マドロン地区での聞き込み 1
翌日、ルーシェリアはまたマドロン地区に足を向けた。昨日と同様、両方の袖と両方のブーツにナイフを仕込み、ポケットには石ころや短剣をしのばせて、できるかぎりの防衛策はとってある。とりあえず今日は昼間しか活動しないつもりなので、本当に危ないことにはならないだろう。
さすがのルーシェリアも、昨日リーサの店を訪れたような場合を除いては、暗くなってからひとりでマドロン地区に入るような無謀なことはしない。夜の聞き込みも必要ではあるが、それはリドリーと一緒にやるか、あるいはリドリーひとりに任せるほかはない。
南街区はまだら模様よろしくさまざまな悪党たちが自分の縄張りを持っているのだが、マドロン地区も同様で、何人かの顔役に支配され、彼らは日夜争い合っている。
その中で最も勢力が大きいのがシドと呼ばれる男で、他にはガルドという男や<片目>とだけ呼ばれる男の名前があげられる。ランドールが殺された場所がどの顔役の縄張りなのかは分からないが、まずは現場に行くことにしてルーシェリアはひたすら歩いた。
午前の明るい日差しがあたりに満ちているけれど、大きな通りから延びるマドロン地区の細い裏通りは、太陽の恵みなど知らぬと言わんばかりに薄闇に沈んでいた。両側に迫る建物にさえぎられ、道にまで陽光が届かないのだ。
そういう光景を見ていると、マドロン地区と呼ばれるようになる前のこの一帯が<日時計地区>という通称だったこともまた、たいした皮肉だと思えてくる。この地区のちょうど真ん中あたりにある小さな広場の中央に、ディエリア建国当時に造られた日時計が置かれていることから来た名称だ。
かつてはこの地区も陽光に照らされた明るい場所だったのかもしれないが、今となっては日時計など誰も見向きもせず、打ち捨てられている。王都からこの場所が打ち捨てられているのと同じように。
(まあ、そんなところでもなんとか生きていかなきゃならないんだからな。さて仕事、仕事)
細い路地は避けるようにして、なるべく大きい通りを選んで歩くうち、ジイドの酒場についた。ティリアンが発見したメモに記されていた店だ。
マドロン地区にもいくつもの酒場があるなかで、ジイドの酒場はその中ではそれほど大きな店ではない。こうやって来てみるとよく分かるが、広場や大通りに面しているわけでもなかった。さすがに裏通りとまではいかないものの、店の前の路地はさほど広い通りではない。こんな場所にランドールはよくたどり着けたものだ。しかも待ち合わせは夜だったから、道に迷わず進むのはさらに難しかっただろう。
「……要するに、結論はふたつだ。ランドール様はここに以前も来たことがあって土地勘があったのか、土地勘のある誰かに案内されてここまで来たのか。さて、どちらだろうな……」
ジイドの酒場の扉は開け放たれていた。もう店の者が来ていて、掃除や仕込みなどを始めているのだろう。ルーシェリアは近づいていってひょいと中をのぞきこんだ。40代くらいのくたびれた顔をした女が、のろのろとほうきを動かしている。
「……なんだい」
いきなり扉からひとの顔が現れたことに驚いたのか、その女は手を止めてルーシェリアをにらみつけた。
「あの、お仕事中にごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、少しだけいいかな?」
ルーシェリアが申し訳なさそうな顔を作って話しかけると、女の表情が少しだけゆるんだ。こういうとき、外見が年若い少年にしか見えない(しかも線が細い小柄の少年だから間違っても強そうに見えない)ことがなかなか役に立つ。
「やっかいごとはごめんだよ」
そう言いながらも扉のほうへ進んできてくれる。ルーシェリアは、ありがとね、と機を逃さずとっておきの笑みを浮かべた。
「聞きたいことって?」
「あのさ、お姐さん、この店でもうずっと働いてるの?」
「ああ。今さらここを出てどっかに行けるわけじゃなし、ここでずっとあくせくしてるよ」
「だったら知ってるかな? 何か月か前に、このへんで人殺しがあったのを」
人殺しと口にしたとたん、女の顔が険しくなった。人差し指と中指を重ねて軽く払う、厄除けのまじないをしてみせて、「なんでそんなことを」とつぶやく。
「知ってるみたいだね。少しだけ、お姐さんの知ってることを話してくれないかな? ほら、よかったら僕が代わりに床を掃くからさ、お姐さんは椅子に座りなよ」
ルーシェリアは如才なく店内に踏み込み、机の上にひっくり返して乗せてあった古ぼけた木の椅子をひとつ下ろすと女の横に置いた。そしてさりげなく女の手からほうきを取り上げる。どうもマドロン地区では掃除に縁があるみたいだな、と心の中で思いながら付け加えた。
「そのことを知りたいってひとがいてね。お姐さんにもこのお店にも迷惑はかけないから、知ってることだけでいいんだ、教えてくれたら嬉しいんだけど」
ふう、と息をついて椅子に腰を下ろした女が、用心深い光をその目に浮かべてルーシェリアを見つめた。
「マドロン地区で人死になんざ日常茶飯事さ。いったい、どのことなのか、分からんね」
「被害者がこの地区の住人じゃないやつだったら、覚えてるんじゃないかな? 寒い冬の朝に、やたら身なりのいい男が、この近くで倒れていなかった? 憲兵が来てちょっとした騒ぎにならなかった?」
「……ああ」
やたら身なりのいい男、というところで、女の眉がぴくりと動いた。
「たしかに、そんな事件があったね。……たしか2月ごろだ、朝から憲兵がやたらとうろついていたから、何だろうと思ってそのへんをぐるりと見に行ったら、ちょっと行ったところの道に血の汚れがついていて……。死体はもう片付けられていたから見なかったが、後でほかの女たちに聞いたよ。まるでお貴族様みたいな、高級そうな服を着た男が殺されていたらしいって」
「そう、それだよ。ほかに何か知っていることはない? 誰かに聞いたことでもいいから」
「ほんのささいなことだよ。そんなんでいいのかい」
「うん! ぜひ教えてよ」
ほうきを持ったまま身を乗り出すと、おかしそうにくすっと笑った女が、「まあ、あんたも座れば?」とさかさまになった椅子を指さした。実は意外と話好きなのかもしれない。ありがたく椅子を下ろして座り、続きを聞く体勢になる。
「この店で女給をやってる若い子の話では、あの夜、この店にはそんな身なりのいい客はいなかったそうだ。あたしはずっと厨房にいるから店内のことはあんまり分からないけど、それでも、そんないかにも場違いな客が来れば店の雰囲気が変わるから気がつくだろう」
「なるほど。この店の客ではなかったんだね」
「そうさ。あたしの覚えてる限り、そんな客がこの店に来たことは一度もないね」
「このへんに、そういう客が来るような、別の目的地があったのかなあ……」
ルーシェリアが何気なくつぶやいたひとことが、女の注意を引いたようだ。「聞いたことがある」とうなずいた。




