第29話 巨漢・西郷吉之助と、究極の丸投げ
慶応元年、秋。
長崎にある豪奢な料亭の奥座敷。
卓の上には、湯気を立てる豚の角煮や、新鮮な海の幸が並べられている。甘辛い醤油と出汁の香りが、鼻腔をくすぐった。
「……食えん。一口も喉を通らん」
俺、坂本龍馬は、豪華なご馳走を前にして、胃のあたりをさすっていた。
昨日、おりょうの生姜湯でなんとか回復した胃壁が、再びキリキリと悲鳴を上げている。
無理もない。俺の目の前には、人間というより「岩山」のような巨漢が座っているのだから。
薩摩藩の最高実力者、西郷吉之助。
太い眉、ギョロリとした大きな目。ただ座っているだけで、部屋の空気を全て吸い尽くしてしまいそうな、圧倒的な存在感があった。
「坂本さぁ。わざわざわしを呼び出して、なんの用ごわすか」
西郷の太い声が、腹の底に響く。
俺は冷や汗を拭いながら、必死に愛想笑いを浮かべた。
「は、はい! 実はその、西郷さんに、ちょっとお願いがございまして……」
「お願い?」
「ええ、ほんの些細なことなのですが……」
俺は言い淀んだ。
言えるわけがない。
英国商人グラバーから、長州のための武器を七万両で買い付ける約束をした。だが、長州は朝敵だから名義が使えない。だから、薩摩藩の名前と、ついでに七万両の金も立て替えてくれ――なんて。
薩摩と長州は、昨日まで殺し合っていた不倶戴天の敵同士だ。そんな頼みをすれば、この岩山のような男に、拳一つで頭蓋骨を粉砕される。
(帰ろう。やっぱり無理じゃ。長州の桂さんには、あとで土下座して謝ろう)
俺が静かに立ち上がろうとした、その瞬間だった。
『逃走行動を検知。これより、薩摩藩に対する「名義借用および資金拠出」の要求フェーズへ移行します』
脳内で、AI「クロフネ」の無慈悲な声が響いた。
(やめろぉぉぉ! 殺される! マジで殺される!)
『対人ネゴシエーション・モード起動。対象のプライドを刺激し、要求を飲ませる論理的アプローチを実行します』
バチリ。
背骨に走る電流。
俺の身体は強制的に畳に縫い留められ、姿勢がピシッと正された。
「……単刀直入に言うぜよ、西郷さん」
俺の口から、やけに重々しく、不敵な声が出た。
「長州が、異国から最新式の銃と軍艦を欲しがっちゅう」
「長州が……?」
西郷の太い眉が、ピクリと動いた。部屋の温度が、一気に五度は下がったように感じられた。
「だが、長州は幕府から睨まれ、表立って武器を買えん。そこでじゃ」
AIが俺の右手を動かし、卓の上の酒猪口をスッと西郷の方へ滑らせた。
「薩摩の名義で武器を買い、長州に回してやってくれんか。代金の七万両も、一旦薩摩で立て替えてほしい」
言った。
言っちゃったよ。
俺は心の中で、自分の葬式の準備を始めた。
静寂。
西郷は、滑ってきた酒猪口をじっと見つめたまま、微動だにしない。
やがて、ギリリ、と。彼の巨大な拳が握りしめられる音が聞こえた。
「……坂本さぁ。おはん、自分が何を言うちょるか分かっちょるか」
地鳴りのような声だった。
殺気だ。桂小五郎のような鋭い殺気ではない。巨大な岩が頭上から降ってくるような、逃げ場のない圧迫感。
「薩摩と長州は、血で血を洗う仇敵ごわす。その長州に武器を渡し、あまつさえ金まで出せと? ……わしを、薩摩を愚弄する気か!!」
ドンッ!!
西郷が卓を叩いた。並んでいた皿が跳ね上がり、豚の角煮の汁が畳に飛ぶ。
(ひいいいい! ごめんなさい! 嘘です! 冗談です!)
俺は涙目で平伏しようとしたが、AIは俺の首をロックして動かさなかった。
むしろ、西郷の巨大な顔を、真っ直ぐに睨み返させた。
『対象の怒りを確認。カウンターロジックを展開します』
「愚弄? 違うのう」
俺(AI)は、鼻でふっと笑った。
「わしは、天下の薩摩藩に『恩を売るチャンス』を与えに来たんじゃ」
西郷の目が、わずかに見開かれた。
「恩、じゃと?」
「今の長州は、幕府に追い詰められ、ボロボロじゃ。ここで薩摩が手を差し伸べれば、どうなる? あのプライドの高い長州が、薩摩に頭を下げることになる。……こんな痛快なことはないじゃろうが」
AIの悪魔的な論理が、静かな座敷に響き渡る。
確かに、敵を助けることで、道徳的な優位に立ち、貸しを作る。それは政治において強力な武器になる。
「それに……」
俺の目が、勝手に細められる。
「西郷吉之助という男は、困っている者を前にして『昔の恨み』を理由に見捨てるような、小せえ男かと思うちょったが……わしの見込み違いじゃったかな」
挑発だ。
完全なる、天下の大人物への挑発。
(言うなァァァ! 西郷さん怒らんで! この口は機械が動かしとるんです!)
俺の心臓は、もはや口から飛び出しそうだった。
西郷の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。怒りか。やはり怒りなのか。
彼が刀に手をかける。
終わった。俺の人生、ここで終了だ。
だが。
「……クッ」
西郷の口から漏れたのは、怒声ではなかった。
「クハハハハ! ワッハッハッハッハ!!」
地響きのような、豪快な大笑いだった。
西郷は腹を抱え、涙を流さんばかりに笑っている。
「いや、恐れ入った! 坂本さぁ、おはんの度胸には負けたごわす!」
「へ?」
「わしの器を、そこまで底抜けにデカいと見込んでの頼み……断れば、西郷吉之助は『小せえ男』になってしまうっちゅうこっか! たまげた交渉術ごわす!」
西郷が、俺の肩をバンバンと叩いた。
痛い。岩で殴られているみたいに痛い。だが、殺意はない。
「よかろう! その話、薩摩が引き受けた! 長州に恩を売って、この天下を面白くしてやろうじゃなかか!」
西郷が、卓の上の酒を一気に飲み干した。
『交渉成立。薩摩藩の協力により、武器調達の全条件がクリアされました』
脳内でAIが、さも当然のようにログを吐く。
俺は、あまりの事態の展開に、ただポカンと口を開けているしかなかった。
「……引き受け、ちゃったよ」
俺の呟きは、西郷の豪快な笑い声にかき消された。
七万両の借金。
グラバーからの武器買い付け。
そして、薩摩の名義を使って長州へ武器を運ぶという、前代未聞の密貿易。
俺がカステラを売って平和に暮らそうと思っていた株式会社は、今や日本の歴史を根底からひっくり返す、巨大な歯車の中心に組み込まれてしまった。
「さあ坂本さぁ! 今日はとことん飲むごわすよ!」
「あ、はい……いただきます……」
俺は震える手で猪口を持ち上げた。
胃痛は治まらない。むしろ、これから運ばなければならない大量の武器と、幕府の目を盗むという重圧で、胃に穴が開きそうだった。
長崎の夜は更けていく。
俺たちの仕掛けた「奇跡の密輸艦隊」が、海原へ漕ぎ出す日は、もう目前に迫っていた。




