第五章【五】
俺は再び千秋の張り込みに戻ったけど、今頃智也の解剖が行われているかもしれないと思うと落ち着かなかった。ただ、智也の死に事件性がなく事故か病死だったのだとしてもそれと響商事、そしてタクトフル電子とどう絡んでくるのかが分からない。
響商事からしたら有能な社員、いや有能すぎる諜報役を失ったにすぎず、一社員の死が会社を揺るがす事態に発展するとは思えない。無論、彼が将来的に響商事を背負って立つ立場にいたのなら損失は大きいだろうが。
だが、そうなると愛人騒動も見方が変わる。もし智也が将来的に響商事の役員に昇進し、ゆくゆくは社長の座に上り詰めることが内定していたとしたら、千秋が愛人云々と騒ぎ立てたことに違和感を感じる。
無論、男女のことは俺には分からない。夫が国内屈指の大企業のトップに上り詰め、自らが社長夫人の座を射止めることが決まっていたとしても、いやだからこそ夫に愛人がいることが許せなかったのかもしれない。
でもそう考えると、愛人宅としながらも虚偽の住所を弁護士である雅さんに伝えたことの説明がつかなくなる。一体千秋の目的はなんだったのか? そして愛人としてだけでなく横領犯としても訴えられた堂城絵里は一体どういう立場なのか。今となっては彼女が単純に愛人且つ横領犯とは言い切れなくなってきている。
そして今、響商事が海外から買収を仕掛けられているという。それとこれまでの事象に何か関係があるのだろうか。いや、あると思う方がいっそしっくりくるし、大きすぎる力が水面下で蠢いているような気がしてならない。
それにしても今日は千秋が降りて来ない。いつもなら午前の買物に出てくる頃なのに。と考えたところで昨日俺が犯した失態を思い出した。そうだ、昨日俺は尾行に気付かれたのだ。当然、あのダークスーツの男は千秋に俺の存在を伝えているだろう。年格好を聞いた千秋は、すぐに俺のことを思い浮かべたに違いない。
過去にマンション内で彼女のことを聞き込んだ前科があるから、当然その時のことに結びつけて誰かが自分のことを調べていることは察しているだろうが、誰が調べているのかと考えた時に思い付くのは警察よりも鷺ノ杜弁護士の方が確立が高い。
俺と千秋が顔を合わせたのは、俺が桜山で智也の遺体を発見した時に殺人容疑で連れて行かれた瑞穂警察署から一応無罪放免された際の駐車場での一度しかないし、あの時の俺は雅さんと共にいたから例えば俺が何かしら罪を犯した未成年のボンボンで、息子に甘い親が弁護士を警察署に赴かせて身柄を引き取った帰りだったって想定もできそうではあるが、九九%雅さんの手先だと思われていると自信を持って言い切れる。
冷静に考えれば白壁のマンションの防犯カメラには俺が映っているから、気の良いおばさんに中に入れてもらったことも一目瞭然だ。あのおばさんが千秋に若い男の子が色々聞いてきたのよなんて囁いていれば、身の危険を感じるとでも言い立てて管理会社に防犯カメラを見せてもらうくらいのことはするだろうし、そういう知恵には長けているように思えてならない。
つまり、千秋は俺の張り込みに気付いているし、ダークスーツの男も当たり前に彼女の元に来る筈がないのだ。
「しまった、完全に詰んだ」
ここで見張っていても千秋は来ない。なら引き上げようかとも考えたけど、どうにも腰が重い。何故だか分からないけど、ここを離れてはいけないような、いや小骨が喉に突き刺さったままのような気持ち悪さがある。
どうしてこんな風に考えるのだろうか。たった二週間程度のバイトですっかり調査員としての才能を開花させたとは思わない。大体、その二週間のうち何日かは講義に追われて仕事はしていないのだ。
きっと張り込みに使用していた喫茶店にすっかり馴染んでしまったからだ。最初は嫌な顔をされたけど、三〇分から一時間程度の間隔でオーダーをするようしたら愛想が良くなって寧ろ歓迎してくれるようになったから、そして案外料理が美味かったから、だから言葉は違うけど里心が付いただけだろう。
調査には使わなくなっても自宅からも大学からもロードバイクを飛ばせば来られるし、勉強で利用させてもらえば良いさと思い、俺は雅さんにその旨を伝えるべくスマホを手に取った。
そしてその瞬間、俺は自分の中の違和感に気が付いた。そう電話だ。昨日、事務所に帰宅した際、雅さんは固定電話とスマホの両方を使っていた。俺は警察とのやり取りをしていたスマホではない方、つまり固定電話の相手を響商事にM&Aが仕掛けられていることを知らせる電話だと思い込んでいた。いや、それ自体は間違いじゃない。
でも、それ以外の電話はなかった。もし俺があのダークス-ツの男なり千秋の立場なら鷺ノ杜弁護士事務所に抗議の電話を入れると思う。少なくとも千秋は自分の身辺を探っているのが警察か雅さんだってことは承知しているし、俺のことを男から聞いたらすぐに雅さんに結びつけて報酬を支払い終えたのに何故まだ周辺を探るのかと激怒してもおかしくない。
なのにそんな電話はなかった。あったら雅さんは俺にそのことを伝えるだろうし、かと言って尾行がバレたことを叱責することもないと思う。そもそも報酬を得られなくても調査の続行を決めたのは雅さんだ。
無論、調査が続行されることを千秋が想定していなかったことも考えられるし、今の状況で文句を言えばやましいことがあると自ら言っているようなものだから敢えて黙っているとも考えられるが、俺は千秋は雅さんを舐めているのだと考えた。
若手で経験年数の少ない弁護士。それは恐らく日本弁護士連合会のホームページで調べたのだろう。そのサイトでは所属弁護士会の欄にチェックを入れて事務所の住所、この場合は市町村だけ入力すれば該当する弁護士名だけは検索できるし、女性弁護士だけを検索することもできる。
さすがに経験年数までは分からないが登録番号を見れば大凡の経験年数は分かる。いや、それこそ響商事の顧問弁護士が関わっていれば、千秋が女性弁護士か女性弁護士がいる弁護士法人を検索して敢えて女性弁護士を選び、選んだ弁護士の経歴を顧問弁護士が調べることは可能だ。
俺も実際そのホームページを試しで使ったことがあるが、弁護士検索にしても弁護士法人情報検索にしても「あ」の一文字で検索可能で、リサーチだけなら本当に簡単なのである。
弁護士を雇うという行為は軽はずみなことではできない。だから人となりを確かめる必要が生じる。優秀でもソリが合わなければ雇う気にはならない。それだけ弁護士を雇うという行為は重苦しく、そして壁が高いのだ。その壁を少しでも軽くする為の弁護士会のシステムをまさか悪用する人間がいるなんて考える人間は皆無とまではいかなくても少数だろう。だがそういう人間が存在したのだ。
雅さんはドイツで司法を修めたから日本での活動年数は三年しかない。登録番号もそれを表していることだろう。それらの数字だけを見れば世間知らずの女弁護士としか思えない。そして実際会ってみて、形が派手なだけのお嬢様弁護士と高を括ったのかもしれない。
雅さんを調べた弁護士も響商事の顧問を務めるくらいだから相当優秀な人物だろうが、さすがに日本で活動する以前を調べようとは思い付かなかったのだろう。
俺がもし海外で弁護士資格を取得したなら、スキップするほどの能力はないにせよ六年も現地で勉強することで現地の言語を取得することになる。しかも学ぶのが法律なら専門用語も多い。そんな苦労をして取った資格なら現地で有功活用しようと思う。だからその顧問弁護士も雅さんが留学していただなんて疑いもしなかったのだろうし、雅さんの年齢を知れば尚更日本の大学を出たと思い込んでも何らおかしくはないのだ。
遡って調べなかったことが大きな反動を伴うことになったから企業の顧問弁護士としては痛恨のミスだが、さすがに同情を禁じ得ない。相手が雅さんでなければ思惑通りになっただろうから。
さて、問題はその思惑だ。俺のこの考えは推論にすぎないが、多くいる弁護士の中でなぜ雅さんを選んだのかって推理はあながち間違っていないと思う。だがどうして経験園数の浅い女弁護士を選ぶ必要があったのか。恫喝すれば引くと思ったのか。いや、弁護士になるような女性が恫喝のひとつやふたつで信念を曲げるとは思えない。
となると、過去に扱った案件を調べて選んだのか。千秋が弁護士を選ぶ際、雅さんを一本釣りしたのではなく複数人を検索した後に顧問弁護士に調査を依頼したと考えるのが妥当だ。となると、経験年数と過去の案件、あとは家族構成とか出身校とかそんなところだろうか。
訴訟記録は百五十円で見られるって藤田が言っていたけど、ひとつ間違いがある。閲覧の許可が出ているのは民事訴訟だけなのだ。それに、それこそどの裁判にどの弁護士が付いたのかを調べるには膨大な手間暇がかかる
だけど例外もある。誰もが知る有名な裁判で弁護人として付いていたら、その名は過去の新聞で調べられるだろうし、企業の顧問弁護士なら頭の中に入っていることだろう。逆に記憶に残らないほどに小さな裁判しか担当していなければ、裁判記録を見る以外その名を知ることはできない。
雅にさんは刑事民事双方できる両刀使いだが、三年の枠に縛られたままで調査をするなら裁判記録も三年分だけ調べれば良い。しかも閲覧は誰にでも可能だから響商事の信頼できる社員を動員して人海戦術で調査することも可能だ。そうやって調べた三年分の民事裁判の記録の中に鷺ノ杜雅の名がなければどうだろう? 愛人騒動と横領は民事だから、打って付けだと思ったに違いない。
俺はとても嫌な気持ちになった。そんな観点で弁護士を選ぶ輩に反吐が出る。何よりあの雅さんを無能者扱いする輩に腹が立つ。
怒り心頭の俺を我に戻させたのは手にしたスマホから伝わる振動だった。




