図書室での出来事 5
「……やっちゃった……」
公爵邸からの帰途、ルーシェは頭を抱えたい思いで歩いていた。さっきの出来事――ティリアンに素顔をさらしてしまうという大失態を犯したあと、時間が経つにつれてじわじわと実感がやってきたのだ。自分がいかに危険なことをしでかしてしまったのかということを。
実際、本当に危ないところだったのだ。顔を見られたのがティリアンだったからよかったようなものの、もしそれがほかの人間だったら。そう思うと背筋が凍る。つくづく、相手がティリアンだったというのが幸いだというしかない。
(大丈夫。公爵様みたいな大金持ちが、僕を売ってお金を稼ごうなんて、そんなことを思うわけがないもの)
自分を娼館か人買いに売り飛ばして得られるであろう金は、南街区に住む者にとってはひと財産であっても、この国で最も裕福な貴族のひとりであろうリールズ公爵家の当主にとっては、ほんのはした金に過ぎない。
そんなわずかな金を得る機会を逃すよりも、兄ランドールの調査に関わる貴重な人員を失うほうが、ティリアンにはよほど痛手だろう。だから自分の身はこれまでと変わらず安全なはずだ。何よりも、ティリアンは約束してくれたのだから。
『――お願いだ。どうか、今日のことは、見なかったことにしてくれないかな』
『約束する。誰にも言わない』
ティリアンは、ルーシェリアの懇願に対して、わずかな逡巡も見せずにあっさりとうなずき、約束する、と言ったのだ。
仕事を受けて以来の関わりの中で、彼が誠実な人間であることがルーシェリアにもよく分かるようになってきた。だから、彼が『誰にも言わない』と言ったなら、それはきっと信じられる。
ルーシェリアの秘密をティリアンが誰かに漏らすようなことはない。そう信じられるからこそ、今の自分は、やらかした失敗を悔やみはしても、おそろしい予感に血も凍るような思いをしてはいないのだ。それがあのときとは違う。
ずっと昔、ルーシェリアはリドリーと自分を襲ってきた男に顔を見られてしまったことがある。
ルーシェリアの素顔を見て驚いたその男が次の瞬間に浮かべた表情は未だに忘れられない。ぞっとするほど下卑た、さもしい笑いを、その男は浮かべたのだ。この子は金になるぞとほくそ笑む心のうちがそのまま表れた表情だった。
だが、同じように不意にルーシェリアの顔を見てしまった相手であっても、ティリアンの反応はまったく違っていた。彼が浮かべていたのは純粋な驚きの表情だけで、それ以上のものではなかった。
賞賛、あるいは欲望や打算といった別の感情が表れることはなく、そのことにルーシェリアはものすごくほっとしたのだ。なんだか自分をありのままに受け止めてもらえたような嬉しさすら感じてしまったような気もする。
そもそも、よく考えてみれば、ティリアンは美しい男女など見慣れているに違いない。自分の顔は南街区の基準でなら美しくても、上流階級ではたいしたものではないのかもしれないではないか。
だいたいティリアン本人があれほどの美貌の持ち主なのだから、美しいと感じる基準が人よりもずっと高いことだって考えられる。
そんなふうに考えていると、なんだか気が軽くなってきて、重かったルーシェリアの足取りもだんだん軽くなっていった。
(――うん。まあ大失敗には違いないけど、でも相手が公爵様だったってことで問題はなかったんだし、リドリーには言わなくていいよね。黙っておこうっと)
これがもしほかの相手に見られたのであればルーシェリアだって腹をくくって告白するだろうが、ティリアンなら大丈夫だろう。
『誰にも言わない』と約束してくれたのだし、そもそも知ったからといってティリアンがそのことを悪用するとは思えない。それくらいにはルーシェリアはティリアンのことを信用している。たぶんリドリーだってそうだろう。だから告白する必要はないはずだ。
思考を重ねてそう結論づけたルーシェリアは、すっかり軽くなった足取りのまま南街区へと帰っていったのだった。




