イングラム邸への訪問 1
往年の名歌手ミスター・イングラムの住む場所は、少し歩けば中央街区になるといった北街区の南ぎりぎりのところにあった。ルーシェリアがこのあたりに来たのは初めてだ。
そこは田舎の地主階級の人々が街屋敷として住んだり、商売で身を立てた大商人たちが成功のあかしとして屋敷を求めたりする場所だという。
上流階級の人々で構成されている社交界に出入りするためには、北街区に住んでいるということが絶対条件で、いくら金があっても中央街区にしか屋敷のない者に夜会や舞踏会への招待状は届かないそうである。
つまり、上流階級に属したいと願う者は、何をさておいても北街区に居を構える必要があるということだ。ミスター・イングラムは見事にそれを叶えたことになる(と、ティリアンが馬車の中で教えてくれた)。
「ここ?」
「ああ」
屋敷からここまで、ルーシェリアはティリアンにまたしても馬車に乗せてもらった。
二度目でもやっぱりはしゃいでしまい、ティリアンに苦笑されていたような気がするが、そんなことは気にしてなどいられない。ルーシェリアは今日も豪華な馬車の内装を存分に楽しみ、窓に張りついて外の景色を楽しみ、すっかり満足して馬車を降りた。
しかも今日は新しい屋敷に入れるのだ。見たことのない屋敷にティリアンのおともで入れるなんて嬉しくてたまらなかった。なにしろティリアンといれば、追い出されることも邪険な扱いを受けることもないのだから。
「……えらくご機嫌だな」
こちらをちらりと振り返ったティリアンが呆れたように言う。だがその口もとは少しゆるみ、ティリアンがけしてそのことを不快に思っていないのは感じられた。だからルーシェリアはありのままを答えた。
「すごく楽しみなんだ。知らないおうちに、しかもご立派なお屋敷に、こんなに堂々と入れるんだもの。初めてのところに行くのって、わくわくするよね」
「……そうか」
君は好奇心が強い子猫みたいだな、とティリアンがふっと笑った。
(あ、笑った)
雲間から一瞬だけ日光が差したかのような、つかのまの微笑ではあったけれど、たしかに今、ティリアンは微笑んだ。
最近だいぶお互いに打ち解けてきているのだろう、彼の表情が以前よりもよく動くようになり、こんなふうにたまには笑みを浮かべるようになってきた。
依頼人と良好な関係を築けつつあることに嬉しくなってルーシェリアも笑顔になり、はずんだ足取りで彼の横をついて歩く。
ティリアンは玄関扉への数段の階段をのぼり、扉についたノッカーをかつかつと鳴らした。ややあって、扉が開く。
「いらっしゃいませ。リールズ公爵閣下でいらっしゃいますか」
「ああ、そうだ」
なんとなくジョアンに似た雰囲気の、執事らしい初老の男性が、深々と礼をしてティリアンを迎えた。
「このたびは足をお運びいただき恐悦至極に存じます。主人が先ほどからお待ちかねでございます。どうぞこちらへ」
ティリアンの横にいる自分につと視線を移した彼は、しかしもちろん、出ていけなどとは言わない。公爵たるティリアンが連れてきているのだから、黙って通すしかないのだ。彼の視線に気づいたティリアンがルーシェリアの肩をぽんと叩いた。
「この子は私が雇っている情報屋の少年だ。彼にも話をさせたいので連れてきた」
「は、かしこまりました」
自分ひとりならこんな屋敷の正面玄関から招かれて入るなどありえない。ルーシェリアは初めての経験を内心で存分に堪能しつつ、おとなしくティリアンの後ろにつきしたがって中に入った。公爵邸の壮麗な玄関ホールとはもちろん比べるべくもないが、なかなかに立派なものである。
入った瞬間に目に飛び込んでくるのが、正面にかかげられたものすごく大きな肖像画だ。王様のような豪華な衣装と毛皮の縁取りをほどこしたマントを身に着けた恰幅のよい男性が、片手を上に向け、片手を腰に当てたポーズで額縁の中に納まっている。
絵はその一枚だけではなかった。玄関ホールのほかの場所にも、執事に導かれて歩く廊下にも、ずらりと数多くの絵がかけられている。どれも同じ男性が描かれているようだ。
「この絵はすべてイングラムを描いたものか?」
ティリアンが執事に質問した。その通りでございます、と執事がかしこまって答える。
「主人がこれまで演じてきた数々の舞台を、絵にしたものでございます」
「なるほど」
ふーん、とルーシェリアも興味深くその絵を眺めた。たしかに、同じ男性がいろんな衣装を着て、いろんなポーズを取っている。どれもオペラの一場面なのだろう。しかし。
「……ここのご主人、よっぽど自分が好きなんだね」
執事が客の訪れを知らせに少し先に行ったすきに、ルーシェリアは小さくささやいた。ティリアンが思わずといった様子で吹き出す。そして同じくらいの小さなささやき声で答えた。
「……そのようだな」
「この大量の絵は、いわゆる自己顕示欲の発露ってやつ?」
「……ルーシェ、君の言う通りなのは認めるが、しばらく口を閉じていてくれ。笑いたくなって困る」
「分かった。公爵様の威厳を保つために黙ってる」
きゅっと口を押さえてみせると、ティリアンの口もとがまたおかしそうにゆるみ、それから取り繕うようにきりりと引き締められた。執事が戻ってきたのだ。
「主人はそちらの客間でお待ちです。どうぞ」
ティリアンは尊大な貴族のように鷹揚にうなずき、ゆったりとした足取りでそちらに歩いていく。ルーシェリアももちろんあとに続いた。




