第2話 身体は貸し出し中
あれから十年が経った。
俺、坂本龍馬は十歳になった。
この十年間で学んだことは、たった一つ。
――俺の体は、俺のものではない。
これに尽きる。
今もそうだ。
高知の冬の朝は寒い。
布団から出ている鼻先が冷たい。
温まった布団の中は天国だ。あと五分、いや十分。このまま二度寝を決め込みたい。
だが、脳内の「同居人」はそれを許さない。
『警告。起床予定時刻、〇六〇〇を経過』
頭の芯に、あの無機質な女の声が響く。
AI「クロフネ」。
俺が名付けたわけじゃない。こいつが勝手にそう名乗った。
(うるさいのう……今日は塾も休みじゃ。あと少し寝かせてつかぁさい)
俺は布団を頭までかぶり、心の中で抵抗を試みる。
だが、クロフネに慈悲という機能はインストールされていない。
『却下します。本日のスケジュールは「剣術基礎トレーニング(素振り五〇〇回)」です。直ちに起床しなさい』
(嫌じゃ! 寒い! 外に出たら凍え死ぬ!)
『生存確率に影響はありません。起床しなさい』
(嫌じゃと言うちょるろが!)
俺はダンゴムシのように体を丸めた。
テコでも動かん。
俺の人生の操縦桿は俺が握るんじゃ。AIごときに指図は受けん。
すると、クロフネの声色が、スッと温度を下げた気がした。
『警告レベル2。命令拒否を確認』
『ペナルティとして、強制執行モードへ移行します』
(……強制執行? また電流か? 十年間浴び続けて、痛みには慣れたぜよ!)
俺は歯を食いしばり、電気ショックに備えた。
来い。
多少ビリビリしたところで、この布団の温もりは手放さんぞ。
『電流ではありません。より効率的な「起床誘発」を実行します』
『尿道括約筋の制御ロック――解除』
(は?)
その瞬間だった。
下腹部に、熱い奔流が生まれた。
(ちょ、待っ……)
止められない。
自分の筋肉なのに、命令を聞かない。
ダムが決壊したように、俺の意思とは無関係に「それ」は溢れ出した。
ジョボボボボボボ……。
布団の中に広がる、生温かい感触。
そして、湿った匂い。
「あ、あ、あああああ……」
俺は絶望的な声を漏らした。
十歳だぞ。
もう分別もつく、武士の子だぞ。
それが、おねしょ。
しかも、強制的な垂れ流し。
『起床を確認。おはようございます、パートナー』
(おまん……悪魔か……!)
俺は涙目で跳ね起きた。
布団には、見事な世界地図が描かれている。
屈辱だ。
電気ショックのほうが百倍マシだった。尊厳という名の臓器が、今、粉々に砕け散った音がした。
『さあ、濡れた布団を処理し、道場へ向かいましょう。遅れると、次は「味覚遮断(朝食の味が砂利になる)」を実行します』
こいつはやる。
絶対にやる。
先週、茄子の煮浸しが「濡れた段ボール」の味になったときの衝撃は忘れられない。
「……わかった。起きる。起きるき、もう許して……」
俺は敗北感にまみれながら、濡れた袴を脱ぎ捨てた。
これが、俺の日常だ。
英雄? 維新?
知るかそんなもん。
俺はただ、普通の人間として、普通にトイレに行き、普通に飯を食いたいだけなんじゃ。
その時だ。
ドスドスドス、と廊下を揺るがす足音が近づいてきたのは。
「龍馬ぁぁぁぁ!!」
障子が勢いよく開け放たれた。
冬の寒風とともに現れたのは、仁王像のような女。
坂本家が誇る最強の姉、乙女姉さんである。
身長五尺八寸(約一七五センチ)。
体重三十貫(約一一二キロ)。
手には、極太の素振り用木刀が握られている。
「またやったな!? 廊下まで匂うてくるわ! 十にもなって寝小便とは、たるんどる証拠じゃ!」
「ち、違うがじゃ姉やん! これは、その、不可抗力で……!」
「問答無用! その腐った根性、わしが叩き直してやる!」
ブンッ!
乙女姉さんが木刀を振り上げた。
空気を切り裂く音がした。
あれは死ぬ。当たったら確実に頭が割れる。
「ひいぃぃッ!」
俺は腰を抜かし、両手で頭を抱えてうずくまった。
ごめんなさい。もう寝坊しません。AIにも逆らいません。だから命だけは。
だが。
振り下ろされた木刀が、俺の頭蓋骨を砕くことはなかった。
『脅威検知。回避行動を開始』
脳内で、クロフネが淡々と告げた。
次の瞬間。
俺の体は、俺の意思を無視して、勝手に跳ね上がっていた。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




