第31話 死の都・京都と、寺田屋でのバグる再会
慶応二年、冬。
京都・伏見の船着き場に降り立った瞬間、刃物で骨を削られるような冷気が全身を包み込んだ。
「……さむっ」
俺、坂本龍馬は、道中合羽の襟をかき合わせ、身震いした。
長崎の温暖な気候とは打って変わって、京の冬は底冷えがする。吐く息は真っ白に染まり、川の淀んだ水からは、冷たく湿った泥の匂いが立ち上っていた。
「大将。ここが京ですか。なんだか、殺気立ってて息が詰まりそうですね」
供として連れてきた陸奥宗光が、周囲を警戒しながら低い声で言った。
その通りだ。
今の京都は、幕府を支持する佐幕派と、倒幕を目論む過激派の志士たちが、毎晩のように路地裏で殺し合いをしている「死の都」である。
新選組だの、京都見廻組だの、血の気の多い連中がウロウロしている場所に、長州に大量の武器を横流しした「死の商人」である俺が足を踏み入れる。
自殺行為以外の何物でもない。
(帰ろう。今すぐ船に乗って長崎へ引き返そう)
俺が踵を返そうとした、その瞬間。
『警告。逃走ルートへの移行を検知。これより姿勢制御を強制ロックします』
バチリ。
「あぐっ!?」
首筋に電流が走り、俺の足がピタリと地面に縫い付けられた。
そして、俺の身体は強制的に前を向かされ、堂々とした「英雄の歩み」で大通りを闊歩し始める。
『現在地:伏見。目的地:定宿「寺田屋」まで残り三百メートル。本日のタスクは、休息および薩摩藩士との事前折衝です』
(折衝とかせん! わしは布団に入って冬眠するんじゃ!)
俺の心の中の叫びは、AI「クロフネ」の無慈悲なナビゲーションによって完全に黙殺された。
長崎で得た莫大な利益でカステラ屋になるという俺の夢は潰え、AIが勝手にロードした「薩長同盟の締結」という特大ミッションのために、この死の都へ強制連行されてきたのだ。
◇
やがて、大きな提灯がぶら下がる、立派な旅籠が見えてきた。
寺田屋。
薩摩藩の定宿であり、かつて過激派の志士たちが同士討ちの殺し合いをした、いわくつきの宿だ。
「……お頼み申す」
俺の口が、勝手に重々しい声を上げた。
引き戸を開けると、温かい湯気と、醤油が焦げたような出汁の匂いが鼻をくすぐった。
土間には、忙しそうに立ち働く下女たちの姿がある。
「はいはい、いらっしゃいませ!」
奥から、恰幅の良い女将が小走りで出てきた。お登勢さんだ。
「あらまぁ! 坂本さんやないの! えらい久しぶりやねぇ。生きてはったん?」
「おかげさんで。相変わらず、繁盛しちゅうね」
俺(AI)が、気の利いた挨拶を返す。
お登勢さんはパタパタと手ぬぐいで手を拭きながら、奥の座敷を指差した。
「ちょうど梅の間が空いとるよ。ささ、上がって温まってちょうだい。おーい、誰か! 坂本さんのお荷物持たせて!」
「はーい、ただいま」
厨房の奥から、涼やかな声が響いた。
パタパタと軽い足音が近づいてくる。
現れたのは、洗い桶を脇に抱え、袖を襷で掛けた若い女だった。
その後ろ姿には見覚えがない。だが、彼女がくるりと振り向いた瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。
「……おや。どっかで見た変な顔だと思ったら」
女は、猫のように悪戯っぽく目を細めた。
艶やかな黒髪。気風のいい立ち姿。
「お、おりょう……!?」
長崎の裏通りにある飯屋で、月琴を弾いていた「跳ねっ返り娘」。
なぜ彼女が、遠く離れた京都の寺田屋で、下女の格好をして働いているのか。
「おや、知り合いかい?」とお登勢さんが目を丸くする。
「ええ、まあ。神戸と長崎で、少しだけ」
おりょうは洗い桶をドンと置き、俺の顔をまじまじと見上げた。
「あんた、長崎で死にそうな顔をしてたじゃないか。また腹でも痛めたのかい?」
「いや、腹は痛くないが……おまん、なんで京に?」
俺の問いに、おりょうはケラケラと笑った。
「なんでって、長崎は雨ばかりで退屈だったからさ。適当に東へ歩いてたら、ここに辿り着いたのさ。で、路銀が尽きたからお登勢さんに拾ってもらったってわけ」
適当に歩いてたら、長崎から京都に着いた?
歩行距離が何百キロあると思っているんだ。途中に関所も山もあるぞ。どんなサバイバル能力をしているんだ、この女は。
『照合完了。対象人物:おりょう。長崎からの移動経路および移動手段の論理的推論を実行中……』
脳内で、AIが高速で計算を始めた。
『エラー。徒歩による単独移動での生存確率は極めて低。ヒッチハイク、密航、あるいはその他の非正規ルートの利用を推定しますが……特定不能』
AIのシステムから、ジリジリと焦げるようなノイズ音が聞こえてくる。
『警告。対象の行動パターンは、いかなる歴史的・経済的・政治的合理性にも基づいていません。ただの「気分」で数百キロを移動する個体は、当システムの予測モデルから完全に逸脱しています』
(だから言うたろう。こいつはバグなんじゃ)
俺は心の中で毒づいた。
常に「損得」と「効率」で俺を縛り付けるAIにとって、おりょうのような「ただの気分」で生きている人間は、処理限界を超える天敵なのだ。
「ま、あんたが来たってことは、また面倒な喧嘩でも始まるのかね。せいぜい、血で畳を汚さないでおくれよ」
おりょうはポンと俺の肩を叩き、再び洗い場へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は深い溜息をついた。
寺田屋の二階、梅の間。
案内された部屋は、綺麗に掃除されていたが、俺の鼻にはなぜか、かつてここで流れた血の匂いがこびりついているような気がしてならなかった。
窓を開けると、眼下に淀んだ川の水面が見える。
「……大将。あの娘、なんですか?」
陸奥が荷物を下ろしながら、不思議そうに聞いてきた。
「ただの、風みたいな女じゃ。……だが、あの風に吹かれちゅうと、少しだけ息がしやすくなる」
俺がポツリと漏らした本音に、AIは『感情値の変動理由、不明。解析を後回しにします』という不機嫌なログを吐き出した。
死の都、京都。
いつでも暗殺の恐怖が付き纏うこの場所で、俺はまたしても、予測不能なヒロインに振り回されることになる。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
彼女のその「計算外の行動」が、数日後、幕府の凶刃から俺の命を救う、唯一の希望になるということを。




