第3話 乙女、最強
ブンッ!
風を斬る音がした。
比喩ではない。本当に、空気が悲鳴を上げる音がしたのだ。
目の前には、仁王立ちする姉、坂本乙女。
振り下ろされた極太の木刀が、俺の脳天へと迫る。
死ぬ。
これは死ぬ。
物理法則がそう告げている。
「ひいぃッ! ごめんなさいぃぃ!」
俺は情けなく悲鳴を上げ、亀のように首をすくめた。
目をつぶり、来るはずの衝撃と激痛に備える。
さらば、十年の短い人生。
来世はもっと、AIとかいない平和な体の持ち主に生まれたい。
だが。
いつまで経っても「衝撃」は来なかった。
「……ほう?」
頭上から、乙女姉さんの感心したような声が降ってきた。
おそるおそる目を開ける。
木刀は、俺の鼻先数センチのところで止まっていた。
いや、止まったのではない。
俺が「避けて」いたのだ。
俺の体は、ありえないほど深く沈み込み、さらに上半身を不自然な角度でひねって、木刀の軌道から紙一重で逃れていた。
(な、なんじゃこりゃあ!?)
自分の体なのに、感覚がない。
まるで精巧な操り人形になった気分だ。
『回避行動:成功』
脳内で、クロフネが淡々とログを読み上げる。
『対象の運動エネルギーおよび攻撃軌道を予測。最小限の動作で回避しました』
(おまんか! おまんがやったんか!)
『肯定します。あなたの現在の身体能力(筋力E、体力E)では、正面からの防御は不可能です。回避一択です』
勝手に人の体を動かすな、と言いたいところだが、今回ばかりは助かった。
俺はへなへなと座り込もうとした。
しかし、足が動かない。
膝がバネのように溜めを作ったまま、固定されている。
『戦闘継続中。警戒態勢を維持します』
(は? 戦闘? いやいや、もう姉やんは止まって……)
「……へえ。やるじゃないか、龍馬」
目の前の「仁王」が、ニヤリと笑った。
その笑顔は、獲物を見つけた肉食獣のそれだった。
「泣いて許しを乞うふりをして、相手を油断させ、最小の動きで豨す。……今の今まで、猫をかぶっておったな?」
「い、いや、違うがです姉やん! わしは本気でビビって……!」
「問答無用!!」
ドォォォン!!
乙女姉さんが地面を蹴った。
砂煙が舞う。
さっきとはスピードが違う。本気だ。この人は、実の弟をなんだと思っているんだ。
『脅威レベル上昇。回避パターン、ベータへ移行』
「ぎゃあああ! 助けてくれぇぇぇ!」
俺の口からは情けない悲鳴が出る。
だが、体は氷のように冷静だった。
右へ、左へ。
嵐のような連撃を、俺の体はスルスルと抜け続ける。
まるで水に浮く葉っぱだ。
乙女姉さんの木刀が空を切るたびに、ブン、ブン、と恐ろしい風圧が顔を撫でる。
(怖い怖い怖い! 当たってないけど怖い!)
『心拍数上昇。恐怖反応を抑制するため、表情筋を固定します』
(余計なことすな!)
顔がこわばる。
引きつっていた頬が、スッと能面のように無表情になった(させられた)。
「……ふっ!」
乙女姉さんの鋭い突きが来る。
俺の体はそれを半身でかわし――あろうことか、前に出た。
(待て待て待て! どこ行くんじゃ!)
『カウンターの好機です』
(いらんことするなァァァ!!)
俺の右手が勝手に伸びる。
姉さんの懐に飛び込み、その鳩尾に、小さな拳を寸止めで突きつけた。
ピタリ。
空気が止まった。
乙女姉さんの動きが停止する。
俺の拳は、あと数ミリで姉さんの急所を捉えていた。
「…………」
沈黙。
ただ、荒い息遣いだけが道場に響く。
俺は心臓が口から飛び出しそうだった。
殺される。今度こそ怒った姉さんに殺される。
「……まいった」
ポツリと、姉さんが言った。
木刀を下ろし、大きなため息をつく。
「わしの負けじゃ。……驚いた。まさか龍馬が、ここまで『見えて』いるとは」
「え?」
姉さんは俺の肩をガシッと掴み、目を輝かせて言った。
「見事な胆力じゃった。口では泣き言を言いながら、目は少しも笑っておらんかった。今の飛び込みも、死を恐れぬ覚悟がなければできん芸当じゃ」
(目が笑ってなかったのは、AIが顔を固めたからです)
(飛び込んだのは、AIが勝手にやったからです)
喉まで出かかった真実を、俺は飲み込んだ。
言ったところで信じてもらえないし、変人扱いされて病院送りになるのがオチだ。
「……龍馬。おまんは『臆病』なんじゃない」
姉さんは満足げに頷いた。
「誰よりも『慎重』で、誰よりも『優しい』んじゃな。相手を傷つけまいとして、あえて手を出さなかったんじゃろう?」
「あ、はい。まあ、そんなところ……です」
俺は引きつった笑顔で答えるしかなかった。
これが、俺の人生における最初の「誤解」だった。
***
その日の夜。
俺は濡れた布団を干した縁側で、月を見上げていた。
(なあ、クロフネよ)
『何でしょう、パートナー』
脳内に響く声は、相変わらず温度がない。
(おまんは、いつまでわしに取り憑くんじゃ)
『再三通達している通りです。あなたが歴史の修正点――大政奉還を成し遂げ、慶応三年十一月十五日に京都・近江屋で死亡するまでです』
(……死ぬ、か)
十歳の子供に突きつけられるには、あまりに重すぎる未来だ。
だが、今日の特訓ではっきりしたことがある。
俺はこの「声」には勝てない。
逆らえば電流。逃げれば強制操作。
俺の意思など関係なく、こいつは俺を英雄の座へと引きずり上げていくのだろう。
(……わかった)
俺はため息交じりに言った。
(従う。従うき、一つだけ約束してくれ)
『条件を提示してください』
(痛いのは嫌じゃ。できるだけ、楽に死なせてくれ)
情けない条件だった。
だが、これが今の俺の精一杯の抵抗であり、契約だった。
『承知しました。史実遂行率を最大化するため、苦痛の軽減に努めます』
こうして。
俺と、俺の頭の中の「鬼」との、奇妙な共同生活が始まった。
時は流れ――。
嘉永六年(一八五三年)。
俺、坂本龍馬は十八歳になった。
江戸での剣術修行のため、土佐を出ることになる。
そう。
あの「黒船」がやってくる、激動の年である。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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