第37話 一触即発の薩摩藩邸と、手負いの(逃げたい)仲介人
慶応二年、正月。
京都にある薩摩藩邸の奥座敷には、上質な炭が燃える匂いと、俺の右手から漂う血と薬草の匂いが混ざり合っていた。
「……痛い。痛すぎる」
俺、坂本龍馬は、畳の上に正座したまま、包帯でぐるぐる巻きにされた右手を抱えて泣きそうになっていた。
伏見の寺田屋で幕府の役人に襲撃され、死の淵を彷徨ったのは、つい数時間前のことだ。
おりょうの決死の行動と、陸奥たちの助けでなんとか薩摩藩邸に逃げ込んだ俺は、医者に傷口を縫われ、泥を落としただけで、そのままこの奥座敷へ放り込まれた。
『生体モニター確認。右手の損傷による発熱、並びに極度の睡眠不足を検知。しかし、歴史的スケジュールの遅延は許容範囲を超えています。休息は却下します』
脳内で、AI「クロフネ」が無慈悲な宣告を下す。
(鬼! 悪魔! わしはさっきまで死にかけてたんじゃぞ! 少しは寝かせろ!)
『否定。これより、薩長同盟の最終合意フェーズを開始します。仲介人として、両者の交渉を成立させなさい』
バチリ、と背骨に電流が走る。
俺の身体はAIによって強制的に筋肉をロックされ、発熱でフラフラの頭とは裏腹に、背筋をピンと伸ばした完璧な正座の姿勢を維持させられていた。
部屋の空気は、刃物のように研ぎ澄まされていた。
上座にどっかりと腰を下ろしているのは、岩山のような巨漢。薩摩藩の西郷吉之助だ。
そして対する下座に座っているのは、剃刀のように鋭い眼光を放つ長州藩の影のトップ、桂小五郎。
昨日まで殺し合っていた仇敵同士。その両雄の間に、ただの浪人である俺が挟まれている。
沈黙。
圧倒的な、耳鳴りがするほどの沈黙だった。
もう一時間以上、誰も口を開いていない。火鉢の炭がパチッと爆ぜる音だけが、異様に大きく響く。
(なんなんじゃ、この空気は……! 息が詰まって死にそうじゃ!)
俺の額から、嫌な冷や汗がツツーと流れ落ちた。
理由は分かっている。
長州は幕府から「朝敵」とされ、武器も弾薬も尽きかけてボロボロだ。本来なら、喉から手が出るほど薩摩の助けが欲しいはずである。
だが、長州の武士のプライドがそれを許さない。
「昨日まで親の仇のように憎み合っていた相手に、自分たちから頭を下げて助けを乞うくらいなら、長州藩が滅びた方がマシだ」と意地を張っているのだ。
対する薩摩の西郷も、大藩のプライドがある。
「助けてほしければ、そっちから口を開くのが筋だろう」とばかりに、目を閉じたまま微動だにしない。
(知るか! おまんらのプライドなんか知るか! 早く握手して仲直りせえ!)
俺の胃袋が、キリキリと悲鳴を上げ始めた。
寺田屋からの逃走のストレスと、現在の尋常ではないプレッシャー。
おまけに、出された渋茶を緊張でガブ飲みしてしまったせいか、下腹部でゴロゴロと不穏な音が鳴り始めている。
『警告。対象者両名のプライドが干渉し、交渉プロセスが完全に停止しています。このままでは同盟成立確率は3%未満です』
AIのアラートが響く。
(わかっちゅうわ! でもこの空気で、わしに何を言えっちゅうんじゃ!)
『仲介人としての積極的な介入を推奨します。歴史を動かしなさい』
(無理じゃ! ちょっとでも機嫌を損ねたら、両方から斬り殺されるわ!)
俺が心の中でAIと言い争っている間にも、俺の腹痛は着実に限界へと近づいていた。
痛い。右手も痛いが、今は腹の方が何倍も痛い。
脂汗が全身から噴き出し、視界がチカチカと点滅し始めた。
もうダメだ。歴史とか同盟とかどうでもいい。俺は今すぐこの場から逃げ出して、厠に引きこもりたい。
その時だった。
「……無駄な時間を過ごしたな」
静寂を破り、低く冷たい声が響いた。
桂小五郎だ。
彼はスッと立ち上がると、懐から手ぬぐいを取り出し、刀の汚れを拭うような仕草を見せた。
「薩摩殿には、我らと手を結ぶ気など端からないと見える。……これ以上、ここで晒し者になるのは長州の恥辱。某は帰らせてもらう」
桂が、踵を返した。
西郷は目を閉じたまま、何も言わない。止める気はないらしい。
(えっ? 帰る? やったぁぁぁ! これで解散じゃ! わしも厠に行ける!)
俺の心臓が、歓喜で飛び跳ねた。
同盟決裂。残念無念。でも仕方ないよね、両方のプライドが高すぎたんだから。
さあ、俺も帰って便所に駆け込もう。
俺がウキウキと腰を浮かせようとした、その瞬間だった。
『緊急事態。薩長同盟の決裂は、歴史の完全な崩壊を意味します』
(え?)
『これより、身体制御モードをフルロック。当システムが強制介入し、事態を収拾します』
バチバチバチッ!!
背骨に、今日一番の高圧電流が走った。
俺の身体は浮き上がった腰から一転、畳を強く蹴り、立ち去ろうとする桂の背中に向かって、ドスンと重い足音を立てて立ち塞がった。
「……待てや、桂さん」
俺の口から、地を這うような、凄みのある重低音が響き渡る。
「わしを差し置いて、どこへ行く気じゃ」
違う!
俺は「気をつけて帰れよ!」と言って、急いで厠に行きたかっただけなんだ!
だが、AIによって完全に筋肉を乗っ取られた俺の顔は、腹痛の苦悶を「天下を憂う悲痛な覚悟」へと変換され、鬼のような形相で桂を睨みつけていた。
一触即発。
部屋の空気が、さらに一段階、冷たく張り詰めた。
限界突破寸前の俺の胃腸と、歴史を揺るがす大交渉。
狂気の板挟みによる、地獄の説得劇が幕を開けようとしていた。




