第6話 軍鶏鍋と貧乏神
江戸の物価は高い。
土佐の田舎なら二束三文で買える大根も、ここじゃ金塊みたいな値段がする。
嘉永六年、冬。
北風が吹きすさぶ千葉道場の寮で、俺、坂本龍馬は餓死寸前だった。
腹が減った。
胃袋が自分自身を消化しそうなほど減った。
(クロフネよ……頼む。あの隠しておいた芋を食わせてくれ)
俺は布団の中で、脳内の同居人に懇願した。
だが、AIの返答は氷点下だった。
『却下します。あの芋は腐敗が進行しており、摂取すれば腹痛により「修行効率」が四〇%低下します』
(腹痛くらいなんじゃ! 空腹よりマシじゃ!)
『我慢しなさい。現在の所持金は三十六文。次回の仕送りまで、生存可能なカロリー計算を実行中……結論。水と空気で耐えてください』
(植物か! わしは光合成できんぞ!)
俺がのたうち回っていると、廊下の向こうから「悪魔的な匂い」が漂ってきた。
醤油と砂糖が焦げる、甘辛い香り。
そして、脂の乗った肉が煮える、官能的なまでの芳香。
軍鶏鍋だ。
「おい坂本! 起きているか!」
障子が開くと、そこには長州藩の桂小五郎が立っていた。
手には一升瓶。顔は赤い。
「桂さん……その匂いは、もしや」
「ああ、今日は長州の連中と『憂国の宴』をやっていてな。軍鶏を一羽潰したんだが、作りすぎてしまって――」
「食う!!」
俺はAIの許可も待たずに叫んでいた。
憂国だろうが何だろうが、軍鶏の前では些細なことだ。
***
通された部屋は、熱気と殺気に満ちていた。
車座になった十数人の男たちが、酒を煽りながら激論を交わしている。
「幕府は弱腰すぎる!」
「異人など斬り捨てればよいのだ!」
「いや、まずは開国して富国強兵だ!」
怖い。
みんな目が血走っている。唾も飛んでいる。
だが、部屋の中央に鎮座する鉄鍋の中で、グツグツと煮える軍鶏肉の輝きは、その恐怖を上回った。
琥珀色の割り下の中で踊る、弾力のある肉。
とろりと煮えたネギ。
ああ、生きててよかった。
(クロフネ! あれを食うぞ! 箸を持て!)
『承知しました。ただし、会話への参加は推奨しません。彼らの過激な尊王攘夷思想に同調すると、幕府の密偵に目をつけられます』
(わかってる! わしはただ、肉を処理するマシーンになる!)
俺は黙って座り、箸を伸ばした。
AIによる精密動作が発動する。
ヒョイ。パクッ。
熱々の肉を口に放り込む。
美味い。死ぬほど美味い。
軍鶏特有のコリコリした歯ごたえ。噛むほどに溢れ出す濃厚な脂。
それが甘辛いタレと絡み合い、俺の脳髄を直撃する。
「……おい、貴様。今の時勢をどう思う」
隣にいた髭面の男が絡んできた。
マズい。面倒なのが来た。
(無視じゃ! 答えたら食いっぱぐれる!)
俺は返事もせず、二切れ目の肉を口に運ぶ。
咀嚼。嚥下。
そのスピードは、AIの効率化によって常人の倍速に達していた。
「無視か……! 貴様、長州を愚弄するか!」
男が刀に手をかけた。
普通の人間ならここで箸を止める。
だが、俺(AI)は止まらない。
男が凄んでいる間にも、俺の箸は鍋の底から椎茸をさらい、焼き豆腐を確保し、春菊を強奪していく。
「こ、こやつ……!」
男が気圧されたように後ずさった。
殺気立った男の剣幕を、俺の食欲(AIの無慈悲な摂取)が完全に無視したからだ。
「我らが国の行く末を案じている間に……鍋の中身が、消えていく!?」
そう。
俺は議論に参加しない代わりに、鍋の支配権を完全に掌握していた。
煮えた具材から順に、正確無比な箸さばきで回収されていく。
その目には、一点の曇りもない(ただ食いたいだけ)。
『胃袋充填率六〇%。ペースを維持します』
「見ろ……あの食いっぷりを」
いつの間にか、議論していた志士たちが静まり返り、俺を見ていた。
「言葉など不要、ということか」
「議論で国は変わらぬ。まずは血肉をつけ、腹を据えよと……我々に示しているのか!」
桂小五郎が、感極まったように俺の肩を叩いた。
「坂本君。君はやはり、器がデカい。この混沌とした世の中を、丸ごと飲み込むつもりなんだな」
(違う。ただ腹が減って、軍鶏が美味いだけじゃ)
「長州の議論など、軍鶏の骨ほどのものでしかない、か。……一本取られたな」
勝手に納得した男たちが、次々と自分の皿の肉を俺に譲り始めた。
「食ってくれ、坂本!」
「日本の未来を、その腹に収めてくれ!」
俺はありがたく頂戴した。
ラッキーだ。黙って食ってただけで、肉が増えた。
ゲフッ。
俺は大きなゲップで答えた。
『翻訳:ご馳走様でした。天下国家も、この軍鶏のように歯ごたえがあればよいのですが』
AIが勝手に洒落たセリフを合成音声で吐き出した(※俺は口を動かしていない)。
「!!」
「天下を……食らう!」
ドッ、と部屋が湧いた。
俺はただの食い逃げ犯なのだが、なぜか長州藩士たちの間で「坂本龍馬、底知れず」という評価だけが爆上がりした夜だった。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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