バリー・ギブソン卿の尾行ふたたび 2
「またな、トマス。今夜はちょっと怖い思いをさせてすまない」
「ああ……マドロン地区に行くなんて聞いてなかったぞ。俺はあそこに行くのはごめんだ」
「はは、悪かったな。明日以降はちょっとやり方を変えるかもしれない。また連絡するよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ、リドリー、ルーシェ」
トマスが去っていくと、リドリーは「おまえの部屋で少し話そう」と歩き始めた。
「いいけど、もう遅いよ?」
「明日、また公爵様に報告に行ってもらいたい。その前に話し合っておきたいんだ」
というわけでルーシェリアはリドリーと一緒に帰宅し、狭い屋根裏部屋で作戦会議を開くことになった。喉が渇いたというリドリーに水差しからコップに水をついで渡し、蝋燭が一本立ててあるだけの燭台をあいだに置いて話し合う。
「とにかくさ、マドロン地区でバリー卿が何をしているのかを調べたいけど……けっこう、難しいよね」
「そうなんだよな……」
ふたりでため息をついてしまう。夜のマドロン地区をよそ者がうろつくのは危険だ。
「あの無防備なバリー卿がマドロン地区に出入りできるのは、当然、誰かの<客>だからだよね」
「だろうな。おそらく、馬車を降りたあたりに、迎えの者が来ているんだと思う。小さな明かりが見えた気がする」
「なるほど……あそこから店まで、バリー卿を案内してるんだね。でも、どうしてわざわざそんなことをするのかな。馬車で目的地まで普通に行けばいいのに」
「店の場所を部外者に知られたくないんだろう。十中八九、違法な商売なんだろうから、秘密を守ろうとしているんじゃないか」
リドリーは眉根を寄せて腕を組んだ。椅子がかすかにきしんだ音を立てる。
ちなみに、リドリーが腰を下ろしているのはこの部屋にあるたったひとつの椅子で、もちろん普段はルーシェリアが使っている。リドリーが来たときは、ルーシェリアは寝台に座るのだ。
「とりあえず、今夜みたいにマドロン地区に馬車で乗り込むのは目立ちすぎる。馬車で尾行するのは無理だ。何か方法を考えないと」
「先週も今週も、火曜日に違う行動をとっていたよね。もしかしたら、また来週も、同じかもしれない」
「それはひとつの可能性だな。来週は最初から今夜バリー卿が降りたあの場所で張り込むとするか。……だが、たまたまだったという可能性もある。来週まで何もしないでいいかというと、それはまた別だ」
リドリーの大きな手がコップをつかむ。ごくごくと半分ほど水を飲んだリドリーは、「ちょっと、長丁場になりそうだな」と低い声で言った。
「長丁場?」
「そう。まず俺たちがマドロン地区の土地勘をつかむ必要がある。おまえは最近、ちょくちょくマドロン地区に遊びに行ってるようだが、俺ももっと昼間のうちに足を運んで、あの地区の道をしっかり頭に叩き込まなきゃな。もちろんおまえも。万が一のとき、追われてもできるだけ早くあの地区から逃げ出せるように」
「うん」
「できれば変装してなるべく印象に残らないようにしたい。おまえも、ときどき服や帽子を変えろ。古着屋で何種類か揃えてやる」
「分かった。夜の尾行は道を覚えてからってことだね?」
「そういうことだ。道もよく分からない場所で尾行するのは危険すぎる。しばらくはマドロン地区でバリー卿を尾行するのは我慢して、昼間にマドロン地区の土地勘を養っておくことと、夜の彼の行動を調べ続けることに専念するべきだろう」
慎重なリドリーらしい結論だ。本音を言えば、ルーシェリアはバリー卿がいったいどこへ行っているのか早く知りたくてたまらなかったけれど、リドリーの言う通り、土地勘がないのに危険な場所で尾行をするのが無謀だということはよく分かっていた。
調査対象だけでなく自分の身の安全にも気を配らなければならない状況で、いざというときどこに逃げればいいかも分からないなんて、危険にもほどがあるというものだ。
「分かった。公爵様にそう報告するね」
「ああ。公爵様なら理解してくださるだろう。急ぐ理由もないしな」
「うん、公爵様は、あえて僕たちを危険にさらすような指示はしないと思う」
いざというときはこの金を捨てて逃げろ、命は金では買えないのだから、と言ってくれたティリアンだ。リドリーの出した結論に反対するとは思えなかった。
リドリーが「じゃあな、ルーシェ。おやすみ」と挨拶して部屋を出ていくと、ルーシェリアはさっそく寝る支度を始めた。もう夜も遅い。というより、あと数時間すればもう夜明けだ。
「明日はちょっとゆっくり寝て、それから公爵様のところに行こう」
まず帽子を脱いで髪をほどき、上着を脱ぐ。次にシャツを脱ぎ、胸にぐるぐると巻いた布を外す。それを外すといつもほっとする。大きく深呼吸をしてから今度はシャツだけをまた着て、ブーツもえいやっと脱ぐ。ブーツに仕込んだ小さなナイフを手元に回収しておくことも大切だ。
はだしになって寝台にもぐり込む前にちゃんと蝋燭は消しておかないといけない。蝋燭を吹き消したルーシェリアは、ようやく横になれるといそいそと寝台に倒れた。
「ふああ……疲れた」
いつもに比べればまったく歩いてはいないけれど、ひたすら待つのも、どこに行くか分からないままやきもきと馬車に乗っているだけというのも、何となく気疲れするようだ。
明日はまた公爵邸まで歩かないといけないし、マドロン地区を歩き回って土地勘を養うという任務も加わった。
「忙しくなるなあ。よし、寝よ」
とりあえず、明日、公爵邸でまたおいしいお茶にありつけるのは嬉しい限りだ。それを楽しみに、ルーシェリアはぐっすりと眠った。




