第35話 弾は百発百中、本人の生存意欲はゼロの逃走劇
慶応二年、正月。
伏見の夜の底を、冷え切った冬の風が吹き抜けていた。
バシャッ!!
寺田屋の裏手にある水路に、水しぶきが上がる。
俺、坂本龍馬は、血まみれの右手を抱えたまま、凍てつくような泥水の中を猛烈な勢いで疾走していた。
「追えェェ! 坂本は深手を負っているぞ!!」
「逃がすな! 首を獲った者には金一封だ!!」
背後からは、伏見奉行所の捕吏たちの怒号と、無数の提灯の明かりが迫ってくる。
だが、俺の足は止まらなかった。
止まらないというより、止まれないのだ。
『痛覚遮断、継続中。心拍数160。右腕からの出血量、規定値を超過。……生命維持のため、走行フォームを極限まで最適化します』
脳内で、AI「クロフネ」が無機質な警告を発し続けている。
痛くない。右手の親指の付け根から手首にかけて、肉がごっそりと裂けて骨が見えそうになっているというのに、全く痛みを感じない。
それが逆に、死ぬほど恐ろしかった。
(おいクロフネ! 血が! 血がドバドバ出ちゅうぞ! もう走れん! 止血してくれぇぇ!)
俺の魂は、パニックを起こして泣き叫んでいた。
息をするたびに、氷のような冷気が肺を刺す。口の中には、鉄のような血の味が広がっていた。
『警告。現在停止すれば、背後の追手によって斬首される確率が99%です。走りなさい』
(無理じゃ! もう降伏しよう! カステラも商社も諦めるき、医者を呼んでくれぇ!)
俺が心の中で命乞いをした、その時だ。
隣を並走していた陸奥宗光が、息を切らしながら叫んだ。
「大将! 大丈夫ですか! ものすげえ血だ……!」
陸奥の顔は、月明かりの下でも分かるほど蒼白になっていた。
「もう……ダメだ、大将。これ以上は逃げ切れねぇ。俺がここで殿を務めます! 大将は一人で――」
陸奥が足を止め、抜身の刀を構えて振り向こうとした。
(馬鹿! おまんが死んだらわし一人になるじゃろうが! わしを置いていくな、一緒に医者を探してくれぇ!)
俺は陸奥の着物の袖を(無事な左手で)力いっぱいに掴み、泣き顔で叫んだ。
……はずだった。
『対象(陸奥)の自己犠牲による戦力低下を検知。翻訳機能作動。生存意欲を鼓舞する英雄的発言へ変換します』
ブツン。
俺の声帯が、AIに完全にジャックされた。
「……阿呆。わしのために命を捨てるな」
俺の口から、吐く息の白さよりも冷たく、そして静かな重低音が漏れた。
陸奥がハッとして振り返る。
「わしの右手がもげようが、足が折れようが、構うな。……ここでわしらが倒れても、わしらの屍を越えて、新しい日本を創るんじゃ」
なんだそのセリフ!?
俺は死にたくないから「医者を呼べ」と言ったんだ! 屍を越えられたら困るんだよ!
だが、俺の顔の筋肉はAIによって「痛みを堪え、天下の未来を見据える崇高な表情」にガッチリと固定されていた。
月明かりに照らされた俺の顔を見て、陸奥の目に、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「大将……! あんたって人は……!」
「泣く暇があるなら、走れ。薩摩藩邸まで、わしが道を開くきに」
俺(AI)は、左手に握った愛刀・吉行の鞘を構え直し、泥水の中をさらに加速した。
「……はい! 死んでも、あんたを死なせはしねぇ!!」
陸奥が泣き叫びながら、俺の背中を追ってくる。
違う、誤解だ。俺の生存意欲は今、マイナスを振り切っている。本人は一歩も走りたくないのに、機械に操られた肉体だけが、時速三十キロ近い猛スピードで暗闇を駆け抜けているのだ。
◇
それからどれくらい走っただろうか。
追手の声が、ようやく遠ざかっていった。
伏見の町外れ、濠川のほとりにある、薄暗い材木小屋の影に、俺たちは倒れ込むように転がり込んだ。
「ハァッ、ハァッ……ここまでくれば、当分は追ってこれねぇはずだ……」
陸奥が、荒い息を吐きながら膝をついた。
『追跡者の反応、ロスト。一時的な安全圏への到達を確認しました』
脳内で、AIのアラートが解除される音がした。
『これより、痛覚遮断を解除。生体機能の回復モードへ移行します』
(えっ? 解除? ちょっと待――)
ブツン。
「――っっっっっっっあああああああぁぁぁぁぁっ!!??」
解除された瞬間、右手を熱く焼けた鉄のギザギザなノコギリで削り取られているような、言語を絶する激痛が脳天を突き抜けた。
俺は材木の上に転げ回り、泥だらけになって絶叫した。
「痛い痛い痛い痛い痛い!! 指が! 手が取れるぅぅぅ!!」
「大将! しっかりしろ! ものすげえ熱だ!」
陸奥が慌てて俺の身体を押さえつける。
俺の歯の根はガチガチと鳴り、全身から脂汗が滝のように噴き出していた。出血のせいで、身体の芯から氷のように冷えていくのが分かる。
「ダメだ、血が止まらねぇ……! 大将、ここでじっとしててくれ! 俺がすぐに薩摩藩邸に走って、助けを呼んでくる!」
「い、行くな……! わしを一人に……痛いよぉ……」
情けない本音が漏れたが、陸奥はそれを「自分を気遣ってくれている」と変換したらしい。
彼は血だらけの俺の手を両手で包み込むと、涙で顔をぐしゃぐしゃにして頷いた。
「必ず戻ってくる! 大将の命、俺が絶対につないでみせる!!」
そう言い残すと、陸奥は弾かれたように材木小屋を飛び出していった。
静寂。
風の音と、川の流れる音だけが残された。
俺は冷たい材木の上に丸まり、ただガタガタと震えていた。
『出血多量による血圧低下。体温、34度を割り込みました。意識レベルの低下を検知』
(クロフネ……痛覚、もう一回消してくれ……)
『否定。これ以上の神経遮断は、脳に回復不能なダメージを与えます。耐えてください』
役立たずのポンコツ機械め。
視界が、どんどん狭く、暗くなっていく。
痛みが遠のき、代わりに抗いがたい眠気が襲ってきた。
(……あぁ。わしの人生、ここで終わりか。結局、美味いカステラ、食えんかったのう……)
俺が静かに目を閉じかけた、その時だった。
ザクッ、ザクッ。
暗闇の中から、微かな足音が近づいてきた。
役人か。ついに見つかったか。
だが、現れた影は、捕吏の黒装束ではなかった。
「……まったく、世話の焼ける男だねぇ」
凍りつくような冬の夜気の中。
薄い湯帷子を乱雑に羽織り、素足のまま泥だらけになった「彼女」が、そこに立っていた。




