第39話 「行かせてくれ」からの強制誤訳! 決死の薩長同盟
慶応二年、正月。
京都・薩摩藩邸の奥座敷。
極度の緊張とプレッシャー、そして致死量の渋茶によって、俺、坂本龍馬の胃腸は完全に決壊の時を迎えようとしていた。
西郷吉之助と桂小五郎。
幕末を代表する両雄が、息を呑んで俺を見つめている。
俺の額からは滝のように冷や汗が流れ、顔色は土気色を通り越して真っ青になっていた。膝はガクガクと震え、立っているのすらやっとの状態だ。
(い、いかん……漏れる……ここで漏らしたら、わしは一生、両藩から「会談中に糞を漏らした男」として歴史に名を残してしまう……!)
日本の未来よりも、俺の尊厳の未来の方が遥かに重要だ。
俺は残された全精神力を振り絞り、AIの制御を強行突破して、ただ一言、魂の叫びを口に出そうとした。
(頼む……! 便所に……)
「い、行かせて……くれぇぇぇ……!!」
腹を抱え、涙をボロボロと流しながら、俺は絶叫した。
部屋の空気が、ピシッと凍りついた。
よし、言った! 「行かせてくれ」と言ったぞ! これで急いで厠に駆け込めば、なんとか間に合う!
俺が猛ダッシュで襖を開けようとした、その刹那。
『音声出力を傍受。対象の意図【排泄行動の要求】を検知。現在の歴史的局面において極めて不適切と判断』
脳内で、AI「クロフネ」が無慈悲な警告音を鳴らした。
(ば、馬鹿野郎! 不適切もクソもあるか! いやクソなんじゃけど! どけ!)
『これより、文脈の最適化(意訳翻訳機能)を実行。周囲の状況に適合する【崇高な自己犠牲】のステータスへ強制変換します』
バチバチバチッ!!
背骨に走る強烈な電流。
俺のダッシュしようとした足は強制的に畳に縫い付けられ、腹を抱えてうずくまっていた姿勢のまま、ゆっくりと、怨念のこもった重い動きで顔を上げさせられた。
「……この命、ここで『逝』かせてくれ」
俺の口から、血を吐くような、悲痛な重低音が響き渡った。
(はあ!?)
「長州と薩摩……おまんらが意地を張り続けるっちゅうなら……わしがここで腹を切る」
(切らん!! 絶対に切らん!! 切りたいのは便所の紙じゃ!!)
「わしの血で、過去の遺恨を終わらせてくれ。……そして、日本のために前へ進むんじゃ……!」
AIの悪魔的な誤訳が、静まり返った奥座敷に響き渡った。
「便所に行かせてくれ」という小市民の懇願が、一瞬にして「この命を散らして両藩の不和を終わらせる」という壮絶な殉教者のセリフにすり替わってしまったのだ。
しかもタチの悪いことに、俺の顔は極度の腹痛によって歪み、脂汗を流し、目には本物の涙が浮かんでいる。
誰がどう見ても「己の命を削ってでも、天下の未来を憂う男の、死を覚悟した慟哭」にしか見えなかった。
静寂。
圧倒的な静寂の後。
「……なんという覚悟ごわす」
西郷吉之助が、震える声で呻いた。
その太い指先が、畳を強く握りしめている。
「己の命を差し出してまで、我ら薩長の愚かな意地を折ろうというのか……。坂本さぁ、おはんは……底知れぬ男ごわす」
「身を削っておられるのだ……」
桂小五郎が、目頭を押さえながら呟いた。
「我ら長州が、つまらぬ面子のために意地を張っている間にも、坂本殿は己の命を削り、日本の未来のために血の涙を流しておられた……。某は、己の小ささが恥ずかしい」
(違う! 削れてるのは腹じゃ!! 腹と腸壁じゃ!!)
俺の心の絶叫は、AIの完璧な表情制御によって完全に封殺されていた。
俺の顔は、苦痛に耐えながらも微かに微笑む、菩薩のような英雄の表情に固定されている。
「……西郷殿」
桂が、深々と頭を下げた。
「長州の窮状、お救い願いたい。……この坂本殿の気高き志の前に、もはや些末な意地など無用。我ら長州、薩摩と共に幕府を討つ覚悟にござる」
「……承知したごわす、桂さぁ」
西郷もまた、深く頷き、桂の手をガッチリと握りしめた。
『歴史的イベント【薩長同盟】の締結を確認。進行度100%。……ミッション・クリア』
脳内で、AIの事務的なクリア音が鳴り響いた。
ついに。
日本の歴史を根底から覆す、幕末最大の奇跡が成立したのだ。
薩摩と長州。昨日までの仇敵が、熱い涙を流しながら固い握手を交わしている。部屋中が、感動と希望の熱気に包まれていた。
だが、その歴史的瞬間の中心にいる俺の頭の中は、全く別の絶望で支配されていた。
(終わったか……? もう、ええか?)
『身体制御モード、および括約筋の緊急ロックを解除します』
ブツン、という音とともに、俺の身体の自由が戻った。
それと同時に、堰を切ったように、今まで抑え込まれていたマグマのような便意と腹痛が、大津波となって俺の腸内を蹂躙し始めた。
「――っっ!!」
俺は白目を剥き、股間を両手で強く押さえて、畳の上を転げ回った。
「坂本殿!? いかがされた!!」
「痛むか! やはり寺田屋の傷が……! おい、誰か医者を呼べ!!」
桂と西郷が、血相を変えて俺に駆け寄ってくる。
「ち、違う……触るな……! 漏れる……! 厠……厠どこじゃぁぁぁ!!」
俺は涙と鼻水を撒き散らしながら、這いつくばって部屋の出口へとズリズリと進んでいった。
歴史が動いた感動の涙。
そして俺の、別の意味で決壊寸前の涙。
二つの涙が交差する中、天下を揺るがす「薩長同盟」は、こうして俺の胃腸の完全な犠牲の上に、ひっそりと、そして劇的に成立したのであった。




