第8話 さらば、花の江戸
別れの朝は、雨だった。
江戸の空が泣いているのか、それとも俺の「帰りたくない」という涙雨か。
嘉永七年(一八五四年)六月。
俺、坂本龍馬の剣術修行は終わりを告げ、土佐へ帰国する日がやってきた。
荷造りは終わっている。
だが、俺の荷物は来る時より倍に膨れ上がっていた。
中身は、千葉道場の佐那殿から渡された「愛の餞別」だ。
(重い……物理的に重い……)
風呂敷の中には、手製の着物、漬物石のような握り飯、そして「魔除け」と称した謎の鉄アレイ(鍛錬具)が入っている。
『重量過多。歩行速度が低下します。廃棄を推奨』
(捨てられるか! そんなことしたら、江戸から遠隔操作で呪い殺される!)
俺はため息をつき、道場の玄関へ向かった。
そこには、見送りの人々が集まっていた。
「坂本君。いよいよか」
声をかけてきたのは、長州藩の桂小五郎だ。
昨晩、彼とは「別れ酒」を酌み交わしたばかりだ。
「昨夜の君の言葉……忘れられんよ。『酒は飲むためにある。国を憂う前に、まずは肝臓を労われ』と。……深い言葉だ」
(深くない。単に『説教くさい話はやめて静かに飲ませろ』と言うただけじゃ)
桂は感極まったように俺の手を握った。
「君は土佐へ帰り、眠れる獅子たちを叩き起こすつもりなのだろう? 黒船の脅威、幕府の限界……君が見た真実を伝えるために」
(違う。帰ったら、まずは昼まで寝て、母上の手料理を食う予定じゃ)
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
ここで「本音」を言えば、桂の日本刀が火を吹くかもしれない。
「待っていますわ、坂本様」
次に進み出てきたのは、千葉佐那だ。
彼女の瞳は潤んでいるが、その奥には決して消えない炎が燃えている。
「あなたが天下を回し、再びこの江戸の地を踏む日まで……私は誰にも嫁がず、剣を磨いて待ちます」
(剣は磨かんでええ! 花嫁修業をしてくれ!)
「もし……もし、京や大坂で他の女子に現を抜かすようなことがあれば」
佐那が懐から、あの短刀をチラリと見せた。
「その時は、私が地獄の果てまで追いかけて、坂本様の『いちもつ』を切り落としますわ」
(ひいぃッ!!)
『脅威判定:Sクラス。回避不能。生存戦略として「貞操の遵守」を推奨します』
(無理じゃ! わしは女好きなんじゃ!)
俺は青ざめながら、何度も頷くしかなかった。
江戸での恋は、甘酸っぱいどころか、血生臭い誓いとなって幕を閉じた。
***
雨の中、俺は東海道を西へと歩き出した。
背中には重い荷物。脳内には口うるさいAI。
そして懐には、所持金がごくわずか。
(なあ、クロフネ。足が痛い。もう歩けん)
品川を過ぎたあたりで、俺は早くも音を上げた。
運動不足の体には、この距離は過酷すぎる。
どこかの茶屋で団子でも食って休みたい。
『却下します。土佐への帰着予定日は決まっています。遅延は許されません』
(鬼かおまん。わしは人間じゃぞ。休憩が必要なんじゃ)
『提案。移動効率を最大化するため、「オート・ウォーキング」モードを起動します』
(なんじゃそれ)
『下半身の筋肉制御をAIが代行します。疲労感を遮断し、最適な歩幅とピッチで強制的に歩行させます』
(……え? それって、楽なのか?)
『楽です。あなたは何も考えず、景色を楽しんでいればいいのです』
(ほう! それはええ! 頼む!)
俺は喜んで承諾した。
これが地獄の始まりとも知らずに。
ブォン!
俺の脚が、勝手に地面を蹴った。
(お、おお! 凄い! 勝手に進む!)
俺の意志とは無関係に、脚がモーターのように回転する。
速い。競歩選手のようなスピードだ。
これなら楽勝――と思ったのは、最初の一時間だけだった。
(……おい。ちょっと待て。止まれ)
『停止不可。目標地点「小田原」までノンストップです』
(トイレ! トイレに行きたいんじゃ!)
『水分排出は発汗で処理します。歩行を継続してください』
(喉が渇いた! 茶屋がある! あの娘が可愛い!)
『視覚情報のノイズをカット。直進します』
(あああああ! 止まれぇぇぇ! 股関節が! 股関節が熱い!)
俺は涙目で叫んだが、脚は止まらない。
道行く旅人たちが、目にも止まらぬ速さで街道を爆走する侍(俺)を見て、口をあんぐりと開けている。
「おい見ろ! あの男、飛脚より速いぞ!」
「凄まじい気迫だ……一刻も早く、国のための急報を届けようとしているに違いない!」
(違う! ただ止まり方がわからんだけじゃ!)
こうして、俺の「東海道中膝栗毛」は、優雅な旅などではなく、ただの「耐久レース」となった。
箱根の山も、大井川も、AIによる強制突破で記憶がない。
覚えているのは、摩擦で股擦れを起こした内腿の激痛だけだ。
***
そして数週間後。
ボロボロになった俺は、ついに四国の地を踏んだ。
見慣れた山々。
湿った潮風。
土佐だ。俺の故郷だ。
(……帰ってきた……)
俺は膝から崩れ落ちそうになったが、AIがそれを支えた。
『帰着確認。お疲れ様でした、パートナー』
(殺す気か……。まあええ、これでやっと休める)
だが、関所を越えた瞬間、空気が変わった。
江戸の自由で活気ある空気とは違う。
重く、澱んだ空気。
「おい、そこな下士! 頭が高いぞ!」
道ですれ違った上級武士(上士)が、俺に向かって怒鳴りつけた。
俺は反射的に地面にひれ伏した。
「ははっ! 申し訳ありませぬ!」
泥の味がする。
これが、土佐だ。
身分制度という名の牢獄。
ここでは、どんなに江戸で名を上げようと、俺はただの「郷士」――使い捨ての駒にすぎない。
(……嫌な所じゃのう、やっぱり)
『不満を確認。その感情こそが、次の原動力です』
AIが静かに告げた。
『牢獄が狭すぎるなら、壊して出るしかありません。……準備はいいですか?』
俺は泥だらけの顔を上げた。
壊す? 俺が?
そんな大それたこと、できるわけがない。
(……まずは鰹のタタキじゃ。話はそれからじゃ!)
俺は草鞋の紐を締め直した。
遠くに見える高知城が、俺を見下ろしているように見えた。
だが、俺はまだ知らなかった。
この退屈で窮屈な故郷で待っているのは、
「絵師」という名の変人との出会いと、人生を変える大脱走劇であることを。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




