第21話 神戸の海と、跳ねっ返り娘
文久三年、春。
神戸の海は、目か眩むような青さだった。
波の音がザザァ、と響く。
俺、坂本龍馬は、浜辺に一本の杭を打ち込んでいた。
「……なぁ、クロフネ。もうええか? もう十分働いたろう?」
俺は汗を拭いながら、腰を伸ばした。
勝海舟先生と共に神戸にやってきて、一ヶ月。
俺たちはここに、幕府公認の海軍操練所を作ろうとしていた。福井で借りてきた五千両を元手に、材木を運び、測量し、地面を均す。
肉体労働だ。英雄の仕事というより、ただの土木作業員だ。
『進捗率、わずか3%。休憩時間は終了しています』
脳内で、AI「クロフネ」が事務的に告げる。
「鬼かおまん! わしは人間じゃぞ! 飯も食わずに働けるか!」
『栄養補給は推奨します。ただし、効率的な摂取を』
「うるさい! わしは美味いもんが食いたいんじゃ!」
俺はハンマーを投げ捨て、逃げるように浜辺を後にした。
勝先生は測量に夢中で、俺がいなくなったことに気づいていない。今のうちだ。
◇
神戸の町外れにある、小さな飯屋に入った。
暖簾をくぐると、客はまばらだ。昼間から酒を飲んでいる浪人が数人、奥でくだを巻いている。
「へい、いらっしゃい」
出迎えたのは、愛想のない親父だった。
俺は一番端の席に座り、息をつく。
「……茶と、団子をくれ」
「あいよ」
運ばれてきた茶をすする。熱い。だが、この熱さが生きている証拠だ。
AIに身体を乗っ取られて以来、俺の人生はずっと「早送り」されているような気分だった。自分の意志で動けるのは、こうしてサボっている時だけだ。
「おい、姉ちゃん! 酒が空だぞ!」
奥の席で、浪人が怒鳴った。
給仕をしているのは、若い娘だった。
着物は継ぎ接ぎだらけだが、背筋がスッと伸びている。束ねた黒髪が艶やかだ。
「ただいま」
娘の声は、鈴を転がしたように涼やかだった。だが、媚びた響きは一切ない。
彼女は徳利を盆に乗せ、浪人の卓へ向かった。
その時だ。
酔った浪人が、ふざけて娘の手を掴んだ。
「へへっ、肌が白えなぁ。どうだ、一杯注いでくれねえか?」
ありふれた光景だ。
普通の娘なら、「お戯れを」とかわすか、怖がって身を引くところだ。俺なら間違いなく泣いて謝る。
だが、その娘は違った。
『解析開始。対象人物:女性。予測行動パターンA:恐怖による回避、またはパターンB:愛想笑いによる交渉』
AIが冷静に予測を立てる。
しかし、娘は俺たちの予測を裏切った。
「――離しな」
低い、ドスの利いた声だった。
浪人が呆気に取られて手を緩めた隙に、彼女は持っていた盆を、思い切り卓に叩きつけた。
ガンッ!!
徳利が倒れ、酒が浪人の袴にかかる。
店中が静まり返った。
『エラー。予測モデルと不一致。行動理由、不明』
(ええっ!? 喧嘩売った!?)
俺は目を剥いた。
娘は、鬼のような形相の浪人を前にして、眉一つ動かしていなかった。むしろ、その瞳は獣のように爛々(らんらん)と輝いている。
「お客様は酒を飲みに来たんだろう? 女を買いに来たなら、別の店に行きな」
言い放った。
すげえ。心臓に毛が生えてるどころじゃない。鋼鉄でできてる。
「こ、このアマァァッ!!」
浪人が激昂し、刀に手をかけた。
まずい。斬られる。
俺はとっさに席を立ち、店を出ようとした。関わりたくない。流れ弾は御免だ。
『警告。民間人への武力行使を検知。介入を推奨』
(嫌じゃ! あんな凶暴な女、助ける義理はない!)
『却下。英雄的行動を選択します』
バチリ。
「あだっ!?」
電流が走り、俺の足が勝手に止まった。
そして、身体がくるりと反転する。
俺の足は、スタスタと浪人の方へ歩き出した。
(やめろ! 行くな! 死ぬ!)
「おい、そこの侍」
俺の口から、低い声が出る。
浪人が振り返った。
「あぁ!? なんだ貴様、この女の仲間か!?」
浪人が抜刀しようと腰を落とす。
俺の心臓は破裂寸前だ。膝がガクガクと震え始める。
だが、AIはその「震え」すらも利用した。
『身体制御:威圧モード。震動を「武者震い」に見える周波数へ調整』
(周波数とか知らんわ! 止めてくれぇぇ!)
俺は震える手で、浪人の手首を掴んだ。
いや、掴まされた。
「……女相手に刀を抜くか。そのなまくらが泣いちょるぜよ」
決まった。
震える声が、逆に「怒りを必死に抑えている」ような凄みを生んでいる。
浪人の顔色がサッと変わった。俺の腰に差している刀(陸奥守吉行)と、異様な迫力(AI演出)に気圧されたのだ。
「ち、チッ……酒が不味くなったわ!」
浪人は捨て台詞を吐き、銭を投げ捨てて出て行った。
助かった。
俺はその場にへたり込みそうになったが、AIが背骨をロックして直立を維持させた。
「……怪我はないか」
俺は娘に向き直った。
彼女なら、きっと「ありがとうございました」と泣いて感謝するだろう。そうすれば、少しはこの恐怖も報われるというものだ。
しかし。
娘は、じっと俺の顔を見て――ふふっ、と笑った。
「あんた、変な男だね」
「は?」
「手も足もガタガタ震えてたじゃないか。怖かったんだろ?」
バレてる!?
AIの完璧な演技を見抜いたのか?
『警告。対象の洞察力、測定不能。論理的説明がつかない』
娘はしゃがみ込み、散らばった徳利を拾い始めた。
「怖いのに、割って入ってきた。……馬鹿だねぇ」
その言葉には、嘲笑ではなく、どこか温かい響きがあった。
彼女は顔を上げ、ニカっと笑った。
それは、作り物めいた「女らしさ」とは無縁の、太陽のような笑顔だった。
「うちは、おりょう。あんた、名前は?」
「……坂本、龍馬じゃ」
おりょう。
その名前を聞いた瞬間、AIが奇妙なログを吐いた。
『データ照合……該当人物なし。ただし、対象の「自由度」係数、測定限界を突破』
(自由度?)
俺には分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
AIに管理され、がんじがらめにされた俺の人生の中で、この娘だけが「計算外」の光を放っているように見えたのだ。
「龍馬さんか。覚えておくよ」
おりょうは立ち上がり、厨房へと消えていった。
後に残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
(……なんじゃ、あいつ)
胸の奥が、AIの電流とは違う理由で、少しだけ痺れていた。
だが、感傷に浸っている暇はなかった。
店を出ると、向こうから勝先生が走ってくるのが見えた。
「おい坂本! どこほっつき歩いてやがんだ! 大変だぞ!」
「ど、どうしました先生」
「噂を聞きつけて、入塾希望者が殺到してきやがった! しかも、どいつもこいつも人斬りみてぇな顔した浪人ばっかりだ!」
俺の顔が引きつる。
神戸海軍操練所。
そこは日本の夜明けを作る場所――ではなく、全国の荒くれ者が集まる「地獄の合宿所」になろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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