第36話 材木小屋の夜と、機械には計算できない手の温もり
慶応二年、正月。
伏見の濠川沿いにある材木小屋。
暗闇の中で、凍てつくような冬の夜気を切り裂いて、ビリィッ! と布の破れる音が響いた。
「ちょっと我慢しなよ」
俺、坂本龍馬の目の前には、薄い湯帷子を乱雑に羽織り、泥だらけになったおりょうがしゃがみ込んでいた。
彼女は躊躇なく自分の着ていた布の裾を引き裂くと、俺の血まみれの右手を引っ張り出し、傷口にグルグルと巻きつけて力一杯縛り上げた。
「――っっっぐあぁぁっ!?」
「痛いかい? 痛いってことは、まだ生きてる証拠さ」
強烈な痛みに俺の身体が跳ねるが、おりょうは俺の右手を両手でガッチリと包み込み、決して離さなかった。
彼女の手は小さく、泥だらけだったが――信じられないほど温かかった。
風呂上がりで駆け出してきた彼女の身体には、微かに石鹸の甘い匂いと、生き物としての強い熱が残っている。
その熱が、凍りついていた俺の血を溶かすように、掌からじんわりと伝わってきた。
「な、なんで、おまんがここに……寺田屋で、早く逃げろと、言うたのに……」
「馬鹿言わないでおくれ。あんたみたいなどんくさい男、放っておけるわけないだろう」
俺の掠れた声に、おりょうは呆れたように鼻で笑った。
その顔は青白く、唇も寒さで震えている。素足からは血が滲み、濡れた黒髪は霜で白く凍りかけていた。
「さっき、走って薩摩の屋敷に知らせてきた。あと少し我慢すれば、あのでっかい西郷の使いが助けに来るはずさ」
俺は息を呑んだ。
あの役人たちが包囲する中を、彼女はこの薄着と裸足で突破し、薩摩藩邸まで走って助けを呼び、さらに俺を捜してここまで戻ってきたというのか。
そんなこと、人間の――ただの町娘にできるはずがない。
『……生体モニター、異常値検出』
脳内で、AI「クロフネ」がジリジリと焦げるようなノイズを立てた。
『対象(坂本龍馬)の心拍数が上昇。深部体温の低下が停止しました。……外部熱源との接触による物理的保温効果のみでは、このバイタル回復は説明不可能です』
(……クロフネ。おまんには、一生分からんじゃろうな)
俺は、おりょうの小さな手に包まれた自分の右手に、わずかに力を込めた。
『エラー。生存確率の推移モデルが崩壊しました。対象「おりょう」が及ぼす化学的・精神的影響力の数値化に失敗。……計算不能。計算不能』
ざまあみろ。
天下の情勢も、戦の勝敗も、すべて計算通りに弾き出す未来の機械が、この小さな町娘の「ただの情」の前に完全にバグを起こしている。
損得じゃない。歴史的意義でもない。
彼女はただ、「私が助けたいから助ける」という、機械には絶対に計算できない自由な意思だけで、俺の命を暗闇の底から引きずり上げてくれたのだ。
「……すまんのう、おりょう。おまん、冷え切っちゅうぞ……」
「あんたの血の気がない顔に比べりゃ、マシだよ。ほら、しっかり息をしな」
おりょうは、俺の顔を覗き込み、ニカっと笑った。
暗闇の中でも、彼女の瞳だけは獣のように爛々(らんらん)と力強い光を放っている。
俺の目から、恐怖でも痛みでもない、温かい涙がホロリとこぼれ落ちた。
「謝るくらいなら、しっかり生きな。うちが命がけで走ったんだから、無駄にしたら承知しないよ」
おりょうの優しい声が、耳元で響いた。
その直後。
「――おったぞ! こちらごわす!!」
「大将! 大将!! ご無事ですか!」
材木小屋の表に、無数の提灯の明かりと、薩摩藩士たちの太い声が殺到した。
陸奥宗光の、涙声で泣き叫ぶ声も混じっている。
助かった。
俺たちは、幕府の包囲網を完全に抜け出したのだ。
◇
薩摩の者たちが持ち込んだ戸板に寝かされ、俺は小屋から運び出された。
冬の夜空には、凍てつくような星が瞬いていた。
「龍馬」
戸板の横を歩くおりょうが、俺の顔を覗き込んだ。
「約束通り、助かっただろう?」
「……ああ。おまんのおかげじゃ。おまんは……わしの、命の恩人ぜよ」
俺の言葉に、おりょうは照れ隠しのようにフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
だが、その横顔が微かに笑っているのを、俺は見逃さなかった。
『バイタルサイン、安定。生存ルートの確定を確認しました』
AIの声が、再び冷静なトーンに戻る。
しかし、その直後に続いた言葉は、俺の涙腺を別の意味で崩壊させるものだった。
『これより、スケジュールを再構築します。右腕の治療と並行し、薩摩藩邸にて「薩長同盟」の最終合意フェーズへ移行します。これ以上の休息時間は与えられません』
(鬼か! 悪魔かおまんは!)
右手はズタボロ、血は半分抜け、今しがた死の淵から生生還したばかりだというのに。
俺は戸板の上で白目を剥き、激しい胃痛とともに気絶した。
こうして、寺田屋の長い夜は明けた。
俺の手元には、動かなくなった右腕と、計算外のヒロイン・おりょうの存在。
そしていよいよ、日本史を揺るがす最大の密室劇――薩長同盟の締結という、次なる地獄が幕を開けようとしていた。




