第7話
三年が経った。
グランヴァルト辺境伯領の領主邸、玄関ホール。
朝の陽光が大理石の床に差し込み、磨き上げられた柱が柔らかく輝いている。
エリシアは八歳になった。
神儀用の正装ドレスに身を包み、立っていた。
黒を基調とした生地に、銀の糸で縁取られたデザイン。
胸元にはグランヴァルト家の家紋――双頭の鷲が翼を広げた紋章――が刺繍されている。
一見して優雅なドレスだが、裾は短めに裁ち落とされ、袖口も動きやすさを優先した軍服風の仕立てだ。
この世界では、神儀はただの儀式ではない。
八歳という年齢で魔力を公に覚醒させ、領地の守護者としての第一歩を踏み出す――戦う準備の始まりでもある。
エリシアは鏡に映る自分を一瞥した。
「……立派なもんだ」
扉が開き、両親が入ってきた。
アルフォンスが近づいてくる。
アリシエッタはその後ろに控えていた。
父が最初にエリシアの前に立ち、両腕を広げた。
エリシアが一歩踏み出すと、父は彼女を温かく包み込んだ。
「大きくなったなぁ、エリシア」
父が体を離すと、今度は母が近づいてきた。
アリシエッタはエリシアの肩に手を置き、ドレスの襟元を直した。
娘の顔を覗き込むようにして――優しい笑みを湛えた。
「エリシアは私に似て、すぐ大きくなりそうねぇ」
その言葉には、どこか誇らしげな響きがあった。
母の手は、優しいけれど力強い。
この手で剣を握り、竜を討ち、領地を守ってきた手だ。
その時、ホールの奥からセレナの声が響いた。
「馬車が参りました」
アリシエッタが、エリシアの手を握った。
「それじゃあ、行きましょうか」
エリシアはその手を握り返した。
三人で玄関を抜け、待機していた馬車へと向かう。
馬車は石畳の道を進み、やがて神殿の前に停まった。
グランヴァルト領の中央に位置するこの神殿は、古い石造りの荘厳な建物だった。
尖塔が空を突き、壁面には戦う女神の浮き彫りが刻まれている。
馬車から降りたエリシアは、両親と共に神殿の門をくぐった。
「お嬢様、お気をつけてお進みください」
セレナが声をかけ、ライルが体を深く傾けて見送った。
二人はここまでで、儀式には立ち会えない。
神儀は家族であっても、対象となる令嬢と神官だけが行う秘儀だ。
門の前で待っていたのは、数人の女性神官だった。
全員が白を基調としたローブに身を包み、胸元に銀の紋章を付けている。
「お待ちしておりました、グランヴァルト辺境伯家のエリシアお嬢様」
先頭に立つ神官が丁寧に上体を折り、静かに礼を示した。
年齢は三十代半ばくらい。
「そしてアルフォンス様、アリシエッタ様。こちらへどうぞ」
別の神官が両親に声をかけ、別室へと案内していく。
父は少し緊張した面持ちでエリシアを見て、手を振った。
「エリシア……頑張れよ」
母は力強く頷いた。
「あなたなら大丈夫。女神様が見守ってくださいますわ」
二人が神官に連れられて奥へ消えていくのを、エリシアは少しだけ寂しく見送った。
残った神官長が、エリシアに向き直った。
彼女は背が高く、威厳のある女性だった。
銀髪を厳格に結い上げ、エリシアを真っ直ぐに見つめている。
「エリシアお嬢様。私はこの神殿の神官長、エレノアと申します。どうぞご安心ください。神儀は痛みも恐怖も伴いません。ただ、女神様に魔力を捧げ、覚醒の祝福をいただくだけです」
エレノアの声は落ち着いていて、安心感を与える響きだった。
「はい……よろしくお願いします」
エリシアは内心では、少し緊張していた。
この儀式で何が起こるのか、記憶にはほとんど残っていない。
ただ、「八歳で魔力を公に覚醒させる」それだけだ。
エレノアはエリシアの肩に手を置き、奥の扉へと導いた。
「こちらです。お嬢様」
通されたのは、完全に締め切られた部屋だった。
窓はなく、壁は厚い石で囲まれている。
部屋の中央に、顔が見えないほど巨大な女神像が鎮座していた。
高さは十メートルを超え、剣を構えた姿が薄暗がりの中で威圧的に浮かび上がる。
その足元に、簡素な椅子が一つ置かれている。
部屋には無数のろうそくが灯され、揺らめく炎が石壁に影を投げかけていた。
空気には、ほのかに甘い香が漂っている。
お香だろうか。
心を落ち着かせるためのものだ。
「どうぞ、そこにお座りください」
エレノアが椅子を指した。
エリシアは素直に座った。
ドレスの裾を整え、姿勢を正した。
エレノアは像の前に立ち、目を閉じた。
そして祝詞を上げ始めた。
「偉大なる戦いの女神、ヴァレルトスアよ。我らの守護者、力の源たるお方よ。この子、エリシア・フォン・グランヴァルトに、あなたの祝福を賜わりますよう。強く、正しく、誇り高く……」
声は低く、部屋全体に響き渡る。
言葉の一つ一つに力が込められているようで、エリシアの体が自然と熱くなってきた。
(……これが、神儀?)
最初はただの祈りだと思っていた。
だが、祝詞が進むにつれ、体内の魔力がざわめき始めた。
まるで渇望するように、神像に向かって集まっていく。
エレノアの声が一段と高まる。
「女神よ、どうか――」
エリシアの体が、白く発光し始めた。
最初は淡い光。
手のひらから、腕へ、胸へ、そして全身へ広がっていく。
ただ、心地よい温かさと、どこか懐かしい感覚。
同時に、神像が虹色に輝き出した。
表面が七色の光を放ち、部屋全体を照らす。
ろうそくの炎が一斉に強く揺れ、影が狂ったように踊った。
エレノアが祝詞を止め、慌てて振り返った。
「そんな……まさか」
エリシアの姿は、椅子の上から忽然と消えていた。
部屋に残ったのは、燃えるろうそくと、虹色の光を放ち続ける神像だけ。
そして、呆然と立ち尽くす神官長の姿だった。




