第40話 涙の歴史的瞬間! 英雄の覚悟(ただの便意)が国を動かす
慶応二年、正月。
京都・薩摩藩邸の奥座敷にて、日本の歴史を覆す「薩長同盟」が結ばれた。
西郷吉之助と桂小五郎が、熱い涙を流しながら固い握手を交わしている。
その神聖なる歴史的空間において、俺、坂本龍馬は、完全に別の次元の戦いを繰り広げていた。
「ち、違う……触るな……! 漏れる……! 厠……厠どこじゃぁぁぁ!!」
俺は両手で股間をがっちりとガードし、尺取り虫のような無様な動きで、奥座敷の出口へとズリズリと這い進んでいた。
寺田屋で負った右手の激痛など、もはやどうでもいい。
下腹部で暴れ狂うマグマ(便意)を抑え込むことだけに、俺の全生命力が注ぎ込まれていた。額からは脂汗が滝のように流れ落ち、視界はチカチカと点滅している。
「坂本殿……!」
背後から、桂小五郎の震える声が聞こえた。
「我ら両藩の和睦を見届け、安心されたのだな……。痛む傷を引きずってまで、我らに無様な姿を見せまいと、独りで部屋を出て行こうとされるとは」
「なんと気高き男ごわすか。あの背中、一生忘れはしもはん」
西郷が男泣きに泣いている。
違う! 見せまいとしているのは「無様な姿(脱糞)」であって、「痛む傷」ではない! 頼むから放っておいてくれ!
襖まであと一歩。
俺が震える左手を伸ばし、脱出への扉を開けようとした、まさにその時だった。
『警告。歴史的合意の最終プロセスが未完了です』
脳内で、AI「クロフネ」の無慈悲なシステム音が鳴り響いた。
(未完了!? 同盟結んだやろが! 握手したやろが! もうええじゃろ!)
『否定。口約束のみでは、後日破棄される確率が42%存在します。同盟の確約として、盟約書の作成および、あなたの「裏書(保証人としての署名)」が必要です』
悪魔だ。
俺の頭の中にいるこの機械は、人間の生理現象というものを1ビットも理解していない。
(あとにしてくれ! ちょっと、ほんの三分でええき、出してこさせてくれぇぇ!)
『署名プロセスへ強制移行します。身体制御、再起動』
バチバチバチッ!!
「……あぎゃっ!?」
背骨に走った電流により、俺の尺取り虫のような前進はピタリと止められた。
そして、俺の身体は怨霊のようにゆっくりと反転し、再び西郷と桂の待つ上座へと、ロボットのような足取りで歩み寄っていった。
「……紙と、筆を」
俺の口から、地獄の底から響くような重低音が漏れる。
顔面は蒼白、全身は脂汗でびっしょり、そして歩みは(括約筋を締めているため)極端にガニ股である。
だが、その異様なまでの迫力に、西郷と桂は息を呑んだ。
「坂本殿、まさか……」
「……口約束だけでは、この同盟、心許ないぜよ」
俺(AI)が、ゆっくりと首を振る。
「六ヶ条の盟約を紙に記しなさい。わしが、天に代わって、その裏書(保証人)となるきに」
カッコよすぎる。
だが俺の本音は「早く紙に書いて終わらせろ、俺の膀胱と腸が爆発する前に!」という、極限の焦燥感から来る急かしであった。
「……承知した。坂本殿の命を懸けた覚悟、無駄にはせぬ」
桂が急いで筆を執り、流れるような行書で、薩摩と長州の密約(六ヶ条)を和紙に書き記していく。
『第一条、長州と幕府の戦になれば、薩摩は二千の兵を京へ上せる』
『第二条、長州が勝った場合、薩摩は朝廷に働きかけ、長州の冤罪を晴らす』
『第三条、長州が敗色濃厚となっても、薩摩は最後まで共に戦う……』
『第六条、両藩は誠心誠意、皇国のために尽くす』
(長え!! 要するに『薩摩が全力で長州を庇って一緒に戦う』っちゅうことじゃろうが! 三行にまとめろ! 読む時間がもったいない!)
俺は心の中で六ヶ条の盟約に全力でダメ出しをしながら、ガクガクと震える膝を必死に堪えていた。一分が一時間に感じられる。永遠にも等しい拷問の時間だ。
やがて、桂が書き終えた書状を、俺の前に差し出した。
「坂本殿、お願い申す」
俺は、血まみれで包帯が巻かれた右手を、震わせながら前に出した。
激痛で指が動かない。
だが、AIが筋肉に強制的な電気信号を送り込み、強引に筆を握らせる。
『署名・裏書プロセスを実行。最速で処理します』
ズバババババッ!!
俺の右手は、痛みを完全に無視して、神がかり的な速度で和紙の裏に朱墨を走らせた。
『表に書かれている六ヶ条は、西郷と桂の両名が合意したものであり、少しも相違ないことを、俺(坂本龍馬)が保証する』
史実に残る、絶対的な裏書である。
「おお……」
その常軌を逸した筆の速さと、迷いのない筆致に、西郷たちが感嘆の声を漏らした。
「右手に深手を負いながら、これほどの力強い文字を……! まさに、血の滲むような魂の裏書ごわす!」
違う、一刻も早く便所に行きたいから光の速さで書いているだけだ!
バシッ!
最後に署名を書き殴り、筆を放り投げた瞬間。
『歴史的文書の完成を確認。薩長同盟、完全に成立しました。身体制御を解除します。お疲れ様でした』
ポンッ、と。
AIのシステム音が鳴り、俺の全身から不可視の鎖が解き放たれた。
自由だ。
「……失礼するッ!!」
俺は脱兎のごとく立ち上がり、両手で尻を押さえたまま、廊下へと猛ダッシュした。
その速度たるや、寺田屋から逃亡した時すら上回る、幕末最速の韋駄天走りであった。
「ああっ、坂本殿! 無理をなされては……!」
背後で桂が呼び止める声が聞こえたが、振り返る余裕など一ミリもない。
俺は薩摩藩邸の長い廊下を、ただひたすらに厠を目指して駆け抜けた。
日本の夜明け。
歴史の転換点。
そんな大層なものは、今の俺にはどうでもよかった。
俺にとっての本当の「夜明け」は、この長い長い廊下の先にある、あの小さな個室の中でこそ、迎えられるべきものだったのだ。
……数分後。
薩摩藩邸の冷たい厠の中で、俺は全てから解放され、虚ろな目で天井を見上げていた。
「……終わった……。全部、終わったんじゃ……」
腹の痛みは消え去ったが、極度の緊張の糸が切れたせいで、寺田屋で負った右手の激痛と、高熱が再び容赦なく俺の身体を襲い始めていた。
同盟は成った。
だが、俺のHPはすでにゼロを通り越してマイナスである。
俺はフラフラと厠を出ると、そのまま廊下の冷たい板張りの上に、糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、深い深い闇の中へと気絶していった。




