第33話 伏見奉行の包囲網と、全裸のヒロイン急襲
慶応二年、正月。
深夜の伏見は、骨まで凍りつくような冷気に沈んでいた。
寺田屋の二階、梅の間。
俺、坂本龍馬は、二枚重ねにした布団の首元をギュッと握りしめ、ガタガタと震えていた。
寒いからではない。怖いのだ。
(……なんか、外が騒がしくないか?)
障子の向こうから、時折、ミシッ……という微かな物音が聞こえるような気がするのだ。
風の音か、それとも野良犬か。
だが、俺の小心者のアンテナは、それが「人間の足音」であると警鐘を鳴らしていた。
「陸奥くん……おい、陸奥くん。起きちょるか」
「……むにゃ。大将、カステラはもう食えませんぜ……グゥ」
少し離れた布団で、陸奥宗光は幸せそうに高いびきをかいていた。
こいつは本当に大物だ。幕府から追われる大罪人だというのに、よくこんな無防備に寝られるものだ。
(クロフネ。おい、クロフネ。外に誰かおらんか? 新選組とか、見廻組とか)
俺は布団を被ったまま、脳内のAIに探りを入れた。
『生体サーモグラフィー、および音声ソナーによる周辺警戒を実行中……。現在、寺田屋の周囲百メートル以内に、敵対的行動を示す明確なデータは検出されていません』
AIの無機質な声が響く。
(本当か? おまんのセンサー、寒さでバグってないか?)
『当システムの精度を疑うのは非論理的です。伏見奉行所の役人が動く兆候はありません。心拍数を下げ、睡眠による体力回復を推奨します』
そうか。クロフネがそう言うなら、気のせいだろう。
俺は少しだけホッとして、強張っていた背中の筋肉を緩めた。
明日は薩摩藩邸に行って、また胃の痛くなるような会談をしなければならない。今のうちに少しでも寝ておかなければ。
俺がまどろみの底へ沈みかけた、その時だった。
◇
一階、中庭に面した薄暗い浴室。
もうもうと立ち込める湯気の中で、おりょうは木の湯船に首まで浸かっていた。
「……ふう。極楽、極楽」
手ぬぐいを頭に乗せ、ほっと息を吐く。
冷え切った身体に、熱い湯がジンジンと染み渡っていく。
長崎からの無銭旅行の疲れも、寺田屋での下女仕事の疲れも、この風呂一つで吹き飛んでしまう。
チャプ、と湯をすくい、肩にかけた時だ。
浴室の小窓の向こう、裏庭の暗がりから、微かな金属音が響いた。
チャキ。
刀の鯉口を切る音。
そして、ひそひそとした男たちの声。
「……裏門は固めたな」
「逃げ道はない。相手は薩長を裏で操る大悪党、坂本龍馬だ。見つけ次第、斬り捨てろ」
おりょうの動きがピタリと止まった。
窓の隙間からそっと外を窺う。
闇夜に紛れて、十手や長槍を持った黒装束の男たちが、寺田屋をぐるりと取り囲んでいた。その数、ざっと三十人以上。伏見奉行所の捕吏たちだ。
(あの馬鹿! やっぱり狙われてるじゃないか!)
おりょうは舌打ちをした。
あの情けない顔をした男。昼間は焼き芋を美味そうに食って、平和な顔をして笑っていた。
あんな奴が、天下を揺るがす大悪党なわけがない。
だが、幕府の役人たちは本気だ。このままでは、あの男は寝首を掻かれて死ぬ。
「……世話の焼ける男だねぇ!」
ザバァッ!
おりょうは躊躇なく、熱い湯船から飛び出した。
着物を着ている暇はない。敵はすでに一階の土間に踏み込もうとしている。
彼女は近くにあった湯帷子――薄い布を一枚だけひったくり、濡れた素肌にバサリと羽織った。
防御力ゼロ。肌は丸出し。
だが、そんな恥じらいなど、彼女の頭には一ミリもなかった。
ダダダダダッ!!
おりょうは裸足のまま、濡れた板間を蹴り、寺田屋の薄暗い裏階段を猛烈な勢いで駆け上がった。
床板が軋み、水滴が宙を舞う。
◇
『……警告! 警告! 一階周辺に多数の熱源反応を検出! 隠密行動ステータス:解除。完全武装の集団が当施設へ侵入を開始しました!』
俺の脳内で、突然AIのレッドアラートが鳴り響いた。
(ほら見ろ!! おるやないか!! おまんのセンサー、やっぱりポンコツじゃ!!)
『敵の接近手段が、当システムの予測する「幕府の標準的捕縛マニュアル」から逸脱していました。ステルス性が高く――』
(言い訳はええ! どうするんじゃ! 逃げるぞ!)
俺が布団から跳ね起き、陸奥を叩き起こそうとした、まさにその瞬間。
バーーーンッ!!
梅の間の襖が、木枠ごと吹っ飛ぶような勢いで開け放たれた。
「起きな、龍馬!!」
そこに立っていたのは、刺客ではなかった。
濡れた黒髪から水滴を滴らせ、肩で荒い息をつく女。
おりょうだった。
「お、おりょう!? おまん、なんちゅう格好を……!」
俺は目を剥いた。
薄い布一枚。透けるような白い肌。立ち上る湯気。
文字通りの「全裸」に近いヒロインの急襲に、俺の眠気は別の意味で完全に吹き飛んだ。
「馬鹿! 私の身体なんか見てる場合じゃないよ!」
おりょうが鋭く叫び、俺の枕元にあった愛刀・吉行を蹴り飛ばしてよこした。
「敵だよ! 下から三十人以上、槍を持った役人が上がってくる! 早く逃げな!」
『……エラー。エラー発生』
脳内で、AIがフリーズしたようなノイズを出した。
『対象「おりょう」の行動速度が、当システムの警告プロセスを凌駕しました。女性が「衣服を着る」という社会的ルールを完全に無視し、最短距離で二階へ到達する確率は0.002%未満……』
(計算しとる場合か! おりょうのおかげで助かったんじゃ!)
俺は刀を掴み、飛び起きた。
騒ぎに気づいた陸奥も、「なんだ!? 敵襲ですか!」と刀を抜いて起き上がる。
「おりょう、おまんは早く逃げろ! 巻き込まれるぞ!」
「あんたこそ、ドジ踏んで死ぬんじゃないよ!」
おりょうは俺をキッと睨みつけると、布を翻して部屋の奥へと消えていった。
その直後。
ドカカカカカッ!!
一階から、無数の足音が階段を駆け上がってくる音が響いた。
怒号が飛び交う。
「御用だ!! 逆らう者は斬り捨てい!!」
「坂本龍馬、神妙に縄に就け!!」
障子越しに、無数の提灯の明かりが揺れ、槍の穂先がギラギラと光るのが見えた。
三十人。いや、もっといるかもしれない。
対するこちらは、俺と寝起きの陸奥の二人だけ。
詰んだ。完全に詰んだ。
(ごめんなさい! 降伏します! カステラ屋になる夢は諦めますから、命だけは!)
俺が吉行を放り投げ、美しいフォームで土下座の姿勢に入ろうとした、その刹那。
『姿勢制御、フルロック。生存確率を最大化するため、戦闘・照準補正モードを起動します』
バチバチバチッ!!
背骨に、今までで最大出力の電流が走った。
俺の身体は空中で静止し、土下座の姿勢から一転、仁王立ちへと強制的に引き戻される。
「……陸奥」
俺の口から、氷のように冷たく、殺気に満ちた重低音が響いた。
「大将!?」
「わしの背中は、おまんに預けたぜよ」
俺の左手が、懐にスッと差し込まれる。
そして引き抜かれたのは、米国製の最新式拳銃「スミス&ウェッソン」。
数ヶ月前、長州へ武器を届けた際、あの破天荒な男――高杉晋作から『幕府の犬に噛まれそうになったら、こいつで眉間をぶち抜いてやれ』と笑いながら押し付けられた代物だ。
俺は「物騒なもん寄こすな」と泣きそうだったし、弾の込め方すらよく分かっていなかった。
だが……俺の頭の中にいる『機械』は、この銃の構造から弾道計算まで、すべてを完璧に把握している。
ガチャリ、とAIが親指で完璧なタイミングで撃鉄を起こす。
『敵、突入まで残り三秒。掃討を開始します』
障子が破られ、槍を持った捕吏たちが雪崩を打って踏み込んでくる。
逃げ場のない狭い部屋。
泣き叫ぶ俺の魂をよそに、俺の身体は、地獄のガンマンへと変貌を遂げようとしていた。




