<閑話>ルーシェと馬 その後
リールズ公爵邸の執事ジョアン・ボイド視点の番外編です。
ジョアンの夕食は、ほかの使用人たちとは違う。もちろんあるじに出されるような食事が出てくるわけではないが、屋敷の男性使用人を束ねる立場である執事のジョアンには、ほかの使用人たちに比べてよいものが供されるのだ。
場所も厨房の横の使用人用食堂ではなく、家政婦頭のリアンナとふたりで、ジョアンの部屋の横にある上級使用人用の小さな食堂を使う。練習を兼ねて不慣れな従僕や従僕見習いに給仕させて食事を取るひとときは、リアンナとさまざまな話し合いをしたり、情報交換をしたりと、職務を円滑に進めるうえでも貴重な時間だった。
今日も、夕食を食べながらひととおり一日の振り返りを行った。使用人たちはちゃんと働いていたか、いつもと違うことはなかったか、何か問題はなかったか、などである。
もちろん、問題などそうそう起こるものではない。使用人に関わるちょっとした認識の共有や、あるじたるティリアンの明日の予定などを確認したあと、ジョアンは、今日の午後に目にした驚くべき出来事をリアンナにも教えることにした。
「そうだ、リアンナ。実は今日、とても嬉しいことがあったのだよ」
「まあ。なんですか?」
落ち着いた表情を崩さないリアンナに、ジョアンは口もとをゆるめながら語った。
「今日、ルーシェが来ていただろう。ティリアン様は、しばらく執務室で話されたあと、一緒に部屋から出てこられた。厩舎に行ってルーシェにテンペストを見せるのだと言ってな」
「ルーシェったら、ティリアン様にそんなことをしていただいたのですか」
呆れたようにリアンナが苦笑する。
最近この屋敷をよく訪れるようになった南街区の情報屋の少年は、その人懐こさと屈託のないほがらかさとで、あっという間にこの屋敷に溶け込みつつあった。ルーシェに言われたからと、ティリアンが厨房に来て料理人たちに礼を述べるという、前代未聞の椿事まで起こったことは記憶に新しい。
「楽しそうに会話を交わしておられて、私は驚いて様子を見ていたのだが……何かルーシェが言ったことがよほど面白かったらしく、ティリアン様は、なんと声を上げて笑われたのだ。玄関ホールの、私の目の前で」
「ティリアン様が、楽しそうに話をなさっていたの? そして、声を上げて笑われたと……!?」
リアンナの目が丸くなった。一瞬きゅっと口をつぐんだあと、ふわりとその表情がゆるむ。
「よかった……笑うことを、取り戻されたのね、ティリアン様は。……本当に、嬉しいことですわ。ねえジョアン」
「ああ、まったくだ。喜ばしいのひとことに尽きる」
当代の公爵であるティリアンを、ジョアンもリアンナも彼が赤ん坊のときからよく知っていた。ことにリアンナは養育係として幼少期から彼の世話をしており、自身に子供がいなかったせいもあって実の息子のように可愛がっていたのだ。
そんなふたりは、帰還してからのティリアンの変わりように胸を痛めていた。戦場での過酷な日々と、かつての絆を取り戻せないまま兄を永遠に失ったことで、ティリアンは以前の彼とはすっかり変わってしまっていたのだ。
冷ややかでにこりともせず、他人を寄せつけない透明の壁のようなものを自分の中に築いていたティリアン。そんな彼が、ルーシェと楽しそうに言葉を交わし、あまつさえ笑い声まで上げていた。わざわざ、ルーシェのために自分も厩舎まで足を運ぶ途中で。
ティリアンは気づいていなかっただろうが、ジョアンはふたりが玄関から出ていったあとも、その様子を目で追っていた。じっと視線を注いでいると、ふたりでぽんぽんと言葉を交わし合ったり、おかしな歌を歌うルーシェにティリアンが吹き出したりと、なんともなごやかなやり取りが交わされているのが分かった。
じきにその姿は見えなくなってしまったけれど、きっと厩舎でもふたりはあんなふうに過ごしていたに違いない。
「夕方、ロジャーをつかまえて聞いてみたのだ。厩舎でのティリアン様はどんなご様子だったのかと。そうしたら、ロジャーも言っていた。お戻りになられてからこのかた、あれほど表情の柔らかいティリアン様は見たことがなかったと」
「まあ……」
「大はしゃぎするルーシェに目を細め、微笑ましそうに見守っておられたそうだ。そのうちテンペストに乗せてやろうとまで口にされたらしい」
「テンペストに……? どういうことかしら」
「ご自分がお乗りになるときに、ルーシェも一緒に乗せるということなのだろうな。ルーシェの喜びようがなんとも微笑ましかったとロジャーは言っていた。彼もルーシェのことがずいぶん気に入ったようだな。物怖じしない、愛嬌のある子だと言って」
リアンナはくすりと笑い、「あの子を気に入らずにいるのは、難しいですからね」と言いながらパンを小さくちぎった。
「料理人たちはティリアン様を厨房に連れてきて以来あの子をすっかり甘やかしていますし、正直に言うと、私もあの子が好きですよ。リアンナさんこんにちは、今日もいい天気だね、と微笑みかけてくるあの子を見ると、なんとなく……そう、可愛いと思ってしまって」
「きっと、ティリアン様もそうなのだろうな。あの方のまわりにルーシェのような子はほかにいない。思えばティリアン様は、何の気兼ねもなくざっくばらんに会話を交わせるような関係の方を、ほとんど持っておられないから」
「ハーディス様とエレナ様くらいですものね。あとは、たまに訪ねてきてくださる、ローレンス様くらいのものでしょうか」
寄宿学校を出てすぐに軍に入ってしまったティリアンには、社交界に友人と呼べる存在がほとんどいない。寄宿学校時代に親しかったアディントン侯爵家の跡取り息子であるハートフォード卿オリヴァー・ローレンスなどの数人の友人たちと、かろうじて交流が続いているくらいのものだ。
まだ喪が明けておらず華やかな場に出る機会もないティリアンは、パーセル伯爵やハートフォード卿がときどきやってきて話をしていく以外には話し相手もいないこの屋敷で、いつも黙々と仕事に励んでいる。
要するに、今のティリアンにはまともな話し相手がほとんどいないのだった。使用人は言うに及ばず、ともに仕事をしている秘書や顧問弁護士も彼とは立場が違う人間だから、対等に話をすることはできない。
そんな中、仕事の依頼はされていても主従関係にあるわけではない独特な立場のルーシェが、唯一、身分の上下や社交界のしきたりなどに縛られずにティリアンと話ができる存在になりつつあるのだろう。
「ティリアン様も、なんとなくあの子とうまが合うのだろうな。こびへつらうことも、へりくだることもされず、気軽に言葉を交わせる相手だからというのが大きいのだろうが、それを差し置いても、あのふたりはどうやら気が合うようだ」
「不思議なことですわね。軍人だった公爵家の当主と、貧民街から来た情報屋の少年が、そんなふうに仲良くなるなんて」
「それも相性というものなのだろうな。なんにせよ、あの子がティリアン様によい影響を与えているのは確かだ。ありがたい限りだよ」
「ティリアン様から笑い声を引き出すなんて。本当に、ルーシェには感謝しないといけませんわね」
ジョアンはリアンナとうなずき合い、ささやかな祝いの意味を込めてワイングラスをかちりと触れ合わせた。
本編には出てこない設定ではありますが……
・ジョアンとリアンナはいとこどうしで、代々公爵家に仕えてきた一族の出です。小さなころから見知っているので親しい間柄です。
・ジョアンはリールズ公爵領に妻と娘がおり、息子は公爵家の別の所領で管財人を務めています。
・リアンナは若いころに夫に先立たれたため、幼いティリアンの養育係として公爵家に仕えることになりました。




