第五章【二】
折しも夕刻のラッシュに巻き込まれた黒塗りの車はノロノロと動いていてロードバイクで尾行するのにさほど支障は出なかった。さほどと言うのは、車の動きが遅いせいで逆にロードバイクの俺の方が追い超してしまうことが少なからずあったのだが、渋滞していたおかげで見失うことは免れた。
車を追尾して改めて気が付いたのは黒い車が案外多いってことだ。大学の駐車場にはカラフルな車が並んでいるからこれは想定していなかった。もしかして無難な白や黒を選ぶユーザーが多いってことなのだろうか。
時間的に営業マンが会社への帰路に就きはじめる頃だろうから、俺が追いかけている車も千秋の密会相手の自家用車ではなく社用車の可能性があることに気付いて、尚更見失う訳にはいかないと気合いが入る。
ちなみに藤田の所の親父さんは警察官僚だけあって送り迎えの車があるらしい。そう考えると、いま道路を走っている車の中には様々な企業や団体のお偉いさんが乗っていることだって考えられる。そう考えると、気になるのが男性の身分や社会的地位だ。
一体、どういう立場で千秋とこっそり会っていたのか? 目的は何なのだろう? もしこの尾行に成功すれば千秋の職場とまではいかなくても、少なくと彼女がどの企業のどのセクションと懇意にしているのかが判明するかもしれない。
該当車は依然、ノロノロと走っている。しかもそんな混雑した道の途中でファザードを点けて道の端に車を止めたり、降りて煙草を吸っていたりすることもあって、尾行を警戒しているのは確実だと思った。
車の窓にはスモークが貼られているから中を窺い知ることはできないが、もしかすると白壁のマンションで俺に千秋のことを話してくれた主婦が、後に千秋に貴女のことで色々聞かれちゃったわなんて言っていないとは言い切れない。
気の良いおばさんだったけど、その気の良さで悪気はなく寧ろ千秋を心配している体で俺のことを話していたら千秋は警戒するに違いない。もしかすると引きこもっていたのも、俺がマンションを突き止めたことを知ったからかもしれないし、買物にもあまり出てこなかったのも俺の存在を警戒してのことだったのかもしれない。
あの時、調査上あの行為は仕方なかったし報告した時も雅さんは何も言わなかったから、逆に警戒されることは想定済みだったのかもしれないけど、何だか俺だけがそのことに今更気が付いて悔しかったし、何より調査の仕事のリスク管理の難しさを実感した。
追っている車はロードバイクで尾行されることを承知しているのだろうか。だとしたら、俺の姿はサイドウィンドウに映り込んでいるのかもしれない。
そう考えると、渋滞でノロノロと走っているから尾行は楽だと考えた俺を殴りたくなる。逆だったんだ。渋滞でノロノロと走っているからこそ運転手は周囲を見渡す余裕があるし、逆にこういう時は車で後ろにピタリと付いた方が不審がられないんだと悟った。
ただ、とにかくこの尾行は成功させなければならない。もしこの尾行がバレているなら、この先チャンスが廻ってこない可能性がある。そう思うと尚更ロードバイクのハンドルを握る手に力が入った。
だが感情論だけでは逆に上手くいかないことが多い。この尾行を成功させるためには俺の姿が運転主の目に入らないようにしなければならない。最も気にかけるべきはサイドウインドウだろうが、ルームミラーも侮れない。
とにかく俺は運転手から姿が見えない位置まで後退し、そしてこの後どうやって追うかを考えてふと思い付いた。
そう言えば、追尾し始めた時は渋滞のおかげで俺の方が交差点の横断歩道を渡ってしまい、車がその交差点で曲がってしまったおかげで焦りながら反対側の舗道から追尾したんだっけ。あれをやれば良いんじゃないか?
後ろにくっつけば見付かるが、反対側から追尾すれば目立たない。それにサイドウインドウやルームミラーにも映らない。
右折や左折をされると車と俺の距離が開いてしまうことが危惧されるが、夕刻の車が多い時間帯だから、曲がったことさえ確認できればすぐに追い付けるだろう。
俺はとりあえず車の車種とナンバーを覚えつつスマホとメモ帳に記載すると、路肩に寄せられた該当車から一旦離れるべく素早く追い越した。
追い越した先の交差点で待つこと数分。警戒を解いたのか、目的の車が現れる。俺は直進か曲がるのかを確認した後で、横断歩道を渡って反対側の舗道へ行く。
それを何度か、と言ってもそれほど苦にならない程度繰り返したが、どうやら相手は俺が車を見失しなったか諦めたと思ってくれたのか、途中で止まることなく車の流れに乗ってくれて俺は安堵しつつも慎重に尾行を続ける。
車は白壁から東片端に出たので栄方面に行くのかと思ったが、丸の内を過ぎた辺りで名古屋駅の方に向かっているのではと考えたけど過信は禁物だ。
車とは反対側の舗道を走りながらの尾行は気を遣うし、もし反対側に視線を向けられて俺の姿に気付かれたらと思うと受験の時よりドキドキしたが、どうやらハンドルを握ることに集中しているようで車は不審な動きを見せないまま走り続けてくれている。
俺の尾行も気になるだろうが、ハンドルを握る者としては車間距離が短い渋滞時は事故を起こさない方に注意を向けるのが普通だろう。もしそれを無視して俺の尾行だけを交わそうと行動するなら、そもそも片側二車線の広い道路なんて走らず裏道を爆走するだろうし、もしそれをやったら俺は奴を堅気ではないと判断するしかない。
とはいえ、本当にヤクザあるいはヤクザ紛いの輩なら、それこそ千秋とこっそり会う理由が分からないし、今回の騒動に反社が絡んでいるなら愛人と横領を騒ぎ立てた先の着地点が更に予想できないものになってしまう。
ただ、ハンドルを握る男の走りを見ていると、俺を意識しての途中停止や煙草以外は至極真っ当で真面目な走りだから、さすがに反社はないだろうと思った。
そうこうしているうちに車は明道町の交差点を直進していく。向かう先は名古屋駅の周辺に林立する高層ビルだろうかと思ったが決め付けるのはまだ危険だ。ここらで右折すれば庄内緑地公園方面に向かうことになるし、その先にある庄内川を渡ると北名古屋市に入ってしまう。
車を追うって行為がこれほど大変だとは思わなかった。ただ追うだけならともかく尾行がバレてしまった時に身を隠しながら追う方法や、行き先の想定などこれほど頭と体力をフル稼働するだなんて考えていなかったから、自分の社会への見解の甘さとか尾行をただ追うだけと軽く考えていたことに呆れてしまう。
そうこうしているうちに車は外堀通りを走りノリタケの森の南側まで流れてきていた。ここまで来れば行先は名駅だと確定して良いだろう。俺は少しだけ安堵感を味わうが、こういう時にこそ撒かれる可能性があるからと一層気を引き締める。
車は左折しJR名古屋駅前に出たが、そのまま直進を続けている。ここまでくるとロータリーがあったりビルが雑多に林立しているから反対側から尾行するのは無理になってくる。
仕方なく俺は追う車の後ろにくっついた。気付かれたらお終いだとは思ったけど、ここまで来る間に俺の存在が見えないことですっかり気を許したのか、車は特に不審な動きを見せないまま走っていく。そのまま追っていくと、車はミッドランドスクエアの南を左折して一〇〇メートルほど先のビルの地下駐車場へと入っていった。
それを見届けたあと、俺はどっと押し寄せてきた疲労感に苛まされる。尾行がこんなに気を使うものだったなんて思ったことはなかった。警察なら自動車ナンバー自動読取装置、通称Nシステムがあるけど弁護士事務所にはその権限はない。それでも、Nシステムは犯罪者以外には使用不可だから、疑惑のある人物の尾行は現職警官であっても俺みたいに緊張と疲労を常に強いられているのかな。そう思うと、土谷刑事の苦労や何でも闇雲に事件化できない、つまり不審な遺体が出てもすぐに司法解剖とはいかないって意味が理解できた。ただそれが冤罪や逆に真犯人を逃すことに繋がるのは皮肉以外の何者でもない。
尾行が成功したことに飛び上がって喜びたい気分に陥りつつも、俺は車の後に続いて地下駐車場へ入るべきか否かで迷った。だが迷っている間に男がこのビルのどこに用があるのか確かめられなくなってしまう。
俺は腹を括ると、地下駐車場へと下った。ビルの地下の全てを駐車場としているらしく、そこは恐ろしく広い。地上で少し躊躇したかから車を見失っていたが、地下では車のタイヤが軋む音が響いている。その音を頼りに車を探すと丁度バックして駐車しようとしているそれを見付ける。
だがその時、社内にいた男と正面から目が合ってしまうミスをやらかしてしまった。しまったと思ったが、後の祭り。引き返そうとしてロードバイクをターンさせた俺は車から降りてきた男に制止するよう言われその威圧感のある声にビビッたものの、俺はすぐに拳を繰り出せるよう身構えた。
「君か、弁護士事務所の調査員ってのは」
尾行と俺の正体がバレていたことにはそれほど驚かなかった。それより男の威圧感の方が怖くて腹に力を入れていないと気が遠くなりそうだ。俺は反社を怒らせてしまったのだろうか。それはつまり千秋も反社と関わりがあるってことで、俺は知りすぎた男として海に沈められるのかもしれないと本気で考え恐怖した。
「最近の学生さんは無茶をするな。こんな危ないことをするのは止めなさい」
あれ? なんだか思っていたのと違って親に注意されたような気分だ。意外な展開に驚いて俺は一言も発せられないまま男を見送ることになったが、彼は堂々と地下の通用口からビル内に入っていく。
呪縛が解けた俺はその通用口の確認をしたが、そこはICチップの入った社員証をかざさないと入れないシステムで、俺は慌てて外に出てビル名を確かめ啞然とした。




