第26話 狂犬・桂小五郎と、命がけの商談
慶応元年、晩夏。
長崎の夜は、ねっとりとした雨に包まれていた。
屋根を叩く雨音が、鼓膜に重く響く。
亀山社中の薄暗い土間には、湿った土の匂いと、微かな血の匂いが漂っていた。
「……久しぶりだな、坂本。江戸の道場以来か」
玄関の上がり框に立つ男は、深く被った編み笠から雨の雫を滴らせていた。
濡れた黒髪の隙間から、剃刀のように鋭い双眸がこちらを射抜いている。
桂小五郎。
江戸で剣術修行をしていた頃は、たまに酒を飲むこともある生真面目な剣士だった。
だが、今の彼は違う。幕府から「朝敵」として指名手配されている長州藩の影のトップ。正真正銘の人斬りだ。
「か、桂さん……ご無沙汰、しちょります……」
俺の歯の根は、カチカチとカスタネットのように鳴っていた。
怖い。めちゃくちゃ怖い。
全身から立ち上る、血の底を這うような殺気。江戸の頃の面影は微塵もない。
桂は笠を外し、ゆっくりと土間から板間へと上がってきた。
その腰にある刀に、彼の手が添えられている。
「妙な噂を聞いてな。千葉道場でくすぶっていた男が、勝海舟の残党として長崎に流れ着き、異国から武器を仕入れて売り捌こうとしていると。……幕府の犬に成り下がって、何の真似だ」
低い、地鳴りのような声。
桂が一歩、こちらへ近づく。
空気が張り詰めた。陸奥たち社員は奥の部屋で寝静まっており、この場にいるのは俺と桂だけだ。
(ひいいいぃ! 斬られる! 江戸の友人に斬られる! ごめんなさい、武器なんて売りません! カステラ買ってください!)
俺は畳に額を擦り付け、長州への忠誠と商売からの撤退を誓おうとした。
命あっての物種だ。土下座くらい、何百回でもしてやる。
だが、俺の膝が曲がる直前。
『警告。対象の殺意レベル、極めて高。旧友としての情に訴える行動は、現在の対象には無意味であり、斬撃を招く確率が94%です』
脳内で、AI「クロフネ」が無慈悲なアラートを鳴らした。
(じゃあどうしろって言うんじゃ! 逃げるか!?)
『却下。対象の剣術スキルはあなたを圧倒しています。逃走は不可能です』
(詰んどるやないか!)
『対人ネゴシエーション・モード起動。交渉を有利に進めるため、絶対的な「心理的優位性」を構築します』
次の瞬間、首筋に鋭い電流が走った。
「あぐっ!?」
俺の身体は強制的に直立させられ、土下座の姿勢から一転、見下ろすような形になった。
そして、俺の足が勝手に動き、部屋の中央にある火鉢の前にどっかりと胡座をかいた。
「……座れ、桂さん。あんたの刀から垂れる雨水で、わしの畳が腐る」
俺の口から、冷ややかで傲慢な声が放たれた。
桂の眉がピクリと動く。
「……貴様、長州の人間を前に、随分と余裕だな。昔馴染みだから斬られんとでも思っているのか?」
「昔話で飯が食えるなら、世話はないのう」
AIが俺の右手を操り、火鉢の上の鉄瓶から、ゆっくりと湯呑みに湯を注いだ。
チョロチョロという音が、異様に大きく聞こえる。
俺の心臓は破裂寸前だが、AIによる完璧な筋肉制御のおかげで、急須を持つ手はミリ単位の震えすら起こしていない。
「わしは商人じゃ。志だの、昔の誼だの、そんな不確かなものは売り買いせん。わしが信じるのは、金と、そして『鉄』だけじゃ」
俺は懐から、一発の鉛玉を取り出し、畳の上に転がした。
コロコロと転がったそれは、桂の膝元で止まる。
「最新式のミニエー銃、そして異国の蒸気船。長州が喉から手が出るほど欲しいものを、わしなら用意できる」
「……なぜ、幕府の元役人の懐にいたお前が、朝敵である我らに武器を売る。罠か?」
「罠? 買い被るな」
AIが、俺の眼球をロックした。
瞬きを一切せず、瞳孔をわずかに開いた、爬虫類のような冷たい視線で桂を射抜く。
「幕府はもう、死に体の腐った木じゃ。そんな木に寄りかかって商売をする馬鹿はおらん。わしは、これから伸びる枝に『投資』をするだけのこと。……お前らの幕府への怒りは、極めて上質な、金になる」
静寂。
雨音だけが、部屋を満たしていた。
桂小五郎は、じっと俺の目を見つめ返していた。
俺は泣きそうだった。目が乾いて痛い。助けてくれ。もう勘弁してくれ。早く帰ってくれ。
一分にも感じられる長い沈黙の後。
ふっ、と。
桂の口元から、小さな笑い声が漏れた。
「……クック、ハハハハハ!」
桂が、腹を押さえて笑い出した。
その笑い声には、先ほどまでの刺すような殺気は微塵も含まれていなかった。
「……恐れ入った。志を笑い、幕府を死に体と切り捨てるか。江戸の頃のお前はただのお人好しだと思っていたが……底が知れんな、坂本」
違う。俺の目は、ただドライアイで必死に耐えているだけだ。
「坂本龍馬。この桂小五郎、お前という男の器を完全に見誤っていた。幕府の犬などと呼んだこと、謝罪しよう」
桂が深く頭を下げた。
えっ? あ、謝られた? あの狂犬に?
『交渉成立。対象の敵対心は完全に排除されました。次フェーズへ移行します』
脳内でAIが事務的に告げ、俺の身体の制御を解いた。
ドッと疲労が押し寄せる。俺は思わず、その場に崩れ落ちそうになった。
「……坂本殿? いかがされた」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、天下の重みを感じていただけで……」
俺は震える手で湯呑みを掴み、誤魔化すように茶をすすった。
「して、坂本殿。我々は具体的に、どれほどの武器を用意できるのだ? 長州としては、ライフル銃を最低でも数千丁、そして軍艦が欲しい」
「す、数千丁!?」
俺は茶を吹き出しそうになった。
そんな途方もない数の武器、どうやって仕入れるというのか。
『問題ありません。仕入先は既に選定済みです』
(選定済みって……誰から買う気じゃ!?)
AIが、俺の脳内に一枚の肖像画を投影した。
長崎の外国人居留地にそびえ立つ、巨大な洋館。
そこに住む、冷酷無比な英国の武器商人。
『ターゲット:トーマス・ブレーク・グラバー。彼と接触し、武器の調達交渉を行います』
俺の顔から、一気に血の気が引いた。
桂小五郎との命がけの商談を終えたばかりだというのに。
息つく暇もなく、俺は次なる怪物、青い目をした「死の商人」の元へと放り込まれることになる。
長崎の雨は、まだ止む気配がなかった。




