第10話 世界地図と低解像度の未来
上士に土下座させられたあの日から、俺の中の何かが腐り始めていた。
怒りではない。諦めだ。
(……つまらん)
俺は自宅の縁側で、鼻毛を抜きながら空を見ていた。
この土佐という国は、狭すぎる。
身分、家柄、古いしきたり。
息をするたびに、カビの生えた空気が肺に入ってくるようだ。
『警告。精神活動の低下を確認。ドーパミン分泌量が規定値を下回っています』
(うるさいのう。やる気が出んのじゃ。江戸の団子屋が恋しい)
『提案。環境を変えるための「刺激」が必要です。本日午後、アポイントメントを設定しました』
(誰と?)
『河田小龍。この近辺で最も「バグった」思考を持つ人物です』
河田小龍。
名は知っている。絵師でありながら、アメリカ帰りの漂流民(ジョン万次郎)から直接話を聞き、西洋の事情に通じているという変わり者だ。
なんでも、自宅に引きこもって一日中、異国の地図を眺めているらしい。
(変人じゃん。関わりとうない)
『却下。彼はあなたの「OS(思想)」をアップデートするための重要なキーマンです。行きます』
バチッ。
軽い電流が腰に走り、俺は強制的に立ち上がらされた。
***
河田小龍の家は、墨とカビと、何かわからない獣の匂いがした。
部屋の中は足の踏み場もない。
描きかけの絵、大量の書物、そして酒瓶が散乱している。
「……誰じゃ、おんしは」
本の山から、モジャモジャ頭の男が顔を出した。
目がギョロリとしていて、焦点が合っていない。
完全に「アッチ側」に行っている目だ。
「坂本龍馬と申します。……その、面白い話が聞けると聞いて」
「面白い話?」
小龍は鼻で笑った。
「わしの話は毒じゃぞ。幕府が聞けば即刻打ち首、土佐の役人が聞けば発狂するような劇薬じゃ。それでも聞くか?」
(帰りましょう。クロフネ、帰ろう。絶対ろくなことにならん)
『続行。その「毒」こそが、今のあなたに必要なワクチンです』
AIに背中を押され(物理的に筋肉を収縮させられ)、俺は部屋へと踏み込んだ。
「構いません。わしはもう、土佐の常識には飽き飽きしちゅうき」
俺の口が勝手に生意気なセリフを吐く。
小龍の目が、怪しく光った。
「ほう……。面白い若造じゃ」
彼はガサゴソと本の山を崩し、一枚の大きな紙を取り出した。
それを俺の目の前に、バーン! と広げる。
「これを見ろ」
それは、地図だった。
だが、俺が見慣れた日本の地図ではない。
「……なんじゃ、こりゃあ」
見たこともない大陸。
広大な海。
無数の国々が、色とりどりに描かれている。
「世界じゃ」
小龍が得意げに言った。
「これが世界地図じゃ。ここにある米粒みたいな島が日本。おんしが住んでいる土佐なんぞ、もはやゴミ同然の点じゃよ」
衝撃だった。
頭をハンマーで殴られたような気がした。
日本が、こんなに小さい?
俺たちが「上士だ下士だ」と揉めているこの場所は、世界から見ればただの埃なのか?
(すげえ……! こんな広い世界があるんか!)
俺の心臓が早鐘を打つ。
これは感動だ。冒険心がうずく。
だが、脳内のAIの反応は違った。
『解析完了。対象物:一八五〇年代製の世界地図』
クロフネの声は冷ややかだった。
『精度:低すぎます。北米大陸の歪みが一五%、オーストラリア大陸の形状に至っては想像図レベルです。GPS座標との誤差、最大五〇〇キロメートル』
(は?)
『解像度が粗末すぎます。こんな「落書き」をありがたがるとは。Googleマップの縮尺レベル1にも及びません』
(水差すなや! わしは今、感動しゆうがじゃ!)
AIは容赦なく視界に「正解の地図」をオーバーレイ表示してくる。
俺の網膜には、小龍の地図の上に、真っ赤な修正ラインが無数に引かれた映像が映し出された。
『ここが違う』『ここも違う』『海流データ欠落』……。
うるさい。感動が台無しだ。
「どうじゃ若造。腰が抜けたか」
小龍がニヤニヤしながら俺の顔を覗き込む。
「この広い海を、黒船は蒸気で渡ってくるんじゃ。日本刀なんぞ振り回して勝てるわけがなかろう?」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
AIのダメ出しはともかく、この圧倒的な「広さ」の前に、自分の悩みがちっぽけに見えたのは事実だ。
「じゃあ、どうすればええがです? 異人を斬るのがダメなら、わしたちは座して死ぬだけですか」
「商売じゃよ」
小龍は即答した。
「商いじゃ。物を売り、買い、利益を出す。これからは『武士』の時代じゃない。『商人』の時代じゃ」
商売。
武士が一番卑しいとしてきた行為。
だが、小龍の目は本気だった。
「土佐には樟脳がある。紙がある。これを異国に売り、代わりに軍艦を買う。そうやって国を富ませるんじゃ。……刀で人は斬れても、貧しさは斬れんからのう」
その言葉を聞いた瞬間。
脳内で、ピコン、と軽快な電子音が鳴った。
『キーワード検知:「商売」「利益」「軍艦購入」』
『評価プロセス更新。……適合』
(……え?)
『これまでのあなたの行動指針は「生存」と「歴史修正」のみでしたが、新たな勝利条件が設定されました』
AIの声色が、少しだけ明るくなった気がした。
『「経済的支配」です。武力による制圧はコストが高く、リスクも大きい。しかし、商売によるネットワーク構築は、極めて効率的かつ、あなたの性格(怠惰・女好き・話し合い好き)に適しています』
(褒めてるんか貶してるんかどっちじゃ)
『結論。この男の理論は採用に値します。土佐藩という狭いサーバーに留まるメリットはありません。直ちに「商社」設立の準備を』
(商社!? またわからん言葉を!)
俺は頭を抱えた。
だが、小龍は俺が悩んでいると勘違いし、さらに熱弁を振るう。
「どうじゃ、坂本! おんしも、この狭い鳥籠を出て、世界を相手に商売をしてみんか! 太平洋を、家の庭のように行き来してみんか!」
小龍の言葉は熱い。
AIの計算は冷たい。
だが、二つの意見が奇妙に一致していた。
――ここを出ろ、と。
「……先生」
俺は顔を上げた。
網膜には、AIが表示する「高精細な世界地図(Googleマップ版)」が青白く輝いている。
小龍の地図よりもずっと広く、ずっと正確で、そして残酷なまでに「遠い」世界。
「わしに、その『商売』とやら……できるでしょうか」
「できるとも!」
小龍は俺の肩をバシッと叩いた。
「おんしには『目』がある。今の話を聞いて、怖がるどころか、その地図を『直しそうな』顔をしておった(※AIが修正ラインを引いていただけです)」
「へ?」
「常識に囚われない目じゃ。おんしなら、黒船さえも飼い慣らせるかもしれん」
買いかぶりだ。
俺はただ、AIのノイズに眩暈がしていただけなのに。
***
帰り道。
俺の足取りは、来る時よりも少しだけ軽くなっていた。
(なあ、クロフネ)
『何でしょう』
(商売って、儲かるんか?)
『計算上、成功すれば国家予算規模の利益が見込めます。軍鶏鍋が一生食べ放題になるレベルです』
(乗った!!)
俺は即決した。
動機は不純だが、目的は定まった。
軍鶏鍋のために、俺は海に出る。
(でも、どうやって出る? 関所破りは死罪じゃぞ)
『合法的な出国は不可能です。よって、非合法手段を選択します』
(つまり?)
『脱藩です』
やっぱりそうなるのか。
俺はため息をついたが、不思議と恐怖は薄かった。
さっき見た「世界地図」の広さに比べれば、土佐の関所なんて、庭の柵くらいに思えたからだ。
『ただし、準備が必要です。資金、ルート、そしてタイミング。すべてを完璧に整えるまで、あなたは「真面目な藩士」を演じ続けてください』
(演じる? 何をすればええ?)
『まずは……「堤防工事」の現場監督です』
(はあ!? なんでそうなる!)
『資金稼ぎと、組織運営の予行演習です。さあ、スコップを持ちなさい。日本の夜明けは、泥仕事から始まります』
こうして俺は、壮大な世界進出の第一歩として、近所の川のドブさらいを命じられることになった。
英雄への道は、常に地味で、泥臭い。
お読みいただきありがとうございます。
坂本龍馬、今回も無事に英雄扱いされてしまいました。
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