第28話 長崎の雨と、おりょうの月琴
慶応元年、秋。
長崎の裏通りにある、うらぶれた飯屋。
外は、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。
「……痛い。腹が、ちぎれるほど痛い」
俺、坂本龍馬は、店の隅の卓に突っ伏し、胃の辺りを両手で強く押さえていた。
グラバー邸での命がけの商談を終え、なんとか雨宿りに飛び込んだものの、極度の緊張が解けた途端に猛烈な胃痙攣が襲ってきたのだ。
七万両。
そして、薩摩藩の西郷吉之助に名義を借りるという、狂気の沙汰。
俺の頭の中のAI「クロフネ」が勝手にぶち上げた計画のせいで、俺の寿命は確実に半分に縮んでいた。
「大将! しっかりしてくださいよ!」
向かいの席で、陸奥宗光が手ぬぐいで濡れた髪を拭きながら言った。
その顔は、俺とは対照的に興奮で紅潮している。
「いやぁ、それにしても痛快でしたぜ! あの悪名高いグラバーを完全に手玉に取るなんて。しかも薩摩を巻き込んで長州に武器を流す……。これが成功すりゃあ、幕府はひっくり返りますよ!」
「ひっくり返るのは、わしの胃袋じゃ……」
俺は呻き声を上げた。
陸奥のやつ、すっかり「過激なテロリストの親玉」として俺を崇拝しきっている。違うんだ、俺はただの巻き込まれた被害者なんだ。
『胃酸の過剰分泌を検知。これ以上のストレス負荷は、胃壁の穿孔リスクを高めます』
脳内で、原因を作った張本人であるAIが事務的に告げる。
(おまんのせいじゃろうが! わしを殺す気か!)
『否定。当システムはあなたの生存を最優先課題としています。推奨アクション:温かい飲料の摂取による副交感神経の刺激』
AIの言う通り、何か温かいものが飲みたかった。だが、この飯屋の親父は奥で居眠りをしており、注文を取る気配すらない。
雨音だけが、店内に重く響いている。
俺が絶望的な気分で目を閉じた、その時だった。
ポロロン。
ふいに、雨音を切り裂くように、澄んだ弦の音が鳴った。
丸みを帯びた、どこか異国情緒のある優しく涼やかな音色。
ポロン、ポロロン。
「……ん?」
俺は顔を上げた。
音の出処は、店の奥の上がり座敷だった。
薄暗い行灯の光に照らされて、一人の女が丸い胴の楽器――月琴を弾いていた。
継ぎ接ぎだらけの着物。だが、スッと伸びた背筋と、艶やかな黒髪には見覚えがあった。
「おや。どっかで見た顔だと思ったら」
弦を弾く手を止め、女がこちらを向いた。
その瞳は、猫のように悪戯っぽく細められている。
「神戸の飯屋で、ガタガタ震えながら喧嘩の仲裁に入ってきた、変な侍じゃないか」
俺は目を丸くした。
「……お、おりょう? なんで、長崎に?」
神戸の海軍操練所時代、一度だけ出会った「跳ねっ返り娘」。
なぜ彼女が、遠く離れた長崎の、しかもこんな裏通りの店にいるのか。
「なんでって、神戸が騒がしくなったからさ。お侍さんがうじゃうじゃ集まってきて、息が詰まるんでね。適当に船に乗ったら、ここに着いたのさ」
おりょうは事もなげに言った。
適当に船に乗った? そんな理由で、女一人でこんな最果ての港町まで来るのか。
彼女には、藩だの、幕府だの、志だのという縛りが一切ない。風のように、ただ自分の生きたい場所へ流れていく。
『照合完了。対象人物:おりょう。前回の接触時と同様、行動原理に論理的整合性が認められません。予測不能な個体です』
AIが警戒するようなログを吐く。
当然だ。常に「損得」と「歴史的意義」で計算しているAIにとって、おりょうのような「ただの気分」で動く人間は、最も理解できないバグのような存在なのだ。
おりょうは月琴を置き、厨房の方へ消えたかと思うと、湯気を立てるお椀を二つお盆に乗せて戻ってきた。
そして、俺と陸奥の卓に、ドンとそれを置く。
「ほら、飲みな。あんた、酷い顔をしてるよ。苦虫を百匹くらい噛み潰したみたいな顔だ」
お椀の中には、白湯に生姜と少しの砂糖を溶かしたような、温かい飲み物が入っていた。
ほんのりと、甘くスパイシーな匂いが鼻をくすぐる。
「……頼んでないぞ」
「お代は要らないよ。店の親父の奢りさ。ま、親父は寝てるけどね」
おりょうはニカっと笑い、自分の分の白湯をすすった。
俺は恐る恐るお椀を両手で包み込んだ。じんわりとした熱が、掌から伝わってくる。
一口、飲む。
「……あ」
生姜の辛味と、砂糖の優しい甘さが、冷え切った胃の腑に染み渡っていく。
美味い。
ただのお湯なのに、グラバー邸で出された高級な紅茶なんかより、ずっと美味かった。
ポロロン。
おりょうが再び、座敷に戻って月琴を弾き始めた。
雨音と、月琴の音。
そして、胃を温める生姜湯。
張り詰めていた俺の背中の筋肉が、ゆっくりと、本当にゆっくりと解けていくのが分かった。
(……はあ。生き返るのう)
俺は深く息を吐き、椅子の背もたれに身体を預けた。
明日には、薩摩の西郷吉之助に会いに行かなければならない。またAIに操られ、命がけのハッタリをかますことになる。
だが、今だけは。
この雨が止むまでの間だけは、何も考えずに休ませてほしかった。
『生体モニター確認。心拍数低下、胃酸分泌正常化。ストレスホルモンの急激な減少を検知』
脳内で、AIが困惑したような音を立てた。
『分析。成分はただの白湯と生姜です。薬理的な鎮静効果としては不十分。なぜ、これほどまでに数値が改善したのか』
(分からんか、クロフネ。おまんには一生分からんじゃろうな)
『エラー。原因不明。対象「おりょう」が発する音波(音楽)による影響を計算中……計算不能』
ざまぁみろ。
世界中の知識を持ち、歴史を操作する未来の機械でも、一杯の温かい白湯と、一人の女が弾く弦の音がもたらす「安らぎ」の数式は解けないのだ。
俺は、少しだけ勝ち誇ったような気分で、おりょうの横顔を見つめた。
彼女は誰のためでもなく、ただ自分のために、楽しそうに月琴を弾いている。
「……いい音だ」
俺の呟きは、雨音に吸い込まれて消えた。
だが、おりょうは耳ざとくそれを聞きつけ、弾く手を止めずにウインクを飛ばしてきた。
陸奥は、疲れ果てて机に突っ伏し、静かな寝息を立て始めている。
長崎の雨は、まだ降り続いている。
だが、俺の心の中の土砂降りは、この小さな飯屋の中で、ほんの少しだけ雨宿りさせてもらえた。
雨が上がれば、また地獄の綱渡りが始まる。
次なるターゲットは、薩摩の巨漢・西郷吉之助。
七万両の借金と、朝敵への武器横流しという、幕末最大の「丸投げ交渉」が俺を待ち受けている。




