ルーシェと馬 2
「ど、どうしたの、公爵様」
「いや、なんでもない。……さあ、よかったら食べなさい」
「うん! ありがとう!」
ルーシェはさっそくお茶請けのパンに手を伸ばした。ぱくっとひと口かじり、至福そのものの表情でうっとりと目を閉じる。ティリアンは今までこれほど幸せそうにものを食べる人間を見たことがなかった。
「君は本当においしそうに食べるな」
「だってこんなにおいしいんだよ? おいしさのさざなみが身体中に広がっていくのが分からない?」
「……」
食べ物を褒めたたえる語彙の豊富さにまた笑いが込み上げる。
「その語彙の豊富さと熱心さで女性を褒めたたえられたら、君は将来、ものすごくもてるだろうな」
「今だってもててるよ、僕」
ルーシェは口の中のパンを咀嚼して飲み込むと自信たっぷりに言った。その自信はどこから来るのだろう。そう思ったのを悟られたのか、ルーシェが言葉を継ぐ。
「僕は言葉を惜しまないたちだからね、女の人にもてるんだ。将来性も十分だし。今はまだちょっと子供だけど、大きくなったら、きっとリドリーと同じくらい……いや、もっと女の人に追い回されるくらい大人気になるって、近所のお姐さんたちからも言われているもの」
「リドリーはそんなに人気があるのか?」
背の高い、大柄なリドリーを、ティリアンは思い浮かべた。確かになかなか整った人好きのする容貌をしている。
「リドリーは僕らの住んでるあたりじゃ一番もてる男だったんだよ」
ルーシェはふたつめのパンをかじりながら自慢そうに胸を張った。
「ほう。なぜ?」
「そりゃあ、完璧だからさ、リドリーは。見た目もいいし、性格もいい。何より、まともな商売でちゃんと稼いでる。南街区ではそれはかなり難しいことなんだ」
「なるほどな」
貧民街でまともな仕事にありつくのが難しいだろうということは、南街区のことなどほとんど知らないティリアンですら見当がつく。
「まあ一番は、賭け事狂いでもなければ酒浸りでもないってとこかもしれないけどね。貧民街じゃ、そのどっちかに……いや両方に、かな? とにかく溺れる男が多いんだ」
「賭け事? 金がなくてもできるのか?」
「もちろん、お貴族様みたいに高級な賭博場で優雅に楽しむような賭けじゃないよ。酒場のテーブルや路地裏なんかではした金を賭けるだけのサイコロ賭博だけどね、いったん賭け事に取りつかれた奴が、まあどれだけのめり込むか。あっと言う間に有り金がなくなり、借金に手を染め、そしてその借金のかたに後ろ暗い仕事をする羽目になり……そういう奴らの末路はたいてい決まってる。悪い奴らの使いっ走りになって使い捨てられ、そのうちどこかの路地に倒れて野垂れ死ぬか、ディエル川に浮かぶか、そんなとこだ」
「……そうか」
貴族のあいだでも賭け事にのめり込む者は少なくない。そういう輩は財産をすっからかんにしてしまい、借金を重ねたあげく、屋敷や領地をその借金のかたに取られて没落していく。どこも同じなのだな、とティリアンはしみじみうなずいて紅茶を飲んだ。
ルーシェもつられたのか紅茶のカップに手を伸ばして飲もうとしたが、口をつけてみて「あつっ」と残念そうな表情になった。どうやら熱いものが苦手らしい。
「ミルクを入れてやろうか?」
「あ、ありがとう。お願い」
ルーシェのカップにミルクを注いでやる。ルーシェはそれを見ながら話を続けた。
「酒浸りになるやつも多いんだよね。たちの悪い男は、酔っては家族に暴力をふるったりもする。そういう心配もないリドリーは、もうほんとに、女の人にとって完璧な存在なんだよ。そこらじゅうに、リドリーの気を引こうっていう女の人たちがあふれてたもの」
そしてミルクが入った紅茶をひと口飲み、再びぱああっと幸せそうな表情になった。なんだか可愛い。
「過去形なのか? 今は?」
「結婚してからはおさまったんじゃないかな。リドリーは奥さんがいるのにほかの女性と関係を持つような男じゃない。みんなもリドリーの誠実さが分かってるから、無駄なことはしないんじゃないの。近所のお姐さんによると、リドリーが結婚したときには南街区に女たちの涙の雨が降ったらしいよ」
三つめのパンを手にしながら、リドリーが結婚するまでは僕もずいぶんおまけで得したものだけどね、とルーシェは付け加えた。
「おまけ?」
「そう。僕がリドリーの弟で、たったひとりの家族で、リドリーにすごく可愛がられてるってことはみんな知ってる。だから、僕に気に入られたら有利なんじゃないかって、リドリーを狙っていた女の人はみんな、僕にとってもよくしてくれた。まあ僕がその推測を助長するような発言をしたってこともあるけど」
「……ははっ」
こらえきれずに笑ってしまったティリアンに、ルーシェもにやっと笑ってみせた。




