イングラム邸への訪問 4
「アリンガム卿も、それから先代のアリンガム子爵も、そうおっしゃっていましたよ。あの方々は音楽愛好家の一族に生まれ育ち、本物を聴き分ける耳をお持ちです。そのおふたりともが、兄君の演奏にいたく感銘を受けられ、まさに芸術の女神に愛された者だと賛辞を贈っておられたものでした」
ミスター・イングラムはつかの間目を閉じ、ランドールの奏でた音を思い出すかのように黙り込んだ。そして目を閉じたままゆっくりとまた口を開く。
「今でもよく覚えております。あのきらめくような音の連なりを……同じピアノなのに、あの方が弾くとまるで違う音が出るような気がいたしました。部屋の空気そのものを変えてしまい、空間のすみずみにまでひたひたと音符が満ちるようで……」
しばし言葉を切った彼が、「惜しい方を亡くしたものです」と頭を軽く振った。
「私が執筆している書物に、ぜひ先代公爵閣下のことも書き残したいものです。あ、もちろん、閣下の了承が得られればのことですが……」
「構わない。兄のことをきちんと書いてくれるなら、そうしてくれ」
うなずいたティリアンにミスター・イングラムはほっとしたように微笑んだ。
「それではぜひ。ともあれ、そんな兄君に才能を見出されたアルマンもまた、輝かしい才能の持ち主でした。まだ若くて経験も練習も足りず、身体も細くてまだまだ完璧な声を出せるまで円熟してはいませんでしたが、どちらも時とともに解決するであろう問題でした。何より彼は歌うことが本当に好きだった。私は弟子を彼以外に持ったことはないので分からないが、練習しすぎるなと弟子を止めることはあまりないのではないかと思いますな、普通。だが彼は、私がそうして釘を刺さなくてはならないほど、歌うことに熱心でした」
「あんまり練習しちゃだめなの? なんで?」
「ほかの楽器と違い、声楽はいわば人間の身体そのものが楽器だと言える。だから楽器とは違って一日中練習しているなんてことはできない。酷使しすぎると喉を潰してしまうのだ。もちろん、風邪を引いてもいけない。たいそう繊細なものなのだよ」
「へえ、そうなんだ。ありがとう、教えてくれて」
素朴な疑問を口にしたルーシェリアに、ミスター・イングラムは丁寧に理由を教えてくれた。確かに言われてみればその通りで、一日中ずっと声を出して歌っていれば喉もおかしくなるだろう。
「じゃあ、ここでの練習時間も、そんなに長くなかった?」
「そうだな、だいたい1時間から1時間半くらいか。歌の稽古なぞみんなそんなものだ」
「タイラーは休まず来ていたか?」
今度はティリアンが質問をした。はい、とミスター・イングラムはうなずく。
「おそらく一度も休まなかったと思いますな。熱心に取り組んでおりました」
「確か去年頃にロナージュ歌劇場の舞台に立ったとこの子から聞いたのだが、そのことは知っているか」
「ええ、もちろん。初日に花束を贈りました。おかげで、それまでこの私に師事していたことを秘密にしていたのに知られてしまい、羨ましがられて大変だったとこぼしていましたが……」
なるほど、とルーシェリアは納得した。控えめで自分のことを進んで話すことはほとんどなかったらしいアルマン・タイラーが、往年の名歌手の指導を受けていると自分から言うのは不自然だ。
黙っていれば知られることはないと思っていたのが、師匠の名前入りの花束が共同の楽屋に届けられたことでばれてしまったのだろう。そういう経緯であれば、共演した歌手たちがミスター・イングラムのことを知っていたこともうなずける。
「その出演は誰かの口利きだったのだろうか」
「いえ、少なくとも私は何もしておりませんよ。初めに彼にも言ったのです、自分の弟子だからとおまえを誰かに売り込むことはしないと。私はそういうやりくちを好みませんのでな」
「なるほど。まっとうな心掛けだと思う。だが、そなたがそういうことを好まないのは何か理由でもあるのか?」
その質問に、ミスター・イングラムは苦い顔をした。
「実力の伴わない歌手を舞台にあげるなど、百害あって一利なしです。私は長年、王立歌劇場でたびたび主役を担う栄誉に恵まれました。しかしそれは誰かに引き立てられたからではなく、自分の才能と努力ゆえのことであったと確信しています。劇場を埋め尽くす聴衆、その凄まじい圧力に対峙するとき、支えとなるのはおのれに対する自信ただひとつ。自分だけを恃むその自信なくして聴衆の圧力を跳ね返すことなどできません。満場の観客を自分の歌で舞台上の世界に引きずり込むのだという気迫は、正当な手段でそこに立たなければ生まれてこないものなのです」
「……ほう」
はっきり言い切ったミスター・イングラムに、ティリアンが感心したようなまなざしを向ける。




