第五章【四】
言葉が出ない俺の前で雅さんはテレビを付けた。と言ってもニュースの録画だ。画面の上方を見ると時刻は十九時だと告げているから、俺が事務所に戻ってくる直前の全国ニュースだろう。そのニュースのトップニュースが正に響商事が外資系企業からM&Aを仕掛けられているという話題だった。
よく咄嗟に録画できたなと感心したけど、俺が事務所に戻ってきたとき雅さんは電話をしていた。スマホの方は警察との通話に使っていたから、固定電話の方にこの放映を知らせる情報が入っていたのだとしたら得心できる。
さすがに弁護士だけあって情報網が多いのだろう。だが、そんな情報網をもっていてもニュースで取り上げられたことはあまりに急すぎて連絡が直前になったのかもしれない。もしかすると放送局側も放映直前になってニュースの差し替えを余儀なくされた可能性もある。
アナウンサーの説明によれば、相手企業はアメリカの巨大コングロマリットだと報じている。キャスターと経済アナリストを名乗るゲストの会話を聞いていると、不況下の日本にありながら毎年上方修正をするほどの収益を上げている企業をアメリカの財閥が欲しがるのも無理はなく、その財閥は国とも密月を保っているためこれはアメリカという国の願望なのだろうとし、そしてこれに対して響商事側の今後の対応に注目が集まるだろうと話しを締め括り、次のニュースに移った。
俺は啞然としたまま暫く動けなかった。これは調査員としての心情ではなく日本人としての心情だ。国内屈指の企業がアメリカ資本の企業に買収されようとしているなんて、理不尽を通り超して腹立たしささえ感じてしまう。
俺はまだ学生だから響商事とは何ら関係のない身分だけど、でも響商事とその傘下が売り出す製品を当たり前のように手に取り使っているから無関係とは言い切れない。恐らく多くの日本人が響商事とその傘下の企業がアメリカ資本になることを望みはしないだろう。
そんなことになれば、これまで安心して購入してきた製品の安全性や品質に疑問を抱く日が遠からず訪れることが分かるから。そしてそうなれば響商事の収益は確実に下がる。そうと分かっていても外資から見れば欲しい企業なのか? それとも買収したとしても響商事側に損益は出させないって自信でもあるのか?
「それにしても、こんな大きな情報がよくこれまで報じられずにいたもんですね」
「響商事側が相当強い箝口令を敷いていたと考えられるわね。マスコミが噂程度の情報を掴んだとしても信憑性がなければ報道はできない。つまり米国側が買収に応じない響商事の態度に業を煮やして情報をマスコミに流した可能性がある」
雅さんの言葉はもっともなことだと思った。少なくとも経営が好調な響商事が簡単にM&Aに応じるとは考えられない。でも本当にアメリカ側が焦れて動いたならば、もっと前から水面下で攻防戦が繰り広げられていたことになる。そう考えた時、不意にとある考えが頭に浮かんだ。
「もしかして、智也の異動がこの買収騒動に関係してるとか?」
「ええ、その可能性が捨てきれなくなったと思う」
雅さんはある仮説を話してくれた。
「別府夫妻が結婚したのは十年前。時期的に本社が京都から名古屋に移った後ね」
その時、既にM&Aを仕掛けられていたとしたらどうだろう? その雅さんの言葉に俺はゴクンと唾を飲み込んだ。
十年前に既に買収されそうになっていた。ただ、そんな情報は世には出ていないからその時は回避したのだろう。でも恐らくその後も度々M&Aを仕掛けられ、その都度回避した。そして今回何度目かのM&Aは遂に世の知ることになってしまった。
「さっきも言ったようにアメリカ側が響商事を買収する予定だと敢えて本国で発表したんでしょうね。で、その情報をわざと日本のマスコミに掴ませた」
或いは、敢えて日本のマスコミが掴むようなやり方をした。ちなみに雅さんの先程の電話相手は俺の予想通りこの買収行為を知らせてくれた人物だそうだ。その電話のおかげで夕方のトップニュースの録画ができたとホッとする雅さんを見て、経済はよく分からないけど大変なことが起きているんだと察することはできた。
それにしても執念深く汚いやり方をする連中だ。でもこれこそが企業の真の実態で、どんなにホワイトに見える企業でも必ず裏の顔があるってことだし、経営陣は冷徹でなければやっていられない厳しい世界なのだろう。
「無論、マスコミに公言する前に響商事への買収行為は勧告されていたでしょうね」
なんだか頭がこんがらがってきた。そうだとして、それが別府夫妻と何の関係があるのだろう?
「九年前、結婚を理由に智也をタクトフル電子に異動させたのが、そもそも買収を止める手段のひとつだったとしたら?」
「え?」
「買収から手を引かせるために、響商事が送り込んだ工作員と言ったら理解できるかしら?」
それって実際には横領事件はなかったってことなのかな? 確かにそう考えれば横領犯に対して働きながら三百万を返還しろと温情をかけたことにも得心がいく。ただ、そのために横領犯の汚名を着せられた堂城絵里の立場はどうなのだろう。
彼女が無実なのは響商事本社、事件の現場となったタクトフル電子の上層部と経理の社員は知っているだろうが、世間的に見れば少額であれ彼女は横領犯だ。まだ二十代の女性が自らの経歴に傷が付くことを由とするだろうか? いや、だからこそ鷺ノ杜雅に穏便に済ませて欲しいと依頼してきたのだろうか。
会社を守るためなら社員の一人くらい犠牲にしても何ら問題ないと企業側は思っているのだろうし、会社さえ守られれば犯人役を引き受けてくれたことへの謝礼や経歴に傷を付けたことへの慰謝料は支払われるだろうが、それでも絵里の立場を考えると釈然としない。
「覚王山のインド料理屋の店員が千秋と絵里が親しげだったって証言をしてますけど、やはりこの買収に絡んだ話しをしていたんでしょうか?」
「十中八九そうでしょうけど、千秋が響商事傘下の社員か取引先の人間と接触していたってだけで、彼女自身が響商事の社員か否か、もし社員ならどのセクションに属しているのかハッキリしていないから、まずはそこを調べないことにはね」
確かに千秋については全てが憶測にすぎない。絵里との関係も一緒にいたとか親密そうだったという印象だけで、実際はどういう関係なのかも明らかではない。ただ言えるのは、横領事件も愛人騒動も虚偽の可能性が出てきたってことだけだ。でもそうなると智也の死はどう関係してくるのだろう。
「そこなのよね」
雅さんはそう言いながら重い溜息を吐く。
「あくまでも仮定だけど、智也の死自体が二つの騒動に関わっているのかもしれない」
「え、じゃあ智也は殺されたと?」
「そうじゃないわ。でも……」
雅さんらしくもなく歯切れが悪いが、俺は急かさず黙って彼女の口が開くのを待った。
「あくまでも推論だけど、智也の死自体は突発的なものだったとしても、その死が二つの事件の切欠になったように思うの」
智也のタクトフル電子での裏の役割は分からなくても、二つの騒動の中心に智也が存在するのは事実で、そこに作為を感じずにはいられないというのが雅さんの考えのようだ。
「じゃあ、この騒動の中心にいるのは響商事本社と智也で、千秋は協力者にすぎないんでしょうか?」
「それも判断が難しいのよね。智也が亡くなったあと千秋が計画を引き継いだのかもしれないし、立案者が千秋で智也は実行者だったのかもしれないし」
まるで諜報機関の司令部と工作員のように思えて空恐ろしくなってくるが、日本国内でそんなことはあり得ないとも言い切れない。
「響商事に何らかの不祥事があったら、それが嘘でも本当でも買収を仕掛けてきた企業にしてみれば手を引く理由になると思うのよね」
つまり、企業のイメージダウンを図ることで相手に手を引かせるって戦法を取った可能性があるってことか。響商事側にとって苦肉の策だろうが、確かに死なばもろともならぬ、沈なばもろともな戦法を突き付けたとしたら相手によってはリスクを負いたくないから逃げ出すだろう。この策を考えた人間がいたとして、俄然その人物に興味を覚えた。
恐ろしいまでに冷静で怜悧で、自分の身を犠牲にしてでも相手をやり込める様は喧嘩の達人だ。しかもその喧嘩も切った張ったではなく極めて理知的で、身を切ると見せかけて実は傷付いていないとくる。ただこれは堂城絵里に何ら傷を付けずにいることが前提だから、まだ決まったわけではない。そしてそれらを調べるには避けて通れないものがある。
「結局、千秋が響商事の社員なのか否かをハッキリさせる必要があるってことですよね」
そして、彼女がどういう立ち位置で二つの騒動に関わっているのか。或いは、夫婦でどう関わっていたのかが焦点になる。
「俺、千秋の張り込みを続けてみます」
どうせ堂城絵里と知己だったことを突き付けても千秋は口を割らないだろうし、買物中に男と接触している最中に声を掛けても誤魔化そうとするに違いない。そして俺にはそんな千秋を尋問する権利はないのだ。なら、鬱陶しいと思われるほどにピッタリとくっつくしかない。それで焦った千秋がボロを出してくれれば万々歳だ。
「かなりやり手な女性だから逆にこれ以上追い回すなと脅しをかけてくるかもしれないし、それこそストーカーとして訴えられかねないわよ」
雅さんは暗に危険だと警告してくれたけど俺の方にもプライドがあるし、一度は殺人犯扱いされているからそれを思えばストーカー扱いの方がマシだ。それにその時は千秋さんが弁護してくれるだろう。
「分かったわ、無理はしないで。遂に本丸に切り込むのだから」
そうだ、智也がタクトフル電子に異動していたから事態がややこしくなったしなったけど、これまでの調査や推理の積み重ねから分かったのは、爆心地、即ちグラウンドゼロは響商事なのだ。




