第五章 【三】
名駅周辺はオフィスビル多いが大抵が商業施設と併設されていて、建物にはミッドランドスクエアとか大名古屋ビルヂングっていう企業を全く感じさせない名称が付けられている。当たり前だ、だってそのビルに入っている企業は一社ではないのだから。
でも、いま俺の目の前にそびえ立つビルは違った。そのビルの正面玄関と最上階にはモダンなサインで響商事の表記が漢字と英語でされている。後から思い返すと男が入って行った通用口にも社命が掲げられていただろうが、この時の俺は動揺が激しかったんだよな。いや、生まれて初めて味わった恐怖と言うべきか。
とにかく雅さんに連絡しなければと俺は事務所に電話をした。
『はい、アルデア法律事務所でございます』
雅さんの落ち着いた声を遮るように俺は叫んだ。
「響商事です!!」
『歩夢くん? どうしたの、落ち着いて』
「別府千秋と会っていた男が響商事の本社ビルに入って行きました」
電話の向こうで暫し沈黙が降りた後、事務所に戻ってくるように言われる。その時、サインに仕込まれた照明が点いて、俺は心の中でもうそんな時間なのかとボンヤリと思いつつも戻って来いと言われたことにすぐには納得できなくて何故だと反論する。でも電話の向こうからは理路整然とした言葉が返ってきた。
『響商事の本社はビル一棟がまるっと響でしょ? もう答えは出ているじゃないの』
そう言われてしまえば確かに俺の目の前にそびえる近代的で洒落た高層ビルは響商事の本社ビルで、しかも周囲のビルとは違って他の企業にフロアの貸出などはされていない。それは一階の玄関フロアーでも確認済みだ。
名駅にありながら商業施設すら入っていない生粋の本社ビルで、そのビルの地下通用口からICチップ入りのカードを使用して入っていったということは、彼はこのビルに勤務する人間かチップ入りのカードを渡される程に信頼された取引先の人間の二択しかない。
「分かりました」
俺はロードバイクをターンさせると一旦駅前に出てから笹島北の交差点を左折し、伏見経由で錦へと向かう。七月に入って官公庁を含めた勤め人にはボーナスが出る季節だからか、通りにある居酒屋やレストランの外は賑やかな嬌声を上げる人達で溢れている。その嬌声につられたのか、俺の気持ちも多少上向いていたのは千秋のことで進展があったからだろう。
事務所に戻ると雅さんは電話をしていた。しかも固定電話とスマホの双方を使っていて大忙しの様相である。
「ええ、本当にありがとうございました。では失礼いたします」
固定電話の向こうには随分丁寧な言葉を使っているから取引上目上の人物なのかな。右手の受話器を置くと左手のスマホを耳に当てるが、こちらに対しては少しぞんざいな口調だ。
「それはわざわざどうも」
雅さんは二件の通話を終わらせてから俺の方に顔を向けたけど、その目は真剣な色を帯びていた。電話の相手は分かりかねるが、その目の色から雅さん的にもビンゴと思える情報を手にしたように見える。
「戻りました」
「お疲れ様。難しい尾行だったでしょ、よくやってくれたわね」
労いの言葉に心がこもっている上に、雅さんからお褒めの言葉をもらったことが心底嬉しい。
「智也の勤め先はタクトフル電子で間違いなかったわ。あと、歩夢くんの嫌疑は晴れたそうよ」
「ってことは智也の解剖が済んだんですね。事件か事故、どちらだったんですか?」
俺の問いに雅さんは渋い顔をした。
「とりあえず背中の針痕だけ急いで調べてくれたみたい。で、生体反応はなかったって。解剖はこれからだそうだけど事件性はない可能性が出てきたし、こんな時間だから結果が分かるのは明後日くらいかしらね」
なぁんだ。まだ死因の特定はされていないのか。でも、俺の殺人への関与は否定された訳だから、それだけでも気が楽になった。
「で、ちょっとこれを見てくれる?」
雅さんのデスクの上には何枚か書類が広げられている。
「別府千秋の戸籍謄本と附票ですか?」
「ええ」
弁護士だとこんな権限もあるのか。でもどうして今になって取り寄せたんだろう? 秘匿事項を明かさず弁護士に依頼してきた時点で取り寄せようと考えなかったのかな? 無論、それだけの権力があるからこそ権力の行使には気を使うんだろうけど。
俺はその疑問をそのまま雅さんにぶつけたが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「依頼を受けた時にはここまで騒動が大きくなるとは思わなかったの。でも、歩夢くんの疑問はもっともね。私が甘く見ていたのが原因だし、だからこそ千秋も私を舐めてかかったのかもしれない。でも智也が遺体で発見されても千秋は相変わらず隠し事が多いし。でもね、性根を据えてこの件に挑もうと思ったのは歩夢くんの存在が大きいかな」
「俺?」
「そう。学生のバイトなのに真摯に挑む君の姿勢を見て、依頼料が発生しない智也の死後の調査をおざなりにしていたんだなって気付かされたの。だから向き合おうと思って」
なんだか照れくさい。俺がいなくても事件が事件を呼んだような状況下で雅さんが動かないとは思えないから、俺のことはきっと沢山ある理由のひとつだと思う。それでも俺に向き合ってくれる雅さんの言葉は嬉しかった。
「さて、歩夢くんは響商事のことには詳しい?」
雅さんってば切り替えが早すぎる。しんみりとした雰囲気が一気に仕事モードだ。
「日本を代表する大企業ですから、それなりには」
資本金は約三千億で、傘下の企業は五百数社を有し従業員数は連結を含めると約三十万人の巨大コングロマリットだが、俺が知るのはこれくらいだ。
「じゃあ沿革までは知らないのね」
「はい、恥ずかしながら」
雅さんは俺の言葉には反応せず話しを続けた。
「これを見て」
俺はプリントアウトされた響商事の沿革と別府千秋の附票を見つめた。別に目を惹き付けるものはないように見える。
「響商事は創業年数百年。設立からは九十年。旧財閥とまではいかないけど老舗の大企業ね」
創業と設立って違うんだ。ってのが俺の感想。そんな俺に失望する様子は見せずに雅さんは説明を続ける。
「京都で創業を始めて設立後も本社は京都。というよりは、十年前まで京都が本社だったんだけど、位置的に日本の真ん中だからって理由で名古屋に本社ビルを構えたの」
そう言いながら雅さんが千秋の附票のとある箇所を優美な指でなぞる。それを見て俺は『あっ!!』と声を上げた。
「気付いた?」
俺は激しく肯定した。千秋は生まれも育ちも名古屋だが、大阪の大学に進学して大学卒業後は京都に転居している。これは響商事に入社したからか?
「その後を見て。響商事が本社を名古屋に移したのと同時期に千秋も名古屋に転出しているの」
どう考えても偶然の一致とは思えない。
「ちなみに智也の方は?」
雅さんは智也の謄本と附票を見せてくれた。
「神奈川出身で東京に転出後、やはり京都へ行っている。年齢的に大学は東京で就職時に京都へ行ったことになるわね」
つまり、あの夫婦が出会った場所は響商事本社だったと考えて良さそうだ。
「二人の入籍後に智也が出向になったんですか?」
「智也がタクトフル電子へ異動した時期を調べて婚姻時期と照らし合わせてみたけど一致したわ」
結婚後すぐに智也は響商事からタクトフル電子に異動になった訳だ。
「社内恋愛で結婚すると、どちらかが異動になるって本当なんですね」
「でも、別府夫妻は双方共に勤務先が名古屋市内な上に同居できていたんだからマシよ。結婚しても同居数ヶ月で異動とか滅多に会えないとかザラだし。全国展開している企業なんて定年を迎えてやっと同居ができなんて冗談のような本当の話まであるし」
結婚しても新婚ラブラブな時期から双方が単身赴任状態だなんて俺は御免だ。
「それが分かっていて敢えて総合職として入社したのだから外野はとやかく言えないわね」
それに妻が専業主婦だとしても夫が転勤族なら定期的な転勤に備えて持ち家は買えず定年まで根無し草のような生活になる覚悟が必要になると聞いて、俺にはと到底受け入れられない世界に思えた。
「別府夫妻は響商事の上層部に相当可愛がられていたと思うの」
出向後も同居できる生活圏に留める。これはそれしか考えられないと雅さんは言うが、転勤ってどうやって決めるんだろう? グループ企業が五百社以上もあるけけど適材適所になっているのかな?
「適材適所は無理。例えは四月と十月に定期異動があるとする。毎回、海外まで含めた数百人単位の異動者が出る。でも企業が動かしたいのは数人。例えば地方でもそこそこの都会でトップセールスの人材を首都圏にとかね。その人物を首都圏に異動させるために玉突きで出される人間がいる。その積み重ねが数百人規模の転勤」
雅さんの説明は分かりやすいけど内容には啞然とせざるを得ない。つまり必要のない転勤が多いってことで、学生の俺にも無駄だと思えたからだ。だからこそ、別府夫妻が優遇されていたことは明白である。
「どちらも響商事の上層部に可愛がられていた、或いは能力があったから響の本社圏内での異動にした。いずれは響商事に呼び戻す気だったんですかね」
「その可能性は否定できないわね。そもそもタクトフル電子は智也が転勤する一年ほど前に傘下になったばかりの企業だから、響商事の上層部の腹心を送り込んだ可能性もあるわね」
タクトフル電子に問題があったように聞こえるけど、それは雅さんが否定した。
「タクトフルには何ら問題はなかった。寧ろ円満な買収と言うべきかしら。タクトフル側が響の傘下に入りたがっていたと聞いたことがあるし。ただ傘下になることに全員が了承したとは限らないから、智也を両社の調整役、いえ諜報役として送り込んだのかも」
弁護士って経済にも詳しいんだなと俺は感心した。
「益々、上層部からの愛を感じるな」
俺が茶化してそう言うと雅さんの表情が少し曇った。
「実は、響商事が外資系企業からM&Aを仕掛けられているの」
「え?」




