第38話 沈黙の巨頭会談と、限界突破の胃けいれん
慶応二年、正月。
京都・薩摩藩邸の奥座敷。
張り詰めた冷たい空気の中で、俺、坂本龍馬の腹の底から、不吉な地鳴りのような音が響いた。
キュルルルル……ゴロォ。
(あかん。これ、マジであかんやつじゃ)
俺は全身から脂汗を噴き出しながら、立ち去ろうとする長州の桂小五郎の前に立ち塞がっていた。
寺田屋からの決死の逃走による極度のストレス。
痛みを誤魔化すためにガブ飲みした渋茶。
そして、この部屋を支配する、西郷と桂による数時間の「無言のプレッシャー」。
それらが三位一体となって、俺の腸管を無慈悲に絞り上げているのだ。
「……退け、坂本」
桂の鋭い眼光が、俺を射抜いた。
彼の右手は、すでに腰の刀の柄に添えられている。
「手負いのお前であろうと、これ以上長州を愚弄するなら容赦はせん。そこを退け」
(ひいいぃぃ! 退きます! 退かせてください! むしろ先頭切って走らせて!)
俺の心臓は恐怖で縮み上がり、尻の括約筋は決壊の危機に瀕していた。
土下座して道を譲りたい。今すぐここから逃げ出して、藩邸の厠に駆け込みたい。
だが、俺の身体を支配するAI「クロフネ」が、それを絶対に許さなかった。
『警告。対象(桂小五郎)の敵対的行動を検知。しかし、ここで彼を帰せば、薩長同盟の成立確率は完全にゼロになります。退路を遮断し、威圧によって交渉のテーブルに引き戻します』
バチリ。
背骨に電流が走り、俺の足は床に深く根を張ったように動かなくなった。
それどころか、AIは俺の顔の筋肉を操作し、桂の殺気を正面から受け止める「不動の英雄」の表情を作り上げた。
「……長州の意地。そんなちっぽけなもんのために、帰るっちゅうんか」
俺の口から、氷のように冷たく、凄みのある重低音が響いた。
(違う! ちっぽけなのはわしの膀胱と腸の容量じゃ! 頼むき帰らせて!)
「おまんらが意地を張っている間にも、幕府の刃は迫っちゅう。……今まで流れた血を、無駄にする気か」
俺の右手の包帯から、再びジワリと赤い血が滲み出していた。
痛覚はAIによって遮断されているが、血の生臭い匂いが鼻を突く。
桂の目が、その血まみれの包帯と、俺の異常なまでに青白い顔色(※便意の限界によるもの)を見て、わずかに見開かれた。
「……坂本」
桂が、息を呑む音が聞こえた。
彼の目には、俺が「瀕死の重傷を負いながらも、身を挺して日本の未来を憂う大人物」に映っているらしい。
『対象(桂)の殺気が低下しました。次フェーズへ移行。薩摩側(西郷)へのアプローチを実行します』
俺の首が、ギギギ……と機械的に回され、上座で目を閉じている巨漢、西郷吉之助を睨みつけた。
「西郷さん。おまんもじゃ」
俺(AI)の声が、部屋の空気を震わせた。
「長州から頭を下げるのを待っちゅうのか。天下の薩摩藩が、なんちゅう小せぇ了見じゃ。……大藩なら大藩らしく、泥を被ってでも長州の手を引いてやらんか!」
痛烈な説教。
あの西郷隆盛に向かって、真っ向からの大説教である。
普通なら、怒りで一刀両断されても文句は言えない。
(ギャアアアア! 西郷さん怒らんといて! この口が勝手に喋りゆうだけなんじゃ! お願いやき、早く握手してわしを解放してぇぇぇ!)
俺の魂は泣き叫んでいた。
腹の底から、再びマグマのような便意の波が押し寄せてくる。
ギュルルルルゥゥ!!
静まり返った部屋に、俺の腹の音が派手に響き渡った。
西郷が、ゆっくりと目を開けた。
その太い眉の下にある大きな瞳が、俺をじっと見据えている。
「……坂本さぁ」
地響きのような、太い声だった。
「おはんの腹の虫は、随分と猛り狂っておるようごわすな。まるで、この西郷のふがいなさに怒っているかのように」
「……いかにも。わしの腹の虫は、もう限界ぜよ」
AIが即座に肯定した。
違う! 怒っているんじゃない、物理的な限界を迎えているんだ! 限界なのは腸だ!
「……フッ」
西郷の口元が、わずかに緩んだ。
「死の淵から這い上がり、血を流し、血の汗を流してまで……わしら薩長を一つに結ぼうとする、その執念。恐れ入ったごわす」
西郷が、ドスッと音を立てて上座から立ち上がった。
そして、桂の方へとゆっくりと歩み寄る。
「桂さぁ。長州の窮状、この西郷が引き受けもんそ。……幕府との戦、薩摩も共に血を流す覚悟ごわす」
「西郷殿……」
桂の顔から、長年張り付いていた氷のような不信感が、ゆっくりと溶け落ちていくのが分かった。
ついに。ついに両者が歩み寄った。
歴史が動く瞬間だ。
だが、俺の腸管もまた、歴史的な大決壊の瞬間を迎えようとしていた。
『同盟成立の兆候を検知。現在、進行度90%』
(クロフネ! もうええじゃろ! もうええじゃろ!? 厠! 厠!)
『否定。完全な合意形成(握手等)を確認するまで、現在位置からの移動は許可できません。腹部内圧の上昇を検知。括約筋の緊急制御モードを維持します』
AIの無慈悲なシステムログが流れる。
だが、機械による筋肉のロックすらも打ち破るほど、人間の生理現象は強大だった。
俺の額から、ボタボタと滝のように汗が落ちる。
膝が笑い、視界が白くフェードアウトしていく。
もう、言葉すらまともに紡げない。
(い、いかん……漏れる……ここで漏らしたら、わしは一生、両藩から「会談中に糞を漏らした男」として歴史に名を残してしまう……!)
日本の未来よりも、俺の尊厳の未来の方が遥かに重要だ。
俺は残された全精神力を振り絞り、AIの制御を強行突破して、ただ一言、魂の叫びを口に出そうとした。
(頼む……! 便所に……)
「い、行かせて……くれぇぇぇ……!!」
腹を抱え、涙をボロボロと流しながら、俺は絶叫した。
その瞬間。
脳内のAIが、最悪のタイミングで「超・意訳翻訳機能」を作動させたのだった。




