯爵家は爵位こそ公爵・侯爵に続く3番目ではあるが、ディエリア建国以来の名門だから、爵位のわりにいいところに屋敷があるのだ(と、リドリーが教えてくれた)。


 伯爵の屋敷にはもう何度も来ているので勝手は分かっている。錬鉄製の門の前には門番が立っていて、「こんにちは。伯爵様に呼ばれて来たんだけど」と声をかけると、「おう、ぼうず。久しぶりだな」と門を開けてくれた。

 敷地に入ったら、幅の広い正面への通路ではなく屋敷の横手に続くほうの細い道を歩き、瀟洒な植え込みをぐるりと迂回して使用人用の出入り口に立つ。ドンドンと扉を叩くと、ほどなくして扉が開いた。


「誰だ? ……おや、ルーシェか。久しぶりだね」


 そこに立っていたのは従僕のひとりで、すぐに家政婦頭を呼んでくれた。やがて現れた家政婦頭のミンナに、「こんにちは、ミンナさん。お久しぶり。伯爵様に呼ばれたんだけど」と兄から託された書き付けを見せる。


「ああ、聞いてますよ。旦那様の書斎に案内しますね。元気でやってるの、ルーシェ?」


「うん、元気だよ」


 顔なじみになっているミンナは顔をほころばせて再会を喜んでくれた。ミンナは厳格ではあるが優しい年配の女性だ。仕事でこの屋敷に出入りしていたとき、厨房に連れてきて食事をさせてくれたこともあった。細っこいルーシェリアを心配して、子供はちゃんと食べなきゃ、と気遣ってくれたその優しさは、ルーシェリアには忘れられない思い出だ。


 ミンナはルーシェリアを連れて使用人用の通路を歩き、二階の書斎にやってきた。

 ここに来るたびに思うことだが、使用人用の通路は味もそっけもない実用一点張りのしつらえなのに、扉を開けて<表>の廊下に出たとたんにあたりが贅を凝らしたつくりに変貌するのが、なんとも露骨でおかしい。壁の燭台にともされる蝋燭ですら使い分けられていて、使用人用の通路では安価な獣脂製の蝋燭が、伯爵家の家人や来客が通る<表>の廊下ではいい匂いのする蜜蝋の蝋燭が使われている。


(それでも、ここの獣脂の蝋燭だって、新品を使っているんだから、僕たちが使う再生品の蝋燭よりはましなんだけどね)


 南街区に住む者たちが使う蝋燭は、中央街区や北街区から集められた蝋燭の溶け残りをまとめて再び固め直したものであることが一般的だ。理由はもちろん、それが最も安いからである。


 ミンナはトントンと扉を叩き、「旦那様、ルーシェを連れてまいりました」と声をかけた。


「入れ」

 

 中から返事が聞こえたので、ルーシェリアは扉を開けて部屋に足を踏み入れた。書斎という名前の通り、壁の左右の面に天井までの本棚が造られてたくさんの書物が収まっている重厚な雰囲気の部屋だ。パーセル伯爵との打ち合わせはいつもこの部屋だった。


 主人のパーセル伯爵ハーディス・レイノルズはいつものように正面奥の大きな書斎机に座っていた。近づこうとして、手前の来客用の長椅子に誰かがいることに気づく。そちらを向いたルーシェリアはあやうく声を上げるところだった。


(あの客だ……!)

 

 2か月ほど前にルーシェリアがエールをぶちまけたあの男が、涼しい顔をしてそこに座っていた。


 怜悧な美貌とすらりとした長身、身にまとう冷たく冴えた気配、そして、いかにも命令を下すことに慣れた軍人めいた雰囲気。忘れようとしても忘れられるものではない。間違いなくあの居酒屋にいた男だ。


 青年はまっすぐにルーシェリアを見つめている。その群青色の双眸は、鋭くはあるけれど、特段の感情をあからさまにしてはいなかった。


(どうして、この男がここに……!?)


 最初にひらめいたのは、自分は罠にかかったのか、という考えだった。仕返しのために、パーセル伯爵を利用して自分をおびき寄せたのかもしれないと。自分のような取るに足りない相手ではあっても――いや、だからこそ、虚仮(こけ)にされたことに激怒して報復しようとしたのではないか。


 ルーシェリアはとっさにそう考え、逃げ出すべきかと一瞬迷ったが、ここでいきなり何かされることはないだろうと判断してなんとか逃走欲求を抑え込んだ。パーセル伯爵から何か説明されるはずだ。黙って反応を待つ。


 ふたりをおもしろそうに見ていたパーセル伯爵が、「久しぶりだな、ルーシェ」と声をかけた。


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