イングラム邸への訪問 8
「私も芸術の世界に詳しいわけではないが、誰かに師事するときに、同時に別の師匠にも習うなどということはないように思う。どちらの師匠に対しても礼儀を欠くだけでなく、教わることがすべて一致するということもありえないだろうから、無用な混乱を招く可能性が高い」
「なるほどね」
「そもそも、イングラムも言っていただろう。師匠が弟子のもとに出向くなどありえない、と。だからタイラーのもとを訪れていたという男性は、師匠という立場にあった者ではないと考えるのが自然だ。考えられるのは……同僚の歌手か、それとも練習に付き合わせるためのピアニストか……そんなところではないだろうか」
「うーん、ほかの可能性はないかな。例えば、お兄さんとかどう? お兄さんならピアノも上手だったはずでしょ。伴奏をしていた、とか……」
ルーシェリアの意見に、しかしティリアンは首を振った。
「兄はリールズ公爵という地位にあった人間だ。公爵ともあろう者が中央街区の一市民の住居に足を運ぶなど、ありえない。用があればタイラーから出向くはずだ。後援者たる貴族が、支援している若い歌手のもとにみずから訪れるなど、師匠が弟子のもとに出向く以上におかしいだろう」
「それもそうか。このあいだ、お兄さんもひとりでふらっと出ていくことがあったってリドリーが聞いてきたから、そのことが頭にあって、なんとなく関係づけてしまったけど……あ」
そこまで言ってから、ルーシェリアはその証言には続きがあったことも思い出した。ランドールの近侍は、そういう外出から戻った彼の衣服が、一度外で脱いできたように思えることがあったと言っていたのだ。
ルーシェリアがそのことを思い出したのが分かったのだろう、ティリアンが苦笑する。
「その外出の行き先はおそらく娼館だったのだろう。その証言ひとつをとっても、タイラーのところに行っていたはずがない。ピアノを弾くのに服を脱ぐ必要があるとは思えん」
「はは、そうだよね。じゃあ、同僚の歌手の人たちに、もう一度聞いてみたほうがいいのかなあ。タイラーの家に行ってピアノを弾いたことがあるかって。そうしたら、それが誰だったのか分かるかもしれない」
「君はその歌手たちにすでに話を聞き、タイラーの行方について彼らが何も知らないことを確認しているのだろう? その人物が分かったところで、新しい情報が出てくるものか?」
ティリアンのもっともな指摘に、ルーシェリアはうーんと唸った。
「だよね……聞いても無駄か」
「残念ながら、タイラーにつながる情報は今のところこれ以上出てきそうにないな。そちらは諦めるか」
「うーん……まあ、諦めるというわけじゃないけど、しばらく置いておこう。意外と、そのうち何かひょんなことから新しい糸がたぐれるようになるかもしれないものね」
時間の経過や状況の変化で、膠着状態だった事態が動くこともある。待つことで新しい情報がもたらされることがあるという事例を、ルーシェリアはこれまでにも何度も経験してきた。そう話すと、「なるほど」とティリアンが感心したようにうなずく。
「ここは専門家たる君の意見を尊重しよう。この件については現時点でほかにできることもないからな。ひとまず別の方面から調査を進めるとするか」
「別の方面って?」
「兄と南街区についてのつながりを見つけたい。ひとり、調査したほうがよさそうな人物がいる」
「……あ、お兄さんのお友達だね。ギブソンって名前だっけ」
「そうだ」
南街区という言葉を出してティリアンが探りを入れたとき、不審な反応をしていたというギブソン。今度は彼を調査しようという心づもりらしい。
「私のほうでも彼と接触してみる。ただ、いきなり南街区のことなどを聞いたところで答えるはずがないから、当面は君にリドリーと協力して彼の行動を調査してもらい、その結果を待ってから動こうと思う」
「うん。要するに、彼の行き先を調べればいいんだよね?」
「そういうことだ。まあ、たいていはクラブか夜会か舞踏会か……そんなところだろうが、南街区にでも行くようなことがあればしめたものだ」
まあ、そううまくいくとは限らないがな。ティリアンは自嘲ぎみにそう言うと、懐から巾着を取り出してルーシェリアに渡してきた。受け取ってみるとけっこうな重さだ。
「これ、お金だよね」
「ああ。馬車を使って後を追ったりすることになるだろうから、経費がかかる調査になると思う。まずはそれを使うといい。足りなければ言ってくれ」
「ありがと」
手回しのよさと気遣いに感謝しつつズボンのポケットに巾着を入れた。上着の丈が長いので、外から掏られることはないはずだ。それでも十二分に気をつけて帰らねばとちょっと緊張する。
「君のことだからちゃんと持ち帰れるとは思うが、万が一身の危険を感じるようなことがあれば、迷わずそれを捨てて逃げるのだぞ」
まるでルーシェリアの心の中を見透かしたようなティリアンの言葉に、ルーシェリアははっと顔を上げた。
「捨てて逃げるって……」
「失われた命を金で買い戻すことはできないが、金があれば助かる命もある。君の命がその金で助かるなら安いものだ。また屋敷に来ればちゃんと渡すから、その金を惜しんで命を危険にさらすことは絶対にするな」
「うん……でも、僕がこのお金をこっそり懐に入れたりするとは思わないの? 襲われてなくしちゃったとか言ってさ」
ティリアンはじっとルーシェリアを見つめている。鋭い群青色の瞳がふとやわらぎ、口もとにほのかな笑みが浮かんだ。
「君は襲われたからと嘘をついてその金を手に入れるような子ではない。それができる君なら、初めて会ったときに私にエールをぶちまけるようなことはしなかっただろう」
「……あ、あれは……」
パーセル伯爵が調べていたことについての情報を売ってほしいと、あのときティリアンは結構な金が入っていたであろう巾着を見せて依頼してきたのだ。それを断って逃げ出したときのことを思い出し、ルーシェリアは顔を赤らめた。
「あのときは、ごめん」
「いや、君は悪くない。むしろ君のその矜持は尊いものだと思う」
「きょうじ……?」
耳慣れない言葉に戸惑って繰り返すと、ティリアンは、「自尊心や誇りという意味だ」と教えてくれた。
「君の中にはちゃんと自分なりの善悪の基準があって、それを誇りを持って守っているということだ。君のそういうところは、とても好ましいと思っている」
「そ……そう、かな……」
「ああ。依頼人の情報を売り渡せと言われて本気で怒る君が、私を騙してその金を掠め取るとは思えない。君のことは信頼している」
真正面から『信頼している』と言われ、ルーシェリアの胸が嬉しさにふくらんだ。つい顔がゆるんでしまう。
「ありがとう、公爵様。とても嬉しいよ。あなたの信頼を裏切ったりはしない」
ルーシェリアにつられたのか、ティリアンの笑みも深くなった。穏やかな声で返事を返してくれる。
「私としても、仕事を依頼した相手が信頼に足ると分かるのは嬉しいものだ。今後ともよろしく頼む」
「うん、力を尽くすよ」
ルーシェリアはティリアンと笑みを交わし、依頼人との信頼関係が深まっていることに満足しながら、頭の中で次の調査計画を考え始めた。




