第9話
目を開けると、そこは神殿の椅子の上だった。
ろうそくの炎はまだ揺れ、甘いお香の香りが部屋に満ちている。
女神像はもう虹色の光を放っておらず、ただの石像に戻っていた。
だが、部屋の空気はどこか重く、張り詰めた静けさが漂っていた。
エリシアは体を起こした。
ドレスの裾が少し乱れていることに気づき、直す。
目の前に、神官長エレノアがいた。
彼女は跪き、両手のひらを上に向けて地面につけ、額を石の床に押し当てるように頭を下げていた。
顔は完全に伏せられている。
まるで絶対的な服従の姿勢だ。
エリシアは喉の奥がきゅっと閉じた。
「……あの」
神官長が、顔を上げた。
だが、体は動かず、そのままの姿勢を崩さない。
「お帰りなさいませ、エリシア様」
声はどこか畏敬の念が込められている。
エリシアは予想外の事態に言葉を失った。
「あの……どのくらいの時間、経ってますか?」
神官長はわずかに首を振った。
「さほど時間は経っておりません。儀式が始まってから、まだ数分しか経過していないかと」
エリシアは周囲を見回した。
ろうそくの炎の長さも、確かにほとんど変わっていない。
白い空間での神との会話は、まるで一瞬の出来事だったかのようだ。
だが、鮮明に残る神の言葉と笑い声は現実だった。
エリシアは椅子から立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
神官長は依然として同じ姿勢のまま、微動だにしない。
「……これから、どうすればよいのでしょうか?」
「ヴァレルトスア様より、使徒様に神託を賜っております」
エリシアの全身に冷たい戦慄が走った。
使徒。
その言葉に、ただの令嬢ではない重みが込められているのがわかった。
神官長は、厳かに続けた。
「『自由に』」
それだけだった。
「自由に……?」
エリシアは聞き返した。
神官長は答えなかった。
ただ、額が床を向くほど身を傾けた姿勢のまま、動かない。
エリシアは神官長の姿をじっと見つめた。
(……不気味だ)
正直、そう思った。
神の言葉を思い出す。
「この世界を、君の力で変革させるがいい」
それが神託の真意なのかもしれない。
でも、それを「自由に」とだけ伝えるなんて。
エリシアは肩をわずかに落とし、女神像に一礼した。
「……ありがとうございました、神官長」
エリシアは部屋の扉に向かった。
部屋の扉を開けると、廊下に数人の神官が既に待ち構えていた。
白いローブの裾が石の床に擦れる音が空間に響く。
彼女たちは無言でエリシアを取り囲むように位置を取り、家族の待つ別室へと導いた。
足音が揃い、まるで儀仗兵のように整然としている。
エリシアは少し緊張しながら、その流れに身を任せた。
通された部屋は、神殿の奥にあった。
壁は厚い石で囲まれ、窓は、外の光が薄く差し込むだけ。
中央に頑丈そうな木製の机と椅子がいくつか並べられ、まるで審議の場のような雰囲気だ。
そこに、両親が既に座っていた。
アリシエッタは腰を据え、アルフォンスはエリシアを見つめている。
神官の一人がエリシアを母の隣の椅子へ誘導し、座らせた。
その時、扉が再び開き、エレノアが入ってきた。
彼女は対面の椅子に腰を下ろした。
手にしていた羊皮紙を、机の上に広げる。
それは古びた色合いをしており、インクの文字が丁寧に記されていた。
恐らく、エリシアの神儀の結果だろう。
エリシアは自然と目を凝らした。
いくつかの数字が並んでいるのが見えた。
魔力量の指標か、覚醒の度合いを示すものか――。
しかし、一部は■■とぼやけて判読できない。
いや、目に入っているはずなのに、意味が頭の中で抜け落ちる。
(三年で結構勉強したのだけれど、まだまだ知らない単語が多いわね)
前世の知識と、この世界の書物でかなり追い付いたつもりだったが、限界を感じる瞬間だった。
ふと両親の顔を見上げると、母の額に薄く汗が浮かんでいた。
父は少し心配そうな表情で、母の方をちらりと見やっていた。
二人の間に、何か言葉にならない緊張が流れている。
神官長が、口を開いた。
「エリシア・フォン・グランヴァルト様は、今代の使徒に選ばれました。五百二十七年ぶりのことでございます」
五百二十七年――それは王国史でも記録に残るほどの長い間、使徒が現れなかったということだ。
神官長の声は落ち着いていたが、その言葉の重みがエリシアの胸にずしりと響いた。
「神託は、既にお伝えした通りでございます」
アリシエッタが、首筋が見えるほど前へ傾いた。
懐から、金属音のする布袋を取り出す。
中身は金貨だろう――神殿への寄進、感謝の意を表すためのものだ。
グランヴァルト家のような名門なら、当然の礼儀。
しかし、神官長は手を前に出し、首を横に振った。
「頂けませぬ。ご理解を」
母の手が止まった。
布袋を握ったまま、わずかにため息をつく。
そして、席を立ち、エリシアの手を引いた。
「行きましょう、エリシア」
アルフォンスも無言で立ち上がり、後を追う。
神官たちが再び囲むように先導し、神殿の外へと出た。
待機していた馬車に乗り込むと、扉が閉まり、馬が動き始めた。
向かいに座る母が、大きく肩を落とした。
そして、エリシアの顔を覗き込んだ。
「安心しなさい。私が守るから」
横に座る父が、エリシアを隣へ引き寄せ、その背に腕を回した。
エリシアは二人の温もりに包まれながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めた。
神殿の尖塔が遠ざかっていく。
使徒。
五百二十七年ぶり。
神託の「自由に」。
そして、寄進を断られたこと――それは、ただの儀式以上の意味があるのだろう。
(何かが、始まった)
そんな気がした。
この世界を、変える何かが。




