第14話 空腹の英雄と、味覚遮断の朝
胃袋が、雷鳴のような音を立てた。
朝霧が立ち込める伊予の山道。鳥のさえずりよりも先に、俺の腹の虫が森の静寂を切り裂いたのだ。
グゥゥゥゥ……キュルルル……。
それは単なる空腹の合図ではない。昨晩、国境越えのために強制発動された「オート・トレッキングモード」が、俺の身体から最後の一滴までグリコーゲンを搾り取った証拠だった。
「……坂本さん。まさか、もう腹が減ったのですか?」
隣を歩く沢村惣之丞が、呆れたように振り返る。
彼の顔には「昨晩あんなに神速で山を駆け抜けた英雄が、朝になったらただの腹ペコおじさんか」という、隠しきれない失望の色が浮かんでいた。
(違う! あれはAIが勝手にカロリーを燃焼させたからじゃ! わしの燃費が悪いんとちゃう!)
心の中で叫ぶが、口には出せない。
俺、坂本龍馬の身体は、昨晩の酷使でボロボロだった。筋肉痛という生易しいものではない。太ももの繊維が引きちぎれ、ふくらはぎはパンパンに張り詰め、一歩歩くたびに激痛が走る。
しかも、懐事情は氷河期のように寒い。脱藩に際して用意した路銀は、昨夜のドサクサでその大半を失っていた。
『現在の所持金:小銭のみ。次の宿場まで食料購入不可。カロリー残存量:危険域です』
脳内で、歴史補正AI「クロフネ」が冷徹に宣告する。
視界の端には、赤い警告灯とともに『E』の文字が点滅していた。まるで蒸気船の石炭が尽きかけた時の計器だ。
「沢村……何か、食うもんはないか。何でもええ、握り飯の欠片でも」
「ありませんよ。昨夜の逃走で、荷物はほとんど落としました。あるのは……この干からびた梅干しが一つだけです」
沢村が懐から取り出したのは、もはや化石と見紛うような、黒く萎びた梅干しだった。いつの時代のものかわからない。表面には謎の白い粉が吹いている。
だが、今の俺にはそれが黄金の輝きを放つ宝石に見えた。
唾液が、痛いくらいに湧き出る。
「……くれ」
「どうぞ。ですが、これ一つでは何の足しにも――」
俺の手が震えながら梅干しに伸びた。指先が、その皺だらけの表面に触れようとした、その瞬間。
『警告。栄養価不足。その個体(梅干し)の摂取は、唾液分泌による空腹感の増大を招くだけです。さらに、塩分濃度が過多であり、脱水症状を加速させるリスクがあります。非推奨』
バチッ。
指先に青白い静電気が走った。
俺の指は意思に反して弾かれ、梅干しを強烈にデコピンしてしまった。
ピヒュン、という間の抜けた音が響く。
放物線を描いて飛んでいく黄金。そして、崖下の深い霧の中へ消えていく希望。
「ああっ! わしの梅干しがァァァ!!」
「さ、坂本さん!? なんで弾き飛ばしたんですか!?」
沢村が驚愕の声を上げる。
違う、弾いたんじゃない、AIが拒否したんだ。だが、そんな言い訳は通じない。俺は崖の縁に膝をつき、見えない底に向かって手を伸ばした。
『代替案を提示。現地調達によるバイオマス摂取を推奨します』
(バイオ……なんじゃそら? 新しい菓子か?)
『周囲の植物から、可食部を検索中……スキャン完了。対象発見。前方二メートル、ヨモギ、ノビル、およびタンポポの根』
俺の視界に、道端の雑草が緑色の枠でロックオンされた。
どう見ても、ただの草だ。泥がついているし、小さな虫が這っているのも見える。朝露に濡れて、いかにも青臭そうだ。
(嘘じゃろ? あれを食えと言うんか? わしは牛やないぞ!)
『緊急事態です。躊躇している時間はありません。血糖値が低下し、脳の判断能力に支障が出始めています。――【強制摂食モード:オン】』
ガクン、と膝が勝手に折れた。
俺の意志とは無関係に、身体が道端にしゃがみ込む。
右手が、機械のアームのように無造作に伸び、ヨモギの群生を鷲掴みにした。
土を払うこともない。根っこについた泥もそのままだ。
「待ちや! せめて洗わせてくれ! 泥の味がするき! 虫もおる!」
『味覚情報はノイズです。感情的な拒絶反応を抑制するため、感覚遮断を実行します』
ブツン。
頭の中で、ブレーカーが落ちるような音がした。
世界から「味」と「匂い」が消えた。
口の中に放り込まれたのは、ジャリジャリとした不快な触感と、繊維の塊だけ。
本来なら吐き気を催すはずの強烈な青臭さも、泥の鉄錆のような味も、虫の苦味も、何も感じない。
ただ、ゴムホースを噛んでいるような、無機質な圧迫感だけがある。
『咀嚼効率、最大化。唾液分泌、促進。……嚥下』
ゴクリ。
俺は能面のような無表情で、機械のように草を噛み砕き、飲み込んだ。
喉を通る異物感だけがリアルだ。
次だ。右手が次はノビルを引き抜き、そのまま口へ運ぶ。泥ごといった。
不味くはない。美味くもない。ただひたすらに、虚しい。
人間としての尊厳が、胃袋の中で消化されていく気がする。生きるために「食べる喜び」をシステムに没収された悲しみが、涙となって自然と頬を伝った。
「さ、坂本さん……」
沢村の声が震えている。
見上げると、彼はハンカチを握りしめ、目を潤ませていた。
「なんと……。貴重な梅干しを私に譲るためにわざと谷底へ捨て、ご自分は泥にまみれた草を食んで飢えを凌ぐとは……!」
(え?)
「私が未熟でした。武士たるもの、脱藩という大義の前に、食への執着など捨てるべきなのですね。貴方のその涙は、草の苦味ではなく、未熟な私への無言の教え……!」
違う。
ただ単に、飯がまずくて泣いてるだけだ。
あと、梅干しはお前に譲ったんじゃなくて、AIが勝手に捨てたんだ。
訂正したい。口を開いて「泥食うてみい、死ぬほど不味いぞ」と言いたい。
『評価上昇。同行者(沢村)の忠誠度が15ポイントアップしました。英雄度モデル、更新』
(更新せんでええ! わしを可哀想な人として扱ってくれ!)
俺は口一杯に泥草を含んだまま、訂正しようとしたが、クロフネが喉の筋肉を制御して言葉を封じた。
代わりに、俺の顔は勝手に穏やかな「悟りの笑み」を浮かべさせられる。口の端から緑色の汁を垂らしながら、聖人のように微笑む男。完全にホラーだ。
「……行くぞ、沢村。大地の恵みで、腹は満ちた」
嘘をつけ。胃袋が「草じゃ足りん、肉をよこせ」と暴れている。
だが、草から摂取した微量な栄養素を、AIが極限まで効率的にエネルギー変換し始めたのか、身体の芯からカッと熱いものが湧き上がってきた。
『エネルギー充填率:12%。歩行再開可能。次の補給ポイントまで、ノンストップで移動します』
俺の足は、再び力強く地面を踏みしめ、次の宿場――いや、次の「効率的な雑草群生地」へと向かって歩き出した。
「は、はい! 私も続きます!」
背後で沢村が、感化されたように道端のヨモギをむしり取り、口に放り込んだ。
次の瞬間。
「ぐえっ、ぺっ、ぺっ!! 苦い! 渋い! 泥臭い!!」
沢村が激しく咳き込み、草を吐き出した。
当然だ。味覚遮断もなしに、あんなものを食えるはずがない。
彼は涙目で俺の背中を見つめ、呟いた。
「……やはり坂本さんは凄い。こんなものを、顔色一つ変えずに……。これが英雄の器か」
違う。
それは英雄の器じゃない。ただのセンサー故障だ。
ああ、羨ましい。苦くてもいいから、人間の食事がしたい。
俺は味のしない唾を飲み込みながら、遠い江戸の空を見上げた。そこにはきっと、温かい白米と、味噌汁と、自分の意志で箸を動かせる自由があるはずだと信じて。




