第4話 黒船を睨め
埃っぽい。
江戸の空気は、土と糠と、髷の油の匂いがした。
嘉永六年(一八五三年)六月。
俺、坂本龍馬は、剣術修行という名目で土佐を抜け出し、この世界最大の過密都市・江戸に来ていた。
「うわあ……! すごいのう、人がゴミのようじゃ!」
日本橋の真ん中で、俺は田舎者丸出しで叫んだ。
行き交う人々。立ち並ぶ見世物小屋。そして、そこら中から漂ってくる美味そうな蕎麦の出汁の香り。
(おいクロフネ! 見ろ! あそこの団子屋の娘、べっぴんじゃ!)
俺は心の中で、脳内の相棒(支配者)に話しかけた。
十八歳になった俺の体は、十歳の頃よりはマシになったが、相変わらず主導権はAIに握られている。
『視覚情報を解析。対象:町娘。推定年齢一六歳。あなたの好み(ふくよかな女性)とは異なります』
(うるさいわ! 江戸と言えば恋じゃ! ロマンスじゃ!)
俺は鼻息荒く、着物の裾を直した。
千葉道場への入門は済ませたが、今日は稽古が休みだ。
つまり、俺の自由時間。
AIも「休日」くらいは認めてくれるだろう。
(よし、今日は浅草まで足を伸ばして……)
『警告。スケジュール変更』
冷や水を浴びせられたような気分になった。
脳内で、赤い警告灯が点滅するのが見えるようだ。
『緊急クエスト発生。浦賀沖に「特異点」が出現しました。直ちに移動してください』
(は? 浦賀? ここから何里あると思うちょる)
『問答無用。歴史的イベントです。参加しない場合、ペナルティとして「股関節の可動域ロック(ガニ股歩き固定)」を実行します』
(やめろ! 江戸でガニ股は恥ずかしい! 行く! 行きますき!)
俺は泣く泣く、団子屋の娘に背を向けた。
俺の青春。俺の休日。
またしても、AIという名の歴史の強制力によって、俺は「何か」の目撃者にならされるらしい。
***
海岸は、パニック状態だった。
漁師も、武士も、商人も、みんな口を開けて海を指差している。
「おい、あれを見ろ!」
「山が動いてるぞ!」
「火事だ! 船が燃えてる!」
群衆をかき分け、俺は息を切らして浜辺に立った。
そして、見た。
「……なんじゃ、ありゃあ」
海の上に、黒い城が浮いていた。
四隻の巨大な船。
煙突からモクモクと黒煙を吐き出し、逆風をものともせずに進んでくる。
黒船だ。
アメリカのペリー艦隊である。
(ひいぃッ……!)
俺は腰が抜けそうになった。
怖い。単純にデカすぎて怖い。
あんなもん、大砲を一発撃たれたら江戸なんて火の海じゃないか。
(帰ろう。クロフネ、帰ろう! あんな化け物に関わったら死ぬ!)
俺は回れ右をした。
逃げるが勝ち。三十六計逃げるに如かず。
だが、足が動かない。
砂浜に強力な接着剤でくっつけられたみたいに、一歩も下がれない。
『警告。逃亡不可』
クロフネの声が、いつもより低く響いた。
『これは、日本の夜明けを告げるノックです。あなたはこれを目に焼き付け、攘夷の志を抱かねばなりません』
(攘夷!? 無理無理! あんな鉄の塊に勝てるわけないろ!)
『いいえ。あなたは怒り、憂い、そして決意するのです』
バチッ。
首の後ろに、軽い電気ショックが走る。
『強制執行。視線固定』
「ぐ……っ!?」
俺の首が、ギギギと音を立てて海の方へ向けられた。
瞼が閉じられない。
眼球の筋肉までジャックされ、俺はカッと目を見開いたまま、黒船を凝視させられた。
(目が乾く! 怖い! 泣きたい!)
俺の内面は恐怖で号泣していた。
だが、外から見ればどうだ。
身長六尺(約一八〇センチ)の大男が、逃げ惑う群衆の中でただ一人、微動だにせず、巨船を睨みつけているのだ。
『表情筋補正:憤怒レベルMAX』
さらにAIが余計な演出を加える。
俺の顔は、般若のように歪められた(本当は泣き顔を我慢しているだけ)。
「……おい、あの若者を見ろ」
近くにいた武士が、俺に気づいてざわめき始めた。
「みんな腰を抜かしているのに、彼だけは一歩も引かんぞ」
「なんという眼光だ……あの黒船を、睨み殺す気か?」
(違う! 腰が抜けて動けんだけじゃ!)
「憂いているのだ……この国の行く末を。己の無力さを噛み締め、魂を燃やしているのだ!」
(燃やしてない! 燃えてるのはドライアイになった目玉だけじゃ!)
俺の心の叫びは届かない。
AIは満足げにログを流す。
『英雄的行動指針:適合率一〇〇%。周囲への影響:甚大』
俺の周りに、自然と人が集まり始めた。
若者たちが、俺の背中を見て何やら熱いものを感じ取っている。
「俺たちも逃げてる場合じゃねえ!」
「そうだ! あの男のように、国を守る気概を持たねば!」
やめてくれ。
俺を勝手にリーダーにするな。
俺はただ、団子屋のねえちゃんに会いたかっただけなのに。
黒船が、ドォォォォン! と空砲を撃った。
空気が震える。
「ひぃっ!」(※声帯ロックにより無音)
俺は恐怖で失禁しそうになったが、AIが下半身の筋肉をガチガチに固めて阻止した。
その硬直した立ち姿が、またしても「泰然自若とした英雄」に見えたらしい。
「すげえ……あの大音響にも眉一つ動かさねえ……」
こうして。
俺の「黒船来航」は、一歩も動けないまま三時間睨み続けるという、ただの拷問として幕を閉じた。
***
帰り道。
俺はゾンビのようにふらふらと歩いていた。
(……ひどい目に遭うた)
『目的は達成されました。あなたの「攘夷思想」フラグが立ちました』
(立ってないわ! 立ったのは「外国怖いフラグ」だけじゃ!)
俺は涙を拭った。
もういい。今日はもう帰って寝る。
道場に戻って、泥のように眠ってやる。
だが、運命(AI)は俺を休ませてくれない。
道場の門をくぐろうとした時、一人の男が俺に声をかけた。
「おい、そこの大男」
振り返ると、そこには眼光の鋭い男が立っていた。
身なりは貧相だが、腰に差した刀からは、タダモノではない気配が漂っている。
「お前、さっき浜でずっと黒船を睨んでいただろう。……いい面構えだ」
男はニヤリと笑った。
「名はなんと言う?」
俺はビビって後ずさりそうになったが、AIが勝手に口を動かした。
「……坂本、龍馬ぜよ」
「坂本か。俺は長州の桂だ。桂小五郎」
桂小五郎。
後の「逃げの小五郎」であり、維新三傑の一人となる男。
俺たちの腐れ縁は、最悪の勘違いから始まったのである。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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