第25話 はじめての起業と、地獄の密貿易
慶応元年、夏。
長崎の亀山には、ねっとりとした海風が吹き込んでいた。
じりじりと照りつける太陽。遠くで鳴り響く蝉の声。
そして、鼻腔をくすぐる、甘く焦げた砂糖の匂い。
亀山地区の高台にある古びた屋敷の縁側で、俺、坂本龍馬は、焼き立てのカステラを頬張っていた。
「……美味い。甘いもんは、本当に心を平和にするのう」
俺は熱い茶をすすり、ふう、と息を吐いた。
勝海舟先生が江戸へ去り、神戸海軍操練所が閉鎖されてから数ヶ月。
行き場を失った浪人たちを押し付けられた俺は、逃げるようにこの長崎へと流れ着いた。幕府の目も届きにくい、異国情緒あふれる港町だ。
そこで俺たちは、日本初の株式会社「亀山社中」を立ち上げた。
社員は、神戸からついてきた数十名の荒くれ浪人たちである。
パチ、パチパチ。
屋敷の奥から、不器用な算盤の音が聞こえてくる。
覗き込むと、かつては「人斬り」と恐れられたような強面の男たちが、額に青筋を立てながら帳簿と睨み合っていた。
「おい、ここの計算が合わねぇぞ! カステラの材料費と、売上が逆転してやがる!」
「知るか! 俺は刀の振り方は知ってても、そろばんの弾き方なんか習ってねぇんだよ!」
怒号が飛び交うが、刀は抜かれない。平和な証拠だ。
商売は上手くいっていないようだが、それでも命の危険はない。幕府の役人に追われることも、暗殺の恐怖に怯えることもない。
俺の望んでいた「働かない(働いても死なない)生活」が、ついに手に入ったのだ。
「……社長。報告がありますぜ」
背後から、低い声がした。
陸奥宗光だ。彼は分厚い帳簿を小脇に抱え、呆れたような顔で俺を見下ろしていた。
「ご苦労じゃった、陸奥くん。で、今月の儲けはどうじゃ? カステラと、伊万里焼の転売の調子は」
「最悪です。全員の飯代と、この屋敷の家賃を引いたら、利益は完全にゼロ。いや、むしろ赤字です」
陸奥が帳簿を畳に放り投げた。バサッ、と重い音がする。
「無理もねぇでしょう。顔に刀傷のある男が『いらっしゃいませ』なんて凄んだところで、カステラなんか売れるわけがない。町娘が悲鳴を上げて逃げていきますよ。このままじゃ、来月には全員で首を吊ることになりますぜ」
陸奥は深刻な顔をしている。
だが、俺は焦っていなかった。手元のカステラの欠片を口に放り込み、のんびりと答える。
「ええんじゃ。商売いうもんは、最初は赤字が当たり前ぜよ。細く長く、命を大事に生きるのがわしらの社訓じゃき。売れ残ったカステラは、わしらが食えば腹も膨れるろう」
「あんたって人は……どこまでおめでたいんだか」
陸奥が深いため息をついた。
そう、おめでたくて結構。英雄だの、日本の夜明けだの、そんな疲れることはもう御免だ。俺はここで、甘い菓子をかじりながら余生を過ごす。
俺が再び茶呑み茶碗に手を伸ばした、その時だった。
『警告。現在の収益モデルによる組織維持確率は、2%未満です』
脳内で、AI「クロフネ」の無機質な声が響いた。
(うるさい! わしはカステラ屋の社長として生きていくんじゃ! 命の危険がないのが一番じゃろうが!)
『却下。当システムは、あなたを「維新の英雄」とするための最適ルートを再計算しました。菓子販売による歴史的影響度はゼロです。これより、新規事業へ参入します』
(新規事業? なんじゃそら。カステラの新しい味か?)
次の瞬間。
バチリ。
「あぐっ!?」
背骨の芯に、焼けた鉄串を突き刺されたような激痛が走った。
俺の身体はビクンと跳ね上がり、茶碗を取り落とす。ガシャン、と陶器が割れる音が響いた。
「社長? どうしました?」
陸奥が怪訝な顔をした。
俺の足が、俺の意思を完全に無視して動き出す。
ズン、ズンと、畳を踏み鳴らしながら部屋の奥へ。壁に貼られた、巨大な日本地図の前でピタリと止まった。
そして、俺の右手がスッと上がり、地図上のある一点を力強く指差す。
「……カステラは、もうええ」
俺の喉から、腹の底を這うような重低音のオクターブが出た。AIによる強制発声だ。
帳簿と格闘していた浪人たちが、一斉に顔を上げる。
「ちまちました小銭稼ぎは終わりじゃ。わしらはこれから、一番儲かるもんを売るぜよ」
「一番儲かるもの? 何ですか、そりゃ」
陸奥が訝しげに尋ねる。
俺の指先が示している場所。そこは、幕府から「朝敵」として討伐の対象となっている危険地帯。
長州藩だった。
『プレゼンテーション・モード起動。取扱商品を提示します。目標:薩長同盟への布石』
(やめろ! 言うな! それ以上言うたら、わしらは死刑じゃ!)
俺の魂の叫びは、冷酷なAIのプログラムによって遮断された。
俺の口が、はっきりと、恐るべき言葉を紡ぎ出す。
「――銃じゃ。異国から最新式のミニエー銃と蒸気船を仕入れ、長州に流す」
静寂。
屋敷の空気が、完全に凍りついた。
外で鳴いていた蝉の声すら、ピタリと止んだように感じられた。
密貿易。しかも相手は、幕府の最大の敵である長州藩。
もしそれが露見すれば、社長である俺はもちろん、ここにいる社員全員が間違いなく斬首、あるいは磔の刑だ。
「な、何を言ってるんですか大将……! それは完全に、幕府への反逆だ……!」
あの陸奥でさえ、顔面を蒼白にして震えている。無理もない。ただの浪人が手を出していい領域を完全に超えている。
(そうじゃ陸奥! 止めてくれ! 社長は今、機械に操られて狂っとるんじゃ!)
俺は眼球だけを動かし、必死にSOSのサインを送った。
しかし、AIは俺の顔の筋肉を操作し、口角をニヤリと吊り上げた。
恐怖を押し殺した「不敵な笑み」が完成する。
そして、ダメ押しの一言を放った。
「反逆? 違うのう。……これは、新しい国を創るための『投資』ぜよ」
シーン。
重苦しい沈黙が、三秒続いた。
やがて。
「……クハッ、ハハハハハ!!」
陸奥が、腹を抱えて笑い出した。その目は、恐怖を通り越し、狂気と歓喜に満ちている。
「カステラ屋の次は、死の商人ってわけですか! 幕府の目を盗んで、朝敵に武器を流す……最高だ! あんたって人は、どこまで底知れねぇんだ!」
「一生ついていきます、社長!!」
「長州に恩を売って、この腐った幕府をぶっ壊してやりましょうぜ!!」
社員たちが、怒号のような歓声を上げた。
違う。違うんだ。
俺はただ、カステラを売って、平和に長生きしたかっただけなんだ。
『事業計画、社員の同意を獲得。これより「武器調達および長州との接触」フェーズへ移行します』
(勝手にフェーズを進めるなァァァ!! わしは死にたくないんじゃああ!!)
長崎の夏の空に、俺の心の絶叫が虚しく響き渡る。
安全圏だと思っていた株式会社は、立ち上げてわずか数ヶ月で、日本一危険なテロ支援組織へと変貌してしまった。
俺は震える手で、地図上の「長州」の文字をなぞらされたまま、己の不運を呪うしかなかった。
そして数日後。
長崎には珍しい、冷たい雨が降る夜のこと。
亀山社中の薄暗い玄関に、最初の「ヤバい客」が姿を現すことになる。
笠を深く被り、鋭い殺気を纏ったその男は、長州の狂犬と恐れられる男――桂小五郎、その人であった。




