第32話 予測不能な女・おりょうと、AIの処理落ち
慶応二年、冬。
京都・伏見の朝は、容赦のない寒さとともにやってきた。
「……痛い。腹が、ねじ切れそうに痛い」
俺、坂本龍馬は、寺田屋の二階、梅の間の布団にくるまりながら呻いていた。
長崎での密貿易の重圧から解放されたと思いきや、今度は「薩長同盟の締結」という特大の爆弾を背負わされて、この死の都へやってきたのだ。
昨夜は一睡もできなかった。
外で犬が吠えるだけで「新選組か!?」と飛び起き、風で障子がガタッと鳴るだけで「見廻組の刺客か!?」と震え上がる。
完全に神経が衰弱していた。
『バイタルサイン低下。慢性的な睡眠不足と過度なストレスによる、重度の胃腸障害を検知。推奨アクション:安全圏での二十四時間以上の絶対安静』
脳内で、AI「クロフネ」が極めてまともな警告を発した。
(おまんのせいやろうが! わしをこんな物騒な場所に連れてきたき、休まる暇もないんじゃ!)
『否定。当システムは歴史の最適化を優先します。あなたの胃壁の厚さは、優先順位第十二位です』
(十二位!? 低すぎるわ!)
俺が布団の中で一人でキレていると、ガラッ、と遠慮なしに襖が開いた。
「なんだい、まだ寝てるのかい。だらしない男だねぇ」
冷たい隙間風とともに現れたのは、下女の襷を外したおりょうだった。
藍色の小紋の着物に、赤い半幅帯。決して上等な服ではないが、彼女が着ると不思議と粋に見える。
「お、おりょう……なんじゃ、急に」
「なんじゃじゃないよ。顔色が土気色じゃないか。いくら寺田屋の飯が美味くても、そんな塞ぎ込んでちゃ味が分からないだろう。ほら、起きな」
おりょうは、俺の被っていた掛け布団をバサッと容赦なく剥ぎ取った。
「ひゃっ! さむっ!」
「気晴らしに行くよ。京の町を案内してやるから、さっさと支度しな」
「き、気晴らし!? 外に出るなんて自殺行為じゃ! わしは長州に武器を流した大罪人で――」
『警告。不要な外出は、敵対勢力(佐幕派)との接触確率を意図的に高める行為です。現在、外出の歴史的意義はゼロです。絶対安静を推奨します』
AIも俺の意見に全面賛同した。そうだ、今日は部屋から一歩も出ないぞ。
「歴史がどうしたって? 小難しい顔してんじゃないよ。ほら、行くよ!」
だが、おりょうにはAIの論理も、俺の言い訳も通じない。
彼女は俺の腕をガシッと掴むと、恐ろしい馬鹿力で立ち上がらせた。
「ちょ、待て! 腕が抜ける!」
『姿勢制御、エラー。外部からの物理的牽引力が、当システムの抵抗値を上回りました』
なんだと!?
幕府の役人や過激派の志士の攻撃は軽々と躱すAIの身体制御が、ただの町娘の「強引な腕力」に負けただと!?
『対象人物「おりょう」の行動には、殺意および敵対的意図が一切含まれていないため、自動防衛システムが作動しません。回避不能』
つまり、「悪意がないから抵抗できない」というポンコツ仕様か!
俺は抵抗する間もなく、おりょうに引きずられるようにして寺田屋の階段を下り、極寒の京都の町へと引きずり出されてしまった。
◇
伏見の町は、活気に満ちていた。
行き交う人々は白い息を吐きながら、足早に通りを歩いていく。
道の両脇には、焼き芋や団子を売る屋台が並び、香ばしい匂いが漂っていた。
「ほら、これ食べな」
おりょうが、屋台で買った熱々の焼き芋を半分に割り、湯気を立てている方を俺に押し付けてきた。
焦げた皮の匂いと、サツマイモの強烈な甘い香りが鼻を突く。
「……金は、わしが払うが?」
「当たり前だろ。うちは寺田屋の居候だよ。金なんか持ってるわけないじゃないか」
おりょうはケラケラと笑いながら、もう半分の芋を美味そうに頬張った。
理不尽だ。拉致された上に奢らされている。
俺は渋々、焼き芋にかじりついた。
「……あ」
熱い。そして、とろけるように甘い。
冷え切っていた胃袋に、温かいサツマイモが優しく落ちていく。
痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「どうだい? 美味いだろう」
「……まあ、悪くはない」
「素直じゃないねぇ」
おりょうは俺の背中をバンと叩き、ズンズンと先へ歩いていく。
目的地はないらしい。ただ、目に付いたもの、面白そうなものに向かって、風のように歩いているだけだ。
『行動解析中……。対象「おりょう」の現在の移動ルートに、規則性は見られません。政治的接触、情報収集、物資調達、いずれの目的にも合致しません』
脳内で、AIがブツブツとノイズを混じらせながら呟いている。
『非効率の極みです。カロリーを消費し、暗殺のリスクを高め、資金(焼き芋代)を浪費するだけの行為。……なぜ、このような無意味な行動を取るのか。理解不能です』
AIには、絶対に分からないだろうな。
俺は、おりょうの少し後ろを歩きながら、彼女の弾むような後ろ姿を見つめた。
俺の頭の中にいる機械は、歴史を変える力を持っている。俺の身体を無敵の剣客にし、天下の大人物を震え上がらせる交渉術を使える。
でも、こいつは「今日、天気が良くて焼き芋が美味いから歩く」という、人間の当たり前の自由を理解できない。
幕府だの、長州だの、薩摩だの。
そんな重苦しい鎖に縛られて、AIに操られている俺から見れば、ただ自分の気分だけで数百キロを移動し、他人の金で焼き芋を食って笑っている彼女は――。
(……眩しいのう)
俺の口元が、自然と緩んだ。
恐怖で強張っていた頬の筋肉が、何ヶ月ぶりかに、俺自身の意思で動いた気がした。
「おい、龍馬! 早く来ないとはぐれるよ!」
数歩先で、おりょうが振り返って手を振った。
「わかっちゅう! 今行くき!」
俺は小走りで彼女の隣に並んだ。
冬の冷たい風が頬を叩くが、不思議と寒さは感じなかった。
『……エラー。対象(坂本龍馬)の生体モニターに異常。心拍数上昇。エンドルフィンの過剰分泌。これは戦闘時の興奮状態とも異なります』
AIの困惑した声が響く。
『行動の合理性:ゼロ。歴史的意義:ゼロ。しかし、システムのエラーログが急速にクリアされていきます。……記録継続。感情値の変動理由、未だ不明』
ざまあみろ、ポンコツ機械。
人間はな、意味がないからこそ生きられる時もあるんだよ。
その日の午後。
俺とおりょうは、伏見の町を当てもなく歩き回り、日が暮れる頃に寺田屋へと戻ってきた。
冷えた身体を風呂で温め、夕飯を食えば、今日はぐっすりと眠れるだろう。
俺はそう信じて疑わなかった。
この「無意味で平和な一日」が、これから始まる血みどろの地獄に対する、最後のご褒美だったということに。
寺田屋の周囲には、すでに伏見奉行所の捕吏たちが、音もなく包囲の輪を縮め始めていた。
闇の中で、ギラリと刃の反射光が光る。
平穏な息継ぎの時間は、唐突に終わりを告げようとしていた。




