Lv146「火トカゲの姿焼き」
マルクは軍人であると共に一級の剣士であった。吹きつけられた紅蓮の炎を前にして、瞬間的に身体を丸め、被害を最小限に抑えたのだ。マルクは虚空で回転しながら、長剣を振るうとサラマンダーの前頭部へ斬撃を見舞った。燃え盛る火の玉になったマルクは一矢報いたと凄惨な笑みを浮かべた。深々と抉られたサラマンダーの表皮。緑色の体液が霧のようにパッと舞った。
蔵人はマルクが砂地に落ちて転がるのを見ると、掴まれていた襟口の指を振り切って駆け寄った。ポルディナの顔が悲痛に歪む。彼女としては、主を業火の前に晒すことなどもってのほかだったのだ。彼女の気持ちを忖度している暇はない。ヤケドを回避するためには窒息消化が必要だった。燃焼の三要素のひとつである酸素をせき止めるのである。
「持っててよかった乙四免許」
蔵人は、外套を肩から素早く剥ぎ取ると足元の砂を掻き集めた。それから、集めた砂を火だるまになったマルクの身体に叩きつけた。燃焼時間が短かかったせいか、ヤケドは軽微なものだ。肩を貸して立ち上がらせる。気ばかり焦って、集中力が敵から乖離した。
サラマンダーは無防備になった蔵人たちへと、傷をものともせずに肉迫する。
その攻撃を遮らんと、カレンが鋭い矢を続けざま放った。
鋭い矢は、二本ほど背面に突き立つが怪物はひるみもしなかった。
速度は落ちない。タックルをまともに喰らえばタダではすまなそうだ。
「トカゲの分際で図に乗るではないわ!」
蔵人たちをかばうように立ちふさがったドロテアが、両手に持ったアスカロンを水平に振るった。銀線が平行に流れサラマンダーの鼻先をいちじるしく傷つけた。粘度の濃い体液がびゅうびゅうと音を立てて吹き上がる。
「なんじゃと!」
だが、元来痛覚自体存在しないのか、サラマンダーの突進が止まることはなかった。
棒立ちになったドロテアをひと飲みにせんと、サラマンダーが口を開けて襲いかかる。
ドロテアの顔から血の気が引いた。
この危機を救ったのは、横合いに回っていたポルディナだった。彼女は、握り締めたウォーハンマーを土手っ腹めがけて力任せに叩き込んだ。
ごうんと、銅鑼のような鈍い音が鳴った。怪物の巨躯は大きく左にゆらぐと、インパクトによって横倒しとなった。地響きが唸り、砂が濛々と辺りに舞い飛び、周囲に立ち篭めた。危機は去ったかに見えた。
息つく暇もなく、砂塵の中から真っ黒な舌が矢のように撃ち出された。
ドロテアは素早く斜めに翔ぶが、背後に意識がいっていたため、遅れた右足首がサラマンダーの舌に絡め取られた。シニヨンがほどけ、はちみつ色の髪が流れた。
ドロテアの足首からぶすぶすと白煙が上がる。
肉の焼ける臭いが鼻を突き、蔵人の全身は恐怖で総毛立った。
「クソッ! 待ってろ、いまいく……!」
マルクが身震いをして砂を払い落とすのが視界の端に映った。
蔵人が長剣を抜く暇もなく、ドロテアを絡め取ったサラマンダーの舌が虚空に円を描きはじめた。面白半分に振り回しはじめたのだ。
やがて、旋回がピタリとその場に固着したかと思うと、宙吊りにされたドロテアは足首ごと振られて地面へとしたたかに叩きつけられた。衝撃で内蔵の一部を傷つけられたのか、薄い唇から一筋の血が流れる。意識を手放したドロテアをサラマンダーが再び虚空へと釣り上げた。トドメの一撃を狙っているのは明白だった。
「やああっ!」
これに猛然と斬りかかったのは、リザである。
黒い弾丸は神剣エスペラを鋭く振るって、ドロテアを繋ぐ舌を一瞬で切り離したのだ。
落下するドロテアに向かって蔵人は駆けた。
両手を伸ばして彼女の身体を受け止めると、すぐその場に横たえた。
「ドロテア、ドロテア!!」
「そんなバカ声を出さずとも大丈夫じゃ。とっさに、守護の楯を使ったからの」
「けど!」
「わらわのことは、いい。それよりも、早く皆に加勢せい」
「……わかった。俺たちが戦ってる間に、できるだけ遠くに離れろ」
蔵人はドロテアを寝かせてから、背後に向き直って走り出した。視線を転じれば、サラマンダーへ群がるようにしてポルディナたちが取り囲んでいた。
隙を見て、ポルディナが戦鎚を撃ち込むが、打撃に耐性があるのかそれほどダメージを受けているようには見えなかった。攻撃を避ける気配すらないのだ。歯を剥き出して吠えるポルディナはまるで巨像にじゃれつく子犬のようなものだ。
ルールーが腰を落としてナイフを放ったのが見えた。きらりと白い輝きを見せて、ナイフがサラマンダーの前足に吸い込まれていく。激しく舌打ちする音が聞こえた。確かに、傷つき血は流れているのだが、押しているという気持ちにまるでなれない。
サラマンダーが素早く回転してを尾を振るった。近くにいたポルディナが直撃を受けてぽーんと転がされる。追撃をかけるように、サラマンダーは足音を踏み鳴らして落下地点へと移動していく。
蔵人は黒獅子を引き抜くと、背後から駆け抜けるようにして鋭く振るった。
サラマンダーの左側面を刃が長々と尾を引くようにして切り裂いたのだ。蔵人は顔から背中にまで黒っぽい体液を浴びながら、ダメ押しとばかりに巨獣の右前脚を斜めに薙いだ。襲いかかるスピードがグンと下がった。背後からは追いすがるようにして飛びかかる、マルクとリザの姿が見えた。
「おい、ポルディナぁああッ!!」
蔵人が駆け寄ると、ポルディナはスカートの砂を払って黒い瞳をギラギラと輝かせた。
戦狼族の耐久力は人間のそれをはるかに凌駕する。トラックに激突されたのと同等の衝撃を受けても骨ひとつ折れていないのだろう。
むしろ、主が危険に近づいたことのほうが、彼女に軽い恐慌を起こさせた。彼女は犬歯を剥き出しにして猛々しく吠えた。
「ご主人さま。おさがり下さい! ここは危険ですッ!!」
「んなこといってる場合じゃねーだろ!」
(ってか、こいつどんな腕力してんだよ……!!)
興奮状態のポルディナは手加減ができないのか、突出しようとした蔵人を容易に片手で押さえ込んだ。腰の辺りをぎゅうと掴まれ、一歩も前に出ることができない。揉み合っているうちに、蔵人はあお向けに押し倒される形となった。
「あんたたち、いいから、とっととそこをどく!」
離れた後方から矢を放っていたカレンが鋭く叫んだ。
「風王の槍!!」
カレンは手にしたエルフィンボウを頭上にかざすと、風属性の攻撃魔術を解き放った。
白く棒状に収束した風の槍が大気を割ってサラマンダー目がけて撃ち出された。
風の槍は綺麗なアーチを描いて飛ぶと、サラマンダーの真正面へ突っ込んでいく。
蔵人たちが慌てて射線上から飛び退くのと、怪物が炎を吐き出すのは同時だった。
「んなっ!?」
カレンが目を剥いて唇を尖らす。長さ二メートルほどの風で構成された槍が、サラマンダーの吐き出された炎に飲まれ、かき消されたのだ。
カレンはムキになって、二発目、三発目を繰り出すが、怪物の口から吐き出される炎は途切れることなく魔術の風を飲み込み続けた。
「あ、あたしの魔術が……!」
魔術行使は異常なほどの精神力と集中力を要する。立て続けに、三発もの風王の槍を放ったせいか、カレンは強烈なフィードバックを受けて、その場にくたくたと座り込んだ。
サラマンダーの反撃はここからはじまった。かの巨獣は全身を震わせると、前触れもなく多量の熱を放射しはじめた。サンショウウオに酷似した身体が、赤と黄色に激しく明滅する。光軸が四方八方に広がり、射線上の物体は芯から煮えたぎるように熱くなった。
「あぢっ、あぢぢぢっ」
蔵人は髪に燃え移った火をはたきながら、ポルディナをお姫さま抱っこしつつその場から全力で飛び退った。
マルクや、リザ。そして、共和国の兵士たちも囲みを解いて大きく距離を取る。まるで火事場にいるような熱さだった。怪物の放射する熱線で顔の表皮が燃え盛るような痛みを感じはじめていた。激しい発光を続けるサラマンダーは溶鉱炉そのものだ。
「斬っても突いても、ウンともスンともいわねえ。難儀な野郎だ」
「ご主人さまっ」
蔵人は外套の中にポルディナを隠すようにして覆い、熱線から守った。
これ以上、戦闘を長引かせるのはマズい。
(決めるならば、一気にカタをつけないとケガ人が増えるばかりだ)
サラマンダーは熱線を放射させながら、再びにじり寄るように前進してくる。目に突き刺さるような光線の中で、もはや白熱しはじめた怪物を無理やり注視した。
(やっぱりだ。あいつの傷は、もう塞がりかけてやがる。能力なら、俺とたいして変わらねえってことかよ。反則技だ)
蔵人の中で考えが完全にまとまらないうちに、サラマンダーが再びどこまでも続くような暗渠をぽっかりと開いた。巨大な口中から、今度は続けざまに、ひと抱えもある大きさの火の玉が激しく射出された。遮蔽物のない岸辺である。棒立ちは死を意味した。全員は散り散りになって炎弾の雨から逃れようと、必死に回避行動を取った。
起き上がったドロテアが火炎砲弾を必死に撃ち放って、襲い来る業火のほとばしりの幾つかを相殺させたが、まさしく焼け石に水だった。機関砲にハンドガンで立ち向かうようなものである。蔵人はポルディナを横抱きに駆けつつ、刹那のときを逃さず考え続けた。
サラマンダーの巨体は鈍重ではあるが高い耐久力を持ち、少々の傷は瞬く間に修復してしまう力がある。身体は、ランダムに高温を発し、遠ざかれば吐き出す火球で狙い撃ちにされる。足を止めて、イチかバチかの斬り合いに出る。
蔵人は自分の不死性に自信があったが、ほかの仲間はいかにも脆い。いつもどおりの泥仕合に持ち込めば、なんとかやれるという確信を持っていたが、自分が半死半生の状態になって皆が黙って指を咥えて見ているとは思えなかった。
「やりづらい……」
という部分がつきまとう。その点、ひとりで戦うときは気楽だった。敵を仕留めることだけ考える。自分の傷も命さえも勘定に入れない。
だからこそ、おもいきった行動が取れたしその結果として敵の意表をついて勝てたということも多々あった。心のどこかで結婚したのだから、自重しなければならないという声が上がる。
当然だ。
蔵人が死ねば、ここにいる皆も、屋敷にいる妻や子供たちも路頭に迷いかねない。自分はまともでないが、こんな己にくっついてくる彼女たちも、はっきりいって普通ではない。どこか、欠けているのだ。欠けている者同士だから引き合ってしまうのだ。互いに満たされない部分が大きすぎる人生を送ってきた。そもそもが、ここで勝つのは当然であり、その先にある世界樹まで到達し、どうしても枝を手に入れリネットの足を治さねばならないのだ。
「尚更だな」
効果的かつもっとも損傷の少ない方法を取る必要があった。
蔵人は飛びかう火球を避けながら、リザと併走している。もたついていたカレンを左脇に抱えると、砂を踏む込む足が深みを増した。
「リザ!」
「なんだっ」
「あいつの足止めをしばらくできるかっ」
「任せてなのだ!」
リザは威勢よく返事をすると、くるりと反転しながら死地に戻っていく。猶予はない。
「ポルディナ! カレン! 耳貸せっ」
蔵人は両脇に抱え込んだふたりにごにょごにょと耳打ちをする。
ふたりは覚悟を決めてうなずくと、蔵人の腕から離れ走り去っていく。彼女たちの退路を確保するため、ルールーが投げナイフで必死にサラマンダーを牽制する。
最後の反攻作戦がはじまった。
蔵人は長剣を構え直すと、サラマンダーの意識を引きつけるようにして、ジグザグに動いた。乾いた白砂の上を蹴り込むたびに、パッと細かな煙が舞い立った。天井と湖水と周囲を覆う異様な青さが瞳を打った。
燃え盛る無数の炎弾が尾を引いて突っ込んでくる。
転げるようにして、なんとかかわした。
乾いた音が鳴って、大地が割れんばかりに裂けて飛び散った。白く輝きながら、ひとつの砲台と化した怪物が意思を持たぬ機械のように弾を吐き続けている。
まばたきする暇はない。
熱風を正面から浴びせられ、眼球がひりつくように灼けた。
乾ききった風が表皮を瞬時に破壊する。近づくほどに熱気が増して、したたかに身体の前面を焼き焦がす。この時点では、剣を使うつもりはなかった。
細かく動いてサラマンダーの気をそらす。
うざったそうにしていた怪物がくるりと反転した。
背後は湖水。
己は死地に居る。
ここからが駆け引きが試される。命懸けの釣りは、七分通り決まった。サラマンダーがひと飲みにせんと突貫をはじめた。
蔵人は右側に飛んだ。鋭い動きのまま長剣を素早く動かした。
雷光のように閃いた切っ先は深々とサラマンダーの下顎を切り裂いたのだ。怪物の喉からついに絶叫が流れた。蔵人は背後に飛び退ると膝まで水に浸かった。蔵人が稼いだのは、ほんのわずかな時間であった。
けれども、リザが魔術を構成するのに充分であった。
「憑依完了。地霊召喚――毒沼!!」
これまでの戦闘でトランス状態に入っていたリザである。瞬間的に地霊を憑依させ、土属性の攻撃魔術を詠唱し終えた。褐色の指が指し示した地点に紋章陣が浮かび上がる。
サラマンダーの足元がたちまち茶褐色の泥濘に変化した。怪物の巨体は自重を支えきれず、たちまち横倒しになってあえぐ。沼地は、みるみるうちに黒く変色すると、ゴボゴボと音を立てて無数の気泡を発生させた。サラマンダーの立ち位置は、浜と波打ち際の狭間である。毒の沼地はたちまちうずを巻き、もがく赤黒い巨体をとらえて離さない。
「みんな、離れるのだ!」
リザの生み出した沼地は強力な腐食作用を持つ自然界には存在しない異物である。
これにはさすがのサラマンダーもこたえたのか、身をよじって湖面へとジリジリ退避していく。熱を帯びた全身から赤みがドンドンと薄らぎ色あせていく。
それは、怪物の神秘が溶けて無防備になった貴重な瞬間だった。
「ポルディナ、作戦変更だ! そいつを逃がすなッ!!」
「了解、我が主よ」
蔵人の叫びに応えて、湖中からポルディナが立ち上がった。彼女は、石舟を固定するアンカーを頭上で旋回させながら激しく吠えた。放られたアンカーはじゃらじゃらと鎖を鳴らし、大気を割って凄まじい速度でサラマンダーの背中へ飛んでいく。鋼鉄製のアンカーは湖面を波立たせながら、目標物に到達すると、その赤黒い背に深々と突き刺さった。当初の予定では、水に潜んだポルディナが隙を見つけてアンカーを打ち、サラマンダーを水中に引き込む。適度なところで水から上がる。手間が省けた、といったところだった。
ポルディナは水を掻き分けながら疾走すると、たちまち浜辺にたどり着いた。その白い細腕のどこにそんな力が隠されているだろう。ポルディナは手にした鎖に力を込めると真っ赤な顔で歯を食いしばった。鎖の輪はピンと張り、ひとつひとつのつなぎ目がたちまち割れそうなほど負荷がかかっている。耐久力がもつかどうかも賭けだった。
「いいぞ! 絶対逃がすなッ!!」
湖中へと逃げようとするサラマンダーは、いまや釣り上げられた魚同然であった。ポルディナの膂力はまさに起重機と同等である。均衡を保っていた綱引きは、戦狼族の力を完全に開放したポルディナに軍配が上がった。怪物の巨体は腐食性の毒にやられたこともあってか、その力を半減させている。ポルディナの髪は激しくほつれ、ヘッドドレスは吹き飛び、スカートの裾は引き千切れてだんだらになっていた。
「交代よ、犬っころ!!」
いうが早いか、疾風のように駆け寄ったカレンがポルディナの背を突き飛ばした。カレンがポルディナに代わって鎖を両手で握る。当然のごとく、綱引きの膂力においては勝負にならない。一方的にぐいと引かれたカレンの身体がふわっと宙に舞った。逃げるサラマンダーにしてみれば、カレンは塵のようなものだ。
けれども、この塵はたいそう役に立つ。
銀色の髪が虚空に踊る。カレンの唇がさもおかしそうにほころんだ。
「雷光螺旋擊全力射出!!」
鎖を握ったカレンの全身からまばゆい雷光が放たれた。
風属性の電撃魔術である。
突風が吹き抜けるようにして、伝わったいかづちがその先のサラマンダーを完膚無きまでに叩きのめした。
アンカーの刺さった赤黒い背が上下に大きくゆれている。
湖面は嵐のように波打ち、轟音が世界を支配した。
怪物の巨体が湖面の上で激しく乱舞する。肉が焼けただれ、筆舌に尽くしがたい臭気が鼻先を横殴りにする。
カレンは銀色の瞳を爛々と輝かせて、その身に残った全魔力を振り絞っている。
「今朝のメインデッシュはトカゲの丸焼きよッ!!」
やがて、無限に続くと思われた放電現象が不意に停止した。
発光に目を細めていた皆がその場に佇立する。
力尽きたカレンが崩れ落ちた。
同時に、蔵人は湖面に突き出た炭の小山を確かに目にした。
サラマンダーは雷光の力によって余すところなく焼き尽くされたのだった。
「えへへ、やたっ」
カレンは肘をついて顔を上げると、憔悴しきった右手で小さくガッツポーズを決めるのだった。
サラマンダーを倒した後は、たいして強いモンスターも出現しなかった。野営を引き払って進むうちに、蔵人たちを襲ったのはアメーバゲルという不定形粘液生物の亜種が、二、三回姿を現したのみで、それもこちらの人数を見るとすぐに逃げ出す程度であった。
「とはいえ、こちらの損害もずいぶんに多い」
蔵人は不死の紋章を持つ上に、今回の戦いではたいしたケガを負わなかった。
だが、それ以外の仲間は惨憺たる有様である。
マルクの率いる分隊は、女性兵士であるポリーナを除けば、もはやリカルドという若い男しか残っていない。カレンとリザは魔力を使い果たし歩くのが精一杯。ポルディナはあちこちに受けた打撲が響き、疲労の色が濃く、ドロテアに至っては右足首に大ヤケドを負った上、肋骨を確実に折っていた。ハッキリいって引き返すのも、
「難しい」状態であった。
「世話をかけるのう」
「バカをいうな」
蔵人はドロテアを背負いながら黙々と歩いている。常ならば、ドロテアのことに執着するマルクも疲労の極みに有り、黙りこくっている。積極的に話しかける気力も残っていないのだ。勝利したとはいえ、結局のところ十二人いた隊員は残り一名になってしまった精神的ダメージも大きい。もっとも、蔵人はそんなことどこ吹く風。やはり、召喚される人間は、精神も規格外なのであった。
「なあ、ドロテア……」
「なんじゃ、やはりつらいか? 降りたほうがいいか」
「そうじゃねえ、もっとひっつけ。そうじゃねえと」
「と?」
「おっぱいの感触がわからねえじゃねえか」
「……おまえは、本当にアホじゃのう。わらわに気をつかわせまいと、そんな戯言を」
「いや、背中におっきなメロンちゃんがむにゅむにゅして楽しいんだ。お、おほほ。そうそう。むにょむにょ、最高ですな。あっ、やばっ。チンコ固くなってきた。お、なんだ。マルク。その顔は。代わってはやらねえかんな」
「おまえ、すごい元気だな」
「いや、普通だろ。がはは」
「オレはいま、おまえのことちょっとすごいと思ってしまった」
「敬愛してもいいんやで」
「それはないから」
大洞穴を抜け、だらだらした坂を気が狂いそうな時間をかけて登りきる。次第に、キツい硫黄の臭いやムッとした熱気が遠ざかり、刺すような冷気が一同を襲ってきた。誰に教えられたわけでもなく、終わりが近いことを感覚的に皆が気づきはじめる。
坂の終わりは、不意にやってきた。
行き止まりの地点は周りが切り立った崖になっている。その上が、目指していたヴィルヘルム山のどこかであることは明白であった。吹き抜けの頭上には、無数に輝く星々が白っぽい光を放っている。ひどく荘厳で美しいものに感じられた。
「ここを登るのか」
誰となく口をついて言葉が漏れた。
目測で五十メートルはあろうかというほとんど垂直の壁は、素人にはとうてい歯が立たないように思えた。特にケガをしたり体力を失っている人間たちにとっては、難敵と戦う以上の苦痛をまず視覚から覚えるのだ。
「クランドさま。私はほとんど体力を失っておりません。ここはお任せ下さい」
ルールーは決意を込めた表情で進み出るといった。
「いけるか。なら、頼む」
「お任せを」
ルールーは着ていた冬用の防寒具を脱ぎ捨てると、ほとんど下着一枚になった。強い寒気の中で、引き締まったルールーの白い肌が輝いて見えた。無駄なぜい肉が一切ない美しい身体だ。マルクとリカルドは礼儀として目をそらしたが、蔵人は抜群の視力で食い入るようにルールーを見つめた。ルールーは蔵人の視線に気づくと、娘らしくはにかんで小さく手を振った。
「いけ。身も心もフラットなおまえなら、きっとやれる」
「ひどいやつじゃな」
ルールーは淡い星明かりの中、小さな岩の出っ張りに指をかけ、するすると登っていく。
惚れ惚れする身のこなしである。
ロッククライミングで重要なのは自重を支える筋力と適切な体重移動。経験に裏打ちされた技術、それと天性の才能であろう。身軽なルールーはまるで平地をゆくがごとく、するすると屏風のような崖を瞬く間に半ばまで登りきった。現代の人間であらば、メット・ハーネス・ザイル・カラビナ・ヌンチャク・ビレイ用具・ハーケン・ハンマーなど多種に渡る器具が必要であるが、ルールーはそれらのなにひとつ持っていない。魔術で道具を無限に圧縮するマジカルコンプレッションバックは、それなりにかさばるので不安定な位置では中身を取り出しにくいという欠点があり、装備していない。ルールーが肩にくくりつけているのは、荒縄でこしらえたいびつなロープのみであった。
ルールーは張り出したオーバーハングを巧みにトラバースして迂回すると、足場を上手く確保して、地上にロープを垂らした。
蔵人はロープを握るとある程度の重さのある縄梯子を背負ってルールーの後に続いた。
しばらくの時間をおいて、切り立った崖を登りきったふたりは穴の底に縄梯子を垂らし、下で待つ者に道を作った。特に蔵人は、自ら三度往復して、ドロテア・カレン・リザの三名を自ら背負い引き上げた。自らの疲れを微塵も見せずに、
だいじょうぶか、
しっかりつかまってろよ、
もうすぐだからな、
などと懇切丁寧に疲れきった女たちに励ましの声をかけ続ける。蔵人は基本、情に厚いのである。女たちはこういう細かな気配りに弱かった。三人とも無理をすれば、このくらいの壁など登れないわけもないのである。
けれども、お姫さま扱いされて嫌な気分になるはずもない。彼女たちは自らの意思で文字通り「お荷物」になることを望み、そして愛する男に背負われるひとときを堪能した。
「クランド、だいじょうぶか」
「あはは。こんくれー、平気だって」
さすがに三人目を引き上げた後は、疲労がドッと腰にきた。座り込んでいる蔵人に向かって、心配げにリザが顔を覗き込んでくる。
「にしても、寒いな」
「ぴとーっとするぞ。リザがぴとっとして、あっためるのだ」
「おおう。頬をくっつけんな。ひやっとするわ」
辺りはヴィルヘルム山中腹のどこかだろうと推察された。一面は真っ白な雪に覆われ、吹きつけてくる冷気に身震いをする。冷えた汗がみるみるうちに体温を奪っていく。ひとところに留まっているのは危険であった。おまけに、この場所は王国軍の支配領域である。のんびりするにはいささか不適格だ。
「けど、この大穴敵も知らないはずないだろうに。なんでノーマークなんだ?」
「クランドさま。最後の登りのスラヴは人間の手が入っていました。王国軍も、おそらくこの洞穴入口は既知のものかと」
ルールーが長耳をピクピク蠢かせながら不安そうに辺りを見回している。遺跡を踏破したというのに彼女の警戒はますます度を深めているようだった。
「たぶん、王国の兵も湖までは到達していたんじゃないか。けど、あのサラマンダーといい魚人の類といい、兵の損耗率を考えれば、ダンジョンを攻略しての奇襲策は割に合わないと思って捨てたんじゃないか」
マルクが腕組みをしながらいった。ヤケド治療のため、包帯で顔の右半面が覆われているのが痛々しい。巻き方が気に入らないのか、しきりに爪で引っ掻いている。適当に手当したポリーナはツンとそっぽを向いていた。
「マルクのいうとおりかもな。共和国と違って、篭城している王国軍は兵の補充ができない。攻撃にこだわるよりも、堅固な山の陣地を守っていたほうが有利だろうな。さて。いつまでここにいても意味がない。とっとと、この場をおさらばしようぜ」
「と、クランドのいうことは、もっともなのじゃが。どうやら遅すぎたようじゃ」
「ほへ?」
蔵人が立ち上がって周りを見回すと、木立の影から無数の兵士が湧き出てきた。気配を完全に消していたのだ。兵士たちの練度の高さが窺えた。
黒で統一した厚い外套の背に、聞き及んでいたエトリア王家のしるしである白いペガサスをかたどった紋章が縫い込まれていた。数はザッと見ても数百を超えている。蔵人たちを押し包むようにして、ジリジリと包囲の輪を縮めてくる。どう考えても斬り抜けられる包囲の厚みではない。腰骨から背筋を伝って脳天まで悪寒が走り抜けた。
「ご主人さま。血路を開きます。なにとぞお逃げください」
ポルディナはすでに死を決意している。
発する声に怯えも力みも悲壮さすら感じない。
まずい兆候だ。
下手に動けば真っ先に陣へと斬り込みかねない。
蔵人は彼女の腰を強く引き寄せると、静かにやめろとだけいった。
毛ほどの動きだけで破裂しそうな殺気が充満している。特に、ひと目で共和国軍の兵であるとわかるマルクたちは蒼白になっていた。
「王家に逆らう忘恩の畜生ども。よく、あの迷宮を踏破できたな」
黒い軍団を割って、ひとりの男が眼前に進み出た。着用する装備はほかの兵士と変わらないが、腰に下げた剣だけがひときわ目立って見えた。飛行帽のような毛皮の厚い帽子を着用している。整った顔立ちであるが、そこに弱さはない。一般的に娘たちが騒ぐような、いわゆる中性的な目鼻立ちであるが、刺すような金色の瞳や薄い唇に甘さというものが一切なかった。右目のすぐ下に深く抉れた古傷が残っている。歴戦の勇士である証であった。
「敵の大将自らお出ましとはな」
マルクが乾いた声でつぶやく。驚きと、幾らかの敬意が混じっていた。
「知り合いなんか?」
「知ってるもなにも。エトリアでこいつを知らない人間はただのひとりもいない。エトリア王国騎士団長にして、あの勇者アレクセイに唯一土をつけた男。フリストフォル・ロバーノフだ」




