第9話:深層の罠と銀の針(スティレット)
第9話:深層の罠と銀の針
フォルトック地下迷宮。
その名を聞けば、多くの冒険者はまず、巨大な地下遺跡を思い浮かべる。
岩の砦と呼ばれるフォルトックの地下深くに広がる、巨大な迷宮。
何百年も前から存在すると言われながら、その全貌はいまだ解明されていない。
浅い階層ならば、駆け出しの冒険者でも挑戦できる。
しかし、深く潜れば潜るほど、迷宮はその姿を変えていく。
魔物は強くなる。
地形は複雑になる。
そして何より――。
人間が忘れ去った、古代の罠や仕掛けが増えていく。
冒険者たちが最も恐れるのは、魔物だけではない。
むしろ、深層において本当に恐ろしいのは、人間の知恵によって作られた罠だった。
そんな地下迷宮の深層。
通称――沈黙の回廊。
そこには、奇妙な静けさが漂っていた。
足音だけが、石造りの通路に小さく反響する。
コツ。
コツ。
コツ。
正春は先頭を歩きながら、周囲を慎重に見回した。
手にしている剣は、以前使っていたものとは違う。
アレックスに鍛え直してもらった一振り。
そして、その身を包むのは銀色の鎧。
ミスリル・エイル・メイル。
通常の鋼鉄製鎧とは比べものにならないほど軽く、それでいて高い防御性能を持つ。
だが、この鎧の本当の価値は、それだけではない。
鎧に刻まれた魔導刻印が、周囲の魔力を感知しているのだ。
正春が歩くたび、胸元に埋め込まれた小さな魔石が淡く明滅する。
それは、この迷宮の奥に流れる魔力の脈動を伝えていた。
「……妙だな」
正春が呟く。
後ろを歩いていたレンカが振り返った。
「何が?」
「魔力の流れだ。さっきから一定じゃない」
「魔力の流れ?」
モイラが首を傾げる。
「うん。ここまでは迷宮全体の魔力が一定方向に流れていた。でも、この辺りから……まるで何かを避けるように分岐してる」
「何かって?」
「分からない」
正春は足を止めた。
前方には三つの通路が伸びている。
左。
中央。
右。
どれも同じような石造りの通路だった。
壁には古びた魔導灯が設置されているが、ほとんどが消えている。
それでも、完全な暗闇ではない。
どこからともなく漏れ出している青白い魔力光が、最低限の視界を確保していた。
正春は腰から地図を取り出した。
フォルトックの冒険者ギルドで購入した深層地図。
しかし――。
「……ここまでだな」
地図の線が途切れている。
「この先は?」
レンカが覗き込む。
「未踏破区域」
「つまり、誰も先を知らないってこと?」
「そういうこと」
レンカは剣の柄に手を置いた。
「なら、進むしかないわね」
「即決かよ」
「ここまで来たんだから当然でしょ」
レンカは笑った。
その表情には、不安よりも闘志が浮かんでいる。
「それに――」
レンカは自分の左腕に装備された盾を見た。
アイギス・ミスリル・シールド。
アレックスが鍛え上げた、彼女専用の盾。
通常の盾とは違い、受けた衝撃を魔力へ変換する特殊構造を持っている。
「この盾なら、深層の魔物とも戦える」
「レンカさん、頼もしいです」
モイラが微笑む。
「……あんたもね」
「え?」
「正春に近づきすぎないなら」
「…………」
モイラの笑顔が固まった。
「レンカさん」
「何?」
「私、何かしました?」
「別に」
「その顔、絶対に何か思ってますよね?」
「思ってないわよ」
「思ってますよね?」
「思ってない」
「…………」
「…………」
二人の間に、妙な緊張が走った。
正春は額を押さえる。
「頼むから、今は喧嘩しないでくれ」
「喧嘩じゃありません」
「喧嘩じゃないわ」
二人の声が重なった。
「息ぴったりじゃないか……」
正春が呟いた瞬間。
――カサ。
前方の暗闇で何かが動いた。
全員の表情が変わる。
正春は剣を抜いた。
「来るぞ」
レンカが盾を構える。
モイラも杖を握りしめた。
暗闇から現れたのは、一体の騎士だった。
朽ち果てた銀色の鎧。
頭部を覆う兜。
その手には巨大な両手剣。
そして、鎧の隙間から漏れる紫色の魔力。
「スケルトンナイト……」
モイラが息を呑む。
通常のスケルトンとは格が違う。
骨だけで動く兵士でありながら、その動きは生前の熟練騎士を思わせるほど洗練されている。
しかも、深層に出現する個体は別格だった。
「グオオオオオオッ!」
スケルトンナイトが咆哮する。
そして――。
一瞬で距離を詰めた。
「レンカ!」
「分かってる!」
ガキィィィン!
巨大な剣が盾に叩き込まれた。
「ぐっ……!」
レンカの身体が後ろへ滑る。
石床が削れる。
「重い……!」
しかしレンカは倒れない。
盾の表面に刻まれた魔導刻印が光った。
衝撃が魔力へと変換される。
腕に伝わるはずだった破壊的な力が、分散されていく。
「この盾……!」
レンカが笑う。
「本当に凄い!」
スケルトンナイトが再び剣を振り上げる。
だが――。
「遅い!」
レンカが盾を突き出した。
衝撃波が発生する。
ドンッ!
スケルトンナイトの身体が吹き飛んだ。
「正春!」
「ああ!」
正春が踏み込む。
剣に炎が宿った。
「――炎刃!」
横薙ぎの一閃。
炎の刃がスケルトンナイトの胸部を切り裂く。
骨が砕ける。
さらに正春は身体を回転させ、二撃目を叩き込んだ。
――バシュッ!
炎が鎧の内部へ侵入する。
スケルトンナイトの全身が赤く染まった。
次の瞬間。
灰になった。
「……終わった」
モイラが息を吐く。
「さすが正春さん」
「いや、レンカが受け止めてくれたからだ」
「……別に」
レンカは顔を逸らした。
「正春が無事なら、それでいい」
「レンカ……」
「何よ」
「いや……ありがとう」
「……うるさい」
耳まで赤くなっている。
その様子を見たモイラは、ほんの少し頬を膨らませた。
「……ずるい」
「何が?」
「なんでもありません」
しかし、その直後。
モイラの足元に落ちた小石が、コロリと転がった。
――カチリ。
「…………」
三人が固まった。
「……今の音」
正春が呟く。
「聞こえたわ」
レンカが盾を構える。
モイラが青ざめた。
「ま、まさか……」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
背後から轟音が響いた。
「走れ!」
正春が叫ぶ。
だが、遅かった。
ドンッ!
巨大な石扉が落下する。
三人の退路を完全に塞いだ。
「えっ……?」
モイラが振り返る。
「閉じ込められた!?」
「くそっ!」
正春が扉を叩く。
びくともしない。
レンカが盾で殴る。
ガンッ!
「硬すぎる……!」
そして――。
壁から、無数の小さな穴が開いた。
正春の顔から血の気が引く。
「全員、伏せろ!」
――ヒュンッ!
無数の矢が飛んできた。
「きゃあっ!」
モイラが悲鳴を上げる。
レンカが前に出た。
「私の後ろへ!」
盾を構える。
ガガガガガガガッ!
矢が盾へ突き刺さる。
しかし、アイギス・ミスリル・シールドはびくともしない。
「正春!」
「分かってる!」
正春は魔法障壁を展開した。
透明な壁が生まれる。
矢が弾かれて床に落ちる。
「この程度なら――」
しかし。
正春の言葉が止まった。
天井から。
何かが漏れ出した。
緑色の煙。
ゆっくりと部屋へ広がっていく。
「……毒ガス」
モイラが呟いた。
「まずい」
正春が周囲を見る。
出口はない。
扉は開かない。
魔法で破壊するには時間が必要。
そして、毒ガスはすでに三人の腰の高さまで達している。
「モイラ!」
「はい!」
「解毒魔法は?」
「できます。でも……この濃度では、ずっと維持するのは無理です!」
「どれくらい持つ?」
「十分……いえ、五分も持たないかもしれません!」
「五分……」
正春は歯を食いしばった。
五分。
それだけしかない。
壁。
天井。
床。
扉。
どこにも出口は見当たらない。
正春は剣を構えた。
「なら、扉を壊す」
剣に魔力を集中させる。
「正春、待って!」
レンカが叫ぶ。
「その扉、普通じゃない!」
「分かってる!」
「魔力を込めすぎたら、仕掛けが暴発するかもしれない!」
「……!」
正春は剣を止めた。
確かにそうだ。
ここは罠の部屋。
無理に破壊すれば、別の仕掛けが発動する可能性がある。
「じゃあ、どうするのよ!」
レンカが叫ぶ。
「分からない……!」
正春が初めて声を荒らげた。
「分からないんだよ!」
拳を握る。
万能型。
そう呼ばれることが多かった。
剣も使える。
魔法も使える。
身体能力も高い。
装備も整っている。
だが――。
迷宮攻略に必要な技能を、すべて持っているわけではない。
罠。
鍵。
隠し扉。
機械式の仕掛け。
それらは盗賊や斥候の専門領域だ。
「……盗賊がいれば」
正春は呟いた。
「こんな罠……」
そして、胸の奥に一つの記憶が蘇った。
ゲーム。
かつて自分が何度も遊んだゲーム。
この地下迷宮。
この深層。
この罠。
攻略動画を見たことがある。
攻略サイトも読んだ。
それでも――。
今はゲームではない。
リセットボタンなど存在しない。
死ねば終わり。
「正春さん……」
モイラが袖を掴んだ。
「私、まだ……」
彼女の声が震えている。
「死にたくありません」
「モイラ……」
「正春さんと、もっと一緒にいたいです」
その言葉に、正春の胸が痛んだ。
レンカも黙っている。
だが、彼女の手は震えていた。
毒ガスが胸元まで上がってきている。
「……俺が何とかする」
正春は立ち上がった。
「絶対に、二人とも死なせない」
その瞬間。
――カン。
天井から、小さな金属音がした。
三人が見上げる。
通気口。
そこに何かがいる。
「……?」
正春が目を細める。
そして。
鈴を転がすような声が響いた。
「あらあら」
少女の声。
「相変わらずね、リーダー」
正春の目が見開かれる。
「……え?」
「力押しばかり」
通気口の蓋が外れる。
「昔から何も変わってないじゃない」
一人の少女が姿を現した。
銀色の髪。
細身の身体。
黒を基調とした軽装。
動きやすさを重視した衣装には、いくつものポーチが取り付けられている。
腰には細長い短剣。
普通の短剣よりもはるかに細い。
針のように鋭く、長い。
それは――。
スティレット。
鎧の隙間を貫くために設計された暗殺用の短剣だった。
「お喋りは後」
少女は通気口から軽々と飛び降りた。
毒ガスの中へ着地したにもかかわらず、まったく慌てていない。
「死にたくなければ、そこでじっとしてて」
「君は……!」
正春が叫ぶ。
少女は答えなかった。
壁に近づく。
指先で石壁を撫でる。
「……なるほど」
そして、腰のスティレットを抜いた。
銀色の刃が淡い光を放つ。
少女は壁の一部へ刃を差し込んだ。
カチッ。
「そこじゃない」
さらに数センチ横へ。
カチ。
「ここ」
刃を差し込む。
ガコンッ。
壁の一部が開いた。
正春は目を見張った。
「隠しパネル……?」
「正解」
少女は小さく笑った。
内部には無数の歯車が並んでいる。
さらに細い糸のようなものが複雑に絡み合っていた。
「この迷宮、古代式の機械罠と魔導式罠が混ざってる」
「分かるのか?」
「当然」
少女は腰から鋼糸を取り出した。
「私を誰だと思ってるの?」
鋼糸が歯車へ絡む。
少女の指が踊る。
一本。
二本。
三本。
同時に複数の仕掛けを止めていく。
「毒ガス弁、閉鎖」
カチ。
「矢の発射機構、停止」
カチ。
「扉のロック解除」
カチ。
最後に少女は一つの歯車を押した。
――ゴゴゴゴゴッ。
石扉が上がった。
外の空気が流れ込む。
毒ガスが薄まっていく。
「ふぅ……」
モイラがその場に座り込んだ。
「助かった……」
レンカは盾を構えたまま、少女を睨む。
「……あなた」
「ん?」
「何者?」
少女は笑った。
「聞く?」
「ええ」
「じゃあ、自己紹介」
少女はスティレットを腰へ戻した。
「私はスティレット」
その名前を聞いた瞬間。
正春の脳裏に、古い記憶が走った。
――スティレット。
ゲームの仲間キャラクター。
盗賊。
罠解除。
鍵開け。
探索。
そして――。
「……嘘だろ」
正春が呟く。
少女は彼の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「君……俺のことを知っているのか?」
「もちろん」
少女は楽しそうに笑った。
「だって、正春だもの」
レンカの表情が険しくなる。
「どういう意味?」
スティレットはレンカを見る。
「あなたがレンカね」
「……なんで私の名前を?」
「有名だから」
「嘘」
レンカが剣を抜いた。
「私たちはここまで来る間、誰とも会ってない」
「まあ、そうね」
スティレットは肩をすくめる。
「じゃあ、もっと分かりやすい証拠を見せてあげる」
彼女は正春を見る。
「正春」
「……」
「宝箱を見つけたら、まず走って近づく」
「……」
「罠を確認しない」
「…………」
「仲間が止めても、大丈夫だろって言う」
「………………」
「そして罠が発動したら――」
スティレットはニヤリと笑った。
「俺が何とかする、って言う」
「……」
正春は言葉を失った。
それは。
まさに。
ゲームをしていた頃の自分だった。
宝箱を見つければ、とりあえず開ける。
罠があるかもしれないと思っていても、面倒だから無視する。
そして仲間が引っかかったら、回復魔法と火力で何とかする。
それが自分のプレイスタイルだった。
「……なんで知ってる」
正春の声が震えた。
スティレットの笑顔が、少しだけ消えた。
「やっぱり」
「……え?」
「あなたも覚えてるんだ」
沈黙。
正春は彼女を見つめる。
「君も……?」
「そう」
スティレットは静かに頷いた。
「私も、ゲームだった頃の記憶を持ってる」
レンカが息を呑んだ。
モイラも目を見開く。
「ゲーム……?」
「説明すると長いわ」
スティレットは腰に手を当てる。
「でも、あなたが今考えていることは分かる」
「……何を?」
「ここはゲームの世界だった」
正春の心臓が跳ねた。
「そして、私たちはそのゲームのキャラクターだった」
レンカが震える。
「私も……?」
「そう」
「じゃあ、私が知っているはずのないことも……」
「前の人生の記憶ね」
レンカは黙った。
モイラも同じだった。
正春はゆっくりと息を吐く。
「……やっぱり」
以前から感じていた。
この世界には、ゲームの記憶を持つ者がいる。
レンカ。
モイラ。
そして今、スティレット。
偶然ではない。
何か大きな力が、自分たちをこの世界へ集めている。
「ねえ、正春」
「なんだ?」
「この先に行くんでしょ?」
「ああ」
「なら、私も連れてって」
「……」
スティレットは一歩近づいた。
「私がいなかったら、たぶんこの先で死ぬよ?」
「……否定できない」
「でしょう?」
彼女は笑う。
「私は鍵開けもできる」
一本指を立てる。
「罠解除もできる」
二本。
「索敵もできる」
三本。
「潜入もできる」
四本。
「そして――」
スティレットは正春の胸元へ指を当てた。
「昔のあなたのことも、誰より知ってる」
「……それは技能なのか?」
「重要な技能よ」
「絶対違うだろ」
正春が苦笑する。
すると。
「正春」
レンカの声。
「……何?」
「その女」
「スティレット?」
「そう」
レンカはスティレットを睨んだ。
「距離が近い」
「そう?」
「近い」
「ふふ」
スティレットはわざと正春の腕へ抱きついた。
「これくらい?」
「もっと近くなった!」
レンカの顔が真っ赤になる。
「ちょっと!」
「何?」
「離れなさい!」
「嫌」
「……!」
「だって、私は正春の仲間になるんだもの」
「仲間なら腕に抱きつく必要ないでしょ!」
「あるわよ」
「ない!」
モイラも困ったように笑う。
「スティレットさん……少し大胆ですね」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、モイラもやってみる?」
「えっ?」
「正春の腕に抱きつくの」
「え、ええっ!?」
モイラの顔が真っ赤になった。
「私はそんな……」
「じゃあ私だけ」
「……」
モイラの目が少しだけ細くなる。
「……ずるいです」
「え?」
「それは、ずるいと思います」
モイラは静かに正春の反対側へ移動した。
「モイラ?」
「正春さん」
「うん」
「少しだけ……」
モイラも正春の腕を掴んだ。
「こうしていてもいいですか?」
「……」
正春は固まった。
左右。
スティレットとモイラ。
そして真正面にはレンカ。
「……なんでこうなった」
「正春」
レンカが笑っている。
だが、目が笑っていない。
「私も」
「え?」
「私も仲間なんだから」
レンカは正春の反対側――つまりモイラのさらに隣へ立った。
「…………」
正春は頭を抱えた。
「パーティ編成の話だよな?」
「もちろん」
スティレットが笑う。
「じゃあ決まり」
「何が?」
「私が四人目」
スティレットは腰のスティレットを抜いた。
銀色の刃。
それはまるで、彼女自身の存在を象徴しているようだった。
「私はスティレット」
彼女は刃を軽く回す。
「盗賊系統、罠解除特化」
正春を見る。
「これからよろしくね、リーダー」
正春は少し迷った。
だが――。
ここから先は未知の領域。
自分たちだけでは攻略できない場所が増える。
ならば、彼女の力は必要だ。
「……分かった」
正春は手を差し出した。
「よろしく、スティレット」
スティレットはその手を握った。
「うん」
しかし、その瞬間。
彼女は正春の手を引き寄せた。
「よろしくね、正春」
「うわっ」
顔が近い。
スティレットの瞳が細くなる。
「……リーダー」
「なんだ?」
「この先にあるもの、知りたい?」
「もちろん」
「伝説の魔女」
その言葉に、三人の表情が変わった。
「この先には、伝説の魔女がいる」
スティレットは静かに告げる。
「ゲーム時代でも、最深部に近い場所でしか会えなかったキャラクター」
「魔女の名前は?」
「――まだ言わない」
「おい」
「だって」
スティレットは笑う。
「自分で確かめた方が面白いでしょう?」
「……」
正春はため息をついた。
だが、スティレットの表情は冗談だけではなかった。
どこか不安を隠している。
「スティレット」
「何?」
「何か知ってるのか?」
「……」
一瞬。
彼女の笑顔が消えた。
「知ってる」
「何を?」
「この先は、ゲームの攻略情報と同じじゃない」
「……!」
「世界そのものが変わってる」
スティレットは通路の奥を見る。
「私が知っているゲームでは、この先に罠は三つしかなかった」
「でも?」
「今は――」
彼女はしゃがみ込んだ。
床を指でなぞる。
「十七個ある」
正春は絶句した。
「十七……?」
「しかも、そのうち五つはゲームに存在しなかった」
「どうして?」
「分からない」
スティレットは立ち上がる。
「だから、ここから先は私の知識だけでは足りない」
その目に、初めて真剣な光が宿った。
「この世界はもう、ゲームじゃない」
その言葉は。
正春の胸に深く突き刺さった。
ゲームではない。
何度も考えていたこと。
それでも、心のどこかではゲームの知識に頼っていた。
モンスターの弱点。
宝箱の位置。
ダンジョンの構造。
イベント。
キャラクター。
すべて知っているつもりだった。
だが――。
世界は変わっている。
そして。
この世界に生きる人間たちは、もうゲームのキャラクターではない。
レンカも。
モイラも。
スティレットも。
そして自分自身も。
「……分かった」
正春は剣を握り直した。
「なら、俺たちの力で進む」
「そうこなくちゃ」
スティレットが笑う。
「それでこそ私の知ってる正春」
「昔の俺って、そんなに無鉄砲だったか?」
「うん」
「即答するな」
「でも――」
スティレットは少しだけ優しい顔になった。
「仲間を絶対に見捨てないところは、今も変わってない」
正春は黙った。
その言葉が嬉しかった。
ゲームの中の自分を知っている人間。
そして今の自分を見てくれている人間。
そんな仲間が増えたことが。
「行こう」
正春が言った。
「四人で」
「はい!」
モイラが頷く。
「ええ」
レンカも続く。
「もちろん」
スティレットが笑う。
「それじゃあ――」
彼女は腰のスティレットを抜いた。
銀の刃が青白い光を反射する。
「深層攻略、開始ね」
四人は歩き始めた。
沈黙の回廊。
その奥へ。
そして――。
数分後。
「……止まって」
スティレットが手を上げた。
三人が停止する。
「何?」
正春が尋ねる。
「罠」
スティレットは床を見る。
「どこ?」
「全部」
「全部?」
「この通路そのものが罠」
レンカが眉を寄せる。
「どういうこと?」
「踏んだら終わり」
スティレットは一本の小石を拾った。
そして前方へ投げた。
コロコロ。
コツン。
何も起きない。
「……?」
レンカが首を傾げる。
その瞬間。
――ドンッ!
床が突然沈んだ。
その下から巨大な槍が飛び出した。
「……!」
三人が息を呑む。
「なるほど」
正春が冷や汗を流す。
「小石を踏んでも発動しない」
「そう」
スティレットが頷く。
「重さじゃない」
「じゃあ何?」
「魔力」
彼女は床へスティレットを突き刺した。
「一定量以上の魔力を持つ生物が踏んだときだけ発動する」
「……」
「だから私が先に歩く」
「危険じゃないのか?」
「大丈夫」
スティレットは笑った。
「私は罠を避けるのが仕事だから」
彼女は一歩踏み出す。
さらに一歩。
そのたびに床を確認する。
正春たちは彼女の後ろをついていった。
「ここ」
スティレットが止まる。
「右」
一歩。
「左」
一歩。
「二歩下がって」
正春が下がる。
次の瞬間。
頭上から刃が落ちてきた。
ガキンッ!
正春の前で止まる。
「……」
「あと半歩前だったら首が飛んでたわ」
「……怖いこと言うなよ」
「事実」
スティレットは平然としている。
その姿を見て、正春は改めて理解した。
彼女は強い。
単純な戦闘力ではない。
生き残るための技術が突出している。
そして――。
「……すごいな」
「何が?」
「こういう場所で、一番頼りになる」
スティレットが一瞬、目を丸くした。
「……褒めるの、上手くなった?」
「普通に感想を言っただけだ」
「ふふ」
スティレットは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もっと褒めて」
「調子に乗るな」
「冷たい」
レンカが横から割り込む。
「正春」
「何?」
「私だって褒めてほしい」
「……」
「さっきのスケルトンナイト、倒したのは正春だけど、受け止めたのは私よ」
「もちろん感謝してる」
「なら――」
「レンカも凄かった」
「……」
レンカの顔が赤くなる。
「そ、そう」
スティレットがニヤニヤする。
「へえ」
「何よ」
「別に?」
「その顔やめなさい」
「ふふふ」
モイラは二人を見ながら微笑んでいた。
だが。
正春がスティレットへ笑いかけると。
ほんの少しだけ。
寂しそうな顔をした。
正春は気づかなかった。
しかし、スティレットは気づいていた。
「……大変ね」
「何が?」
モイラが聞く。
「リーダー」
「……?」
「鈍感だから」
「…………」
モイラは否定できなかった。
レンカも否定できなかった。
正春だけが首を傾げている。
「なんの話だ?」
「なんでもない」
三人の声が重なった。
「またか……」
正春はため息をついた。
それからしばらく歩いた。
すると。
通路の先に大きな扉が見えた。
その扉には、巨大な紋章が刻まれている。
月。
黒い鳥。
そして――。
一本の銀色の針。
スティレットの目が変わった。
「……来た」
「何?」
「魔女の領域」
扉の向こうから。
微かな声が聞こえた。
女の声。
低く。
美しく。
そして――。
どこか寂しい声。
『――四人』
扉が震える。
『今度は、四人で来たのね』
正春たちは立ち止まった。
「誰だ?」
正春が問いかける。
返事はない。
ただ。
扉の向こうから笑い声が響いた。
『正春……』
その名前を聞いた瞬間。
正春の身体が硬直した。
『あなたが来るのを、ずっと待っていたわ』
レンカが剣を抜く。
モイラが杖を構える。
スティレットはスティレットを握り直した。
「……正春」
「分かってる」
正春は前を向いた。
「行こう」
巨大な扉へ手を伸ばす。
だが。
スティレットがその手を掴んだ。
「待って」
「どうした?」
「この扉――」
彼女は青ざめていた。
「開けちゃ駄目」
「……え?」
「ゲームでは、この扉を開けても何も起きなかった」
「なら――」
「でも今は違う」
スティレットは扉を睨む。
「この扉には――」
銀のスティレットをゆっくりと構えた。
「新しい罠が仕込まれてる」
「どんな罠?」
「分からない」
「……」
「だから――」
スティレットは正春の前に立った。
「私が解除する」
「一人で?」
「そう」
「危険だ」
「盗賊を誰だと思ってるの?」
スティレットが笑った。
「あなたたちを死なせないために来たのよ」
その言葉に。
正春は黙った。
そして――。
「頼む」
「任せて」
スティレットは扉へ近づいた。
銀の刃を鍵穴へ差し込む。
カチ。
カチ。
カチ。
複雑な機構が動き始める。
その瞬間。
扉の向こうから、再び声がした。
『――銀の針を持つ少女』
スティレットの動きが止まった。
『あなたも、記憶を持っているのね』
「……!」
スティレットの顔から笑みが消えた。
そして――。
扉の向こうで。
誰かが笑った。
『ならば、歓迎しましょう』
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ。
扉が開き始める。
その奥から流れてきたのは、冷たい風。
そして。
見たこともないほど巨大な魔力。
正春は剣を構えた。
レンカが盾を構える。
モイラが祈りを捧げる。
スティレットが銀の針を握る。
四人の冒険者は。
伝説の魔女が待つ領域へと、一歩を踏み出した。
しかし彼らは、まだ知らなかった。
この先で待っているのは、単なる強敵ではない。
ゲームには存在しなかった、新たな物語。
そして――。
自分たちがゲームの世界へ転生した理由に関わる、重大な秘密だった。
正春は振り返る。
そこにはレンカ。
モイラ。
そしてスティレット。
新しい仲間が三人いる。
かつてゲームをプレイしていた頃。
画面の向こう側に存在していたキャラクターたち。
今は違う。
彼女たちは、生きている。
笑う。
怒る。
嫉妬する。
傷つく。
そして――。
自分を心配してくれる。
「……行くぞ」
正春は静かに言った。
「俺たち四人で、この迷宮の最深部まで行く」
「はい!」
モイラが答える。
「もちろん」
レンカが続く。
「任せて」
スティレットが笑った。
「私が全部の罠を見抜いてあげる」
「頼もしいな」
「ただし――」
スティレットは正春の耳元へ顔を寄せた。
「宝箱を見つけても、勝手に開けないこと」
「……分かったよ」
「本当に?」
「本当に」
「約束だからね?」
「ああ」
「破ったら?」
「……?」
スティレットが小悪魔のように笑う。
「罰ゲーム」
「なんで迷宮探索に罰ゲームがあるんだよ!」
スティレットの笑い声が響く。
レンカが頭を抱える。
「……最悪」
モイラも苦笑した。
「賑やかになりましたね」
「賑やかすぎる……」
正春はそう言いながらも。
どこか嬉しかった。
200エントの借金から始まった旅。
あの日。
自分はただ、生きるために冒険者になった。
しかし今は違う。
守りたい仲間がいる。
信頼できる仲間がいる。
そして。
まだ見ぬ未来がある。
だからこそ。
正春は前を向いた。
伝説の魔女が待つ深層へ。
銀の針を携えた新たな仲間と共に。
そして――。
彼らの背後では。
誰もいないはずの沈黙の回廊で。
一つの小さな魔導灯が。
青白く点灯した。
その光は。




