第13話 オート・トレッキングと、非情なる断捨離
草鞋が泥を噛む、鈍い音が闇に溶けた。
夜の森特有の、湿った腐葉土とシダ植物が混じった匂いが鼻をつく。
視界の端には、半透明のコンソール画面が冷徹な青い光を放っていた。
『現在地点:土佐・伊予国境付近。正史との乖離:0.02%。……警告。予定通過時刻より18分の遅れ』
(遅れゆう? こっちは必死に走っとるぜよ!)
心の中で叫んでも、脳内の居候――歴史補正AI「クロフネ」は無視を貫く。
俺、坂本龍馬は今、猛烈な勢いで山道を登っていた。
正確には、登らされていた。
「はぁ……はぁ……! 坂本さん、少し休みませんか……荷物が、重すぎます!」
背後で、沢村惣之丞が悲痛な声を上げる。
無理もない。俺たちは脱藩生活のための大荷物を背負ったまま、すでに三里(約12キロ)もの山道を歩き続けているのだ。
俺の背中には、着替え、道中記、そして乙女姉さんが「いざという時はこれを食え」と持たせてくれた握り飯と干し柿が詰まった風呂敷包みがある。命の次に大事な、愛とカロリーの塊だ。
『原因解析完了。移動速度低下の主因は、過積載です』
(過積載?)
『あなたの現在の筋力に対し、装備重量が限界を超えています。速度回復のため、ペイロードのパージ(強制廃棄)を推奨します』
嫌な予感がした。
クロフネの言う「推奨」は、いつだって「命令」と同義だ。そして「パージ」という響きに、ろくな思い出がない。
(待ちや。パージって、まさか……)
『実行します』
瞬間、俺の右腕が勝手に動いた。
背負っていた風呂敷包みの結び目に、意志とは無関係に指がかかる。
「ちょ、やめろ! 中には姉さんの握り飯が! まだ一口も食うてないき!」
『生存確率の向上には、カロリー源よりも機動性が優先されます』
ブチッ。
俺の手は躊躇なく結び目を解き、愛しい荷物を高々と頭上に掲げた。
月明かりもない闇夜に、俺の腕がしなる。
「あーーーっ!! わしの握り飯ーーっ!!」
俺の絶叫が木霊する。
風呂敷包みは美しい放物線を描き、深い谷底の闇へと吸い込まれていった。ドサッ、という絶望的な音が、遥か下から響いてくる。
だが、悲劇はそこで終わらなかった。
軽くなった俺の身体は、クルリと機械的に反転し、背後の沢村に向かって歩み寄る。
「さ、坂本さん? 何を……?」
沢村が後ずさる。
俺の口が、勝手に開き、英雄的なバリトンボイスを響かせた。
「沢村。死にたくなければ、捨てろ」
「えっ?」
「その荷物が、お前の命を重くしているのだ。過去を捨てて、身軽になれぜよ!」
かっこいいセリフだが、言っていることはただの強盗だ。
俺の手が伸びる。沢村の肩にかかった荷物をひったくる。
「ああっ!? やめてください! 私の着替えが! 唯一の娯楽の春画が!」
「甘えるな! 維新の道に、春画は不要!」
ヒュンッ。
沢村の荷物もまた、虚空へと投げ放たれた。
谷底へ消えていく春画。さらば、沢村の慰めよ。
残ったのは、俺たちの身一つと、それぞれの腰に差した刀、そして沢村が懐に隠し持っていた小さな手巾包みだけ。
『総重量、15kgの削減に成功。機動性、向上』
(鬼かおまん! 沢村の春画まで捨てることないろうが! あいつ泣きそうな顔しちゅうぞ!)
俺が心の中で抗議する間もなく、身体に異変が起きた。
荷物がなくなったことで、重心が変わったのだ。身体が羽のように軽い。
それをAIが見逃すはずがなかった。
『歩行リズムを再計算。――【オート・トレッキングモード:オン】』
「ぎゃっ、あだだだだ!」
膝の裏に、バチリと強烈な電流が走った。
直後、俺の足はまるでタガが外れたように、爆発的な速度で回転し始めた。
「うわあああ! 速い、速すぎるぜよ!」
「さ、坂本さん!? 待ってください!」
身軽になった俺は、もはや人間ではない。野生の鹿だ。いや、ブレーキの壊れた蒸気機関車だ。
泥を蹴り、岩を飛び越え、闇夜の山道を疾走する。
視界には、AIが表示する「最適ルート」の緑色のラインが光り輝き、それに沿って走ることだけを強制される。
俺の意識は「ひええ」「痛い」「帰りたい」と絶叫しているのに、外側から見た坂本龍馬は、月明かりの下を風のように駆け抜ける孤高の志士そのものだった。
「おお……なんという身のこなし。坂本さん、荷物を捨てた決断力、まさしく英断! 私も続きます!」
後ろから、必死に追いすがる沢村が叫ぶ。
違う。俺は春画も握り飯も捨てたくなかった。
だが、止まれない。
番小屋の明かりが見えてきた。本来なら慎重に進むべき、国境の最難関だ。
『前方30メートルに国境の番小屋を検知。隠密行動へ移行します』
「おい、待て、この速度で隠密って――」
返事をする間もなかった。
俺の身体は突如、重力を無視したような低空姿勢――いわゆる「ダッシュ」の状態になり、草むらの中を音もなく滑り出した。
『筋力リミッター解除。乳酸の蓄積を無視。後ほど激痛が来ますが、仕様です』
(仕様で済ますな! 明日、俺の足は消えてなくなるぞ!)
番小屋の脇を、影のように通り過ぎる。焚き火の爆ぜる音。
役人が欠伸をした瞬間、俺の身体は岩陰にピタリと張り付いた。
心臓がバクバクと暴れているが、クロフネは無慈悲に宣告する。
『心拍数制御。……呼吸、抑制。スタミナを温存します』
(ふぐっ、苦しい……!)
肺の動きが強制的に止められた。英雄になる前に、窒息で死ぬ。
心臓の鼓動までが無理やりスローダウンさせられ、視界がチカチカと明滅する。
数秒後、ようやく呼吸が許可されたときには、俺たちは既に土佐の国境を越えていた。
目の前に広がるのは、知らない土地の、さらに深い闇だ。
ここから先は、もう「坂本家の次男坊」ではない。ただの罪人だ。
冷たい夜風が、汗ばんだ首筋を撫でていった。
そして、俺たちの手元には食料も着替えもない。あるのは、筋肉痛の予感だけだ。
「ついに……越えましたな。坂本さん、もう我々に故郷はありません」
沢村が湿った土の上に座り込み、感傷的な声を出す。
俺も隣で座り込みたかった。泥を払って、さっき捨てた乙女姉さんの弁当を食べて、そのまま朝まで眠りたかった。
だが、クロフネはそれを許さない。
俺の右手は、名刀「陸奥守吉行」の柄を力強く握りしめ、視線は遥か彼方の江戸の方角へと固定された。
『目標:勝海舟との接触。……リソースを次のフェーズへ移行します』
「さらば、土佐。わしの志は、もうこの国には収まらんき」
俺の唇が、震える声で勝手に名セリフを吐いた。
本当は、今すぐ実家に帰って布団に潜り込みたい。
だが、俺の足は、無慈悲なAIに急かされるように、次の「死に場所」へと向かって一歩を踏み出した。
『次のミッションまで、残り三百里。……歩け。止まることは許可されません』
(……鬼。この機械、マジで鬼ぜよ……!)
夜明けはまだ遠い。
俺の脱藩行は、感動的な決意などではなく、AIによる強制労働と、空腹への序章として幕を開けたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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