イングラム邸への訪問 3
「ええ、今までそういう書物はなかったのです。このままでは、このディエリアが綿々と紡いできた芸術の素晴らしさが、歴史の闇に埋もれてしまう。それを掬い上げ、先人たちの努力と栄光を蘇らせたいのです。そして彼らの努力の上に花開いた現代の芸術文化の概観も試みております。私のような者が取り組むには大それた挑戦ではございますが、これまで芸術の女神の恩寵を受けて生きてこられた身、いっそこの命の尽きるそのときまで女神にすべてを捧げようと、粉骨砕身の決意を固めている次第でございます」
(きっとその本のかなりの部分が、彼本人の努力と栄光を綴ることに費やされるんじゃないかな)
立て板に水とばかりに滔々と弁舌を振るうイングラムは目を輝かせている。難解な言葉遣いではあったが、なんとなく意味は取れたから、ルーシェリアはついついそんなことを考えてしまい、ちらりと斜め横のティリアンに視線を向けた。
ティリアンもちょうどこちらを見たところで、つかのま目が合う。ティリアンの瞳がおかしそうに細められ、一瞬口もとがゆがんだ。
彼はそれを隠すようにさりげなく口もとに紅茶のカップを運んだが、その手がほんのわずかに震えていたことをルーシェリアは見逃さなかった。きっと彼も同じことを思ったのだろう。そして笑うのをこらえているのだ。
「それは楽しみだな。きっと素晴らしい書物が出来上がることだろう」
まじめくさってティリアンが賛辞を呈している横で、ルーシェリアも澄ました顔で紅茶を飲んだ。公爵邸のものほどではないけれど、十二分においしい。
ミスター・イングラムは大貴族リールズ公爵家の現当主からの褒め言葉に満面の笑みを浮かべ、「身に余るお言葉でございます」と感激のおももちである。
「完成したあかつきにはぜひ閣下にも進呈させていただきましょう。書斎の片隅にでも置いていただければ望外の喜びでございます」
「ぜひ、送ってくれ」
「かしこまりましてございます。必ずや、お届けいたしましょう」
「ああ。……ところで、アルマン・タイラーのことをもう少し尋ねてもいいだろうか。そなたが彼が今どうしているかを知らないのは分かったが、指導していたあいだのことでいい。彼のことを教えてくれないか?」
「ご質問いただければ何なりと。どんなことをお聞きになりたいのでしょうか」
本題に入ったティリアンに、ミスター・イングラムも真面目な顔になって姿勢を正した。そうだな、とティリアンが答える。
「アリンガムから紹介され、その才能を認めて弟子にしたということだが、具体的にはどのように指導していたのだ?」
「週に二度、この屋敷に足を運ばせ、音楽室にて指導いたしておりました。私が若かりし頃に学んだ歌曲集を渡し、それを1曲ずつ歌い込んでいくのです。発声法や古語の発音なども指導いたしました」
「……え、ちょっと待って」
思わずルーシェリアは声を上げた。ふたりの目がいぶかしげにこちらに向けられる。
「どうした、ルーシェ」
「あの、話に割り込んじゃってごめんなさい。でもひとつ聞きたいことがあって。あなたは、タイラーさんのところに行って歌を教えていたんじゃないの?」
ミスター・イングラムは、ティリアンが連れてきた少年――貧民街の子ネズミにしか見えないであろうルーシェリアが自分に話しかけてきても不快な顔をしないだけの礼儀は持ち合わせているようだった。眉をひそめることもなく、「いいや」と首を振る。
「弟子の家に師匠が赴くなど、聞いたこともない。伝言を遣わしたことならあったが、私が彼の家に直接足を運んだことはないぞ。そもそも、私は足を痛めて以来、あまり外には出歩かないようにしておってな」
「そうなんだ……じゃあ、彼の家に来ていた師匠とおぼしき人って……」
「それが誰かは知らんが、少なくとも私でないのは確かだ」
「そっか……」
意外な事実に考え込みそうになったルーシェリアに、ティリアンが「ルーシェ、そのことは後で話そう。まずはイングラムの話を聞きたい」と話を戻した。
「イングラム、彼はどんな弟子だった?」
「熱心で吸収が早くて、素晴らしい弟子でした。もともと音楽教育など受けていなかったと聞いて、驚いたものです。彼の後援者だった、先代のリールズ公爵閣下……あなたの兄君ですな、その方に一から教わったと聞きましたよ。兄君は音楽に造詣が深く、ことにピアノを愛し、本職の演奏家さながらに弾きこなしておられましたから、そうかと納得したのです」
「なるほど。幼い頃は音楽には縁がなかったようだと」
「そのようですな。まともに学ぶようになったのは兄君と知己を得てからだと言っていました。それまでは、ただ耳から聞いたメロディをそのまま歌にして歌っていただけだったそうです」
「そんな青年に、兄が教えていたのか。よほど彼に目をかけていたのだな」
ティリアンがつぶやく。それはもう、とミスター・イングラムは少し笑った。
「兄君は彼の才能を確信しておられました。自らも本物の才能をお持ちだった兄君だったからこそ、アルマンの才能を見抜くこともおできになったのでしょうな。私も何度か、アリンガム邸での音楽会の折に兄君のピアノ演奏を聴かせていただいたことがありますが、それはもう素晴らしいものでした。まさに真の芸術家のひとりであったと申せましょう」
「……そうか」




