第5話 鬼小町とオート・カウンター
千葉道場は、酸っぱい匂いがした。
男たちの汗と、使い古された防具の革の匂い。
そして、パァーン! と鼓膜を叩くような、竹刀同士がぶつかり合う破裂音。
北辰一刀流、千葉定吉道場。
江戸三大道場の一つに数えられる名門中の名門である。
(……帰りとうない)
俺は道場の隅で、雑巾がけをしながら死んだ魚のような目をしていた。
昨日の今日だ。
黒船を見て、三時間も直立不動(金縛り)で睨み続けたせいで、全身が筋肉痛なのだ。
(なあクロフネ。今日は見学でええろう? 足が棒のようじゃ)
『却下します。本日のカリキュラムは「対人戦闘データの収集」です。サボれば、昨日の筋肉痛に加え、乳酸値を三倍に引き上げます』
(鬼か! 死ぬわ!)
俺が脳内でAIと不毛な喧嘩をしていると、道場の中央から凛とした声が響いた。
「次はどなたですか! かかってきなさい!」
声の主は、一人の少女だった。
キリッと結い上げた黒髪。
意志の強さを物語る大きな瞳。
小柄な体躯ながら、構えには一分の隙もない。
千葉佐那。
道場主・定吉先生の娘であり、そのあまりの強さと美貌から「千葉の鬼小町」と恐れられている。
要するに、一番関わってはいけない手合いだ。
(うわあ……今日も荒れちゅうのう。目合わせんとこ)
俺は雑巾がけのスピードを上げ、柱の影にフェードアウトしようとした。
だが、運命(AI)と佐那は俺を見逃さない。
『好機です。対象:千葉佐那。戦闘力評価A。データの収集に最適です』
(やめろ! あの子は強いき! 昨日は門下生を三人病院送りにしちゅう!)
『強制執行。挙手』
スッ。
俺の右手が、意思に反して高々と上がった。
「……む?」
佐那の鋭い視線が俺を射抜く。
「坂本さんですね。……いいでしょう、相手になります」
(違う! これはただのストレッチじゃ! 誤解じゃあ!)
俺は心の中で絶叫したが、体は勝手に防具をつけ、竹刀を握り、道場の中央へと歩き出していた。
周囲の門下生たちがざわめく。
「おい、あの坂本だぞ」
「昨日、黒船を睨み殺そうとしたって噂の……」
「新入りだが、相当な手練れらしいぞ」
噂が早い。
昨日の「腰抜けフリーズ」が、一晩で「豪胆な伝説」に変換されて広まっているらしい。
江戸のネットワーク、恐るべし。
「参ります!」
佐那が裂帛の気合いと共に踏み込んだ。
速い。
瞬きする間に、竹刀の切っ先が俺の喉元に迫る。
(ひいぃッ! 怖い! 刺さる!)
俺は恐怖で目を閉じた。
だが、クロフネは冷静だ。
『脅威検知。近接戦闘モード(オート・カウンター)起動』
ガッ!!
手応えがあった。
目を開けると、俺の竹刀が、佐那の突きを絶妙な角度で弾いていた。
いや、弾いただけではない。
その反動を利用して、俺の竹刀は佐那の面の寸前でピタリと止まっていた。
「……え?」
佐那が目を見開き、凍りついたように動かない。
道場が静まり返る。
(うわっ、危なっ! あと一寸で女の子の顔を叩くとこやった!)
『寸止め制御:完了。打突の衝撃による脳震盪リスクを回避しました』
(当たり前じゃ! 当てたら可哀想じゃろ!)
俺は慌てて竹刀を引いた。
勝負ありだ。さっさと逃げよう。
「……まだです!」
だが、佐那は諦めなかった。
顔を真っ赤にして、恥辱と怒りに震えながら再び打ち込んでくる。
「手加減など……屈辱です! 本気で来なさい!」
ブンブンブン!
嵐のような連撃。
面、小手、胴。目にも止まらぬ早業だ。
(無理無理無理! 本気って何!? わし素人ぜよ!?)
俺は心の中で泣き叫びながら、AIに身を委ねるしかない。
『回避。パリィ。回避。パリィ。カウンター機会を検索』
俺の体は、佐那の猛攻を柳のように受け流していく。
一歩も動かない。
最小限の手首の返しだけで、全ての攻撃を無効化する。
端から見れば、達人が子供の遊びに付き合っているような余裕に見えただろう。
中身はパニック状態の泣き虫なのに。
「くっ……なぜ! なぜ当たらないの!」
佐那の息が上がり始めた。
焦りが動きを雑にする。
『好機。フィニッシュ・ムーブを実行します』
(やめて! 優しくして!)
俺の体が動いた。
佐那の大振りの面をかわし、すれ違いざまに、彼女の胴を竹刀の側面で「ポン」と軽く叩いた。
衝撃はない。
だが、タイミングは完璧だった。
「あ……」
佐那がバランスを崩し、たたらを踏む。
勝負あった。
「……まいりました」
佐那はその場にへたり込み、肩で息をしながら俺を見上げた。
その目には、もはや敵意はなかった。
あるのは、驚愕と、そして――。
「……お強いのですね、坂本様」
頬を染めて、うっとりとした目で見つめてくる。
(へ?)
「私の本気の打ち込みを、あんなに優しく、傷つけずに受け止めるなんて……。あえて打たず、私の心を諭すような剣でした」
(いや、AIが怪我のリスク計算しただけ……)
「まるで、大きな海のようなお方……」
佐那の手が、俺の袴の裾をギュッと掴んだ。
(待って。その目はやめて。なんか重い。情念が重い!)
『評価上昇を確認。対象:千葉佐那より、好意フラグおよび「依存」フラグを検知』
(依存!? 一番いらんやつ!)
周囲の門下生たちも、どよめきから称賛へと変わっていた。
「あの鬼小町を手玉に取るとは」「やはり黒船の男は格が違う」
俺は引きつった笑顔で立ち尽くすしかなかった。
汗臭い道場で、俺はまた一つ、望まぬ「最強伝説」を作ってしまったのだ。
***
その夜。
俺は筋肉痛と自己嫌悪で寝付けずにいた。
江戸に来てまだ数日。
なのに、すでに「攘夷の志士」だの「剣の達人」だの、身の丈に合わないレッテルが貼られていく。
(……帰りとうない。土佐の海が恋しい)
布団の中で丸まっていると、クロフネが冷徹に告げた。
『感傷に浸る時間はありません。次のミッションを開始します』
(今度はなんじゃ。もう勘弁してくれ)
『史実イベント:人脈形成および「尊王攘夷」思想のインストール』
(インストール? なんじゃそれ)
『現在のあなたは、ただの剣術が上手い田舎侍です。これでは英雄として不足しています。江戸にいる間に、過激な志士たちと交流し、思想をアップデートしなければなりません』
(嫌じゃ! あいつらすぐ「斬る」とか言うき怖いがじゃ!)
『却下。すでに桂小五郎との接触フラグは立っています。これより、道場稽古と並行して、他藩の危険人物たちとの「飲み会(密談)」をスケジュールにねじ込みます』
飲み会。
本来なら楽しい響きだが、相手が「幕府を倒す!」とか息巻いている連中なら話は別だ。
ただの拷問である。
(嘘じゃろ……わしの青春は? 団子屋の娘は?)
『スケジュールに空きはありません。なお、千葉佐那からの「朝稽古の誘い(実質デート)」も承認済みです』
(一番いらんことすな!)
俺は布団を被って絶叫した(心の中で)。
江戸での日々は、まだ始まったばかり。
脱藩なんて大それた話の前に、俺はこの「意識高い系」の江戸で、胃に穴を空けずに生き残らなければならないのだ。
日本の夜明けは、まだ遠い。
というか、俺の安眠の夜明けが来ない。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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