第8話:女神の鎧と聖女の羨望
第8話:女神の鎧と聖女の羨望
火山での命懸けの素材採取から、三日。
岩の砦の街フォルトックには、いつものように朝が訪れていた。
巨大な岩山を削り取るようにして造られた街には、朝早くから人々の声が響いている。
冒険者たちは酒場や宿屋から姿を現し、商人たちは店先に商品を並べ、鍛冶職人たちは朝一番から炉に火を入れる。
街全体が、まるで巨大な生き物のように動き始めていた。
そんな街の一角。
大通りから少し離れた路地裏に、一軒の古びた鍛冶場があった。
看板には簡素な文字で、アレックス工房、とだけ書かれている。
その工房の扉を、正春はゆっくりと開いた。
「来たぞ、アレックス」
「おう。待ってたぜ」
工房の奥から、低く響く声が返ってくる。
現れたのは、筋骨隆々とした中年の男だった。
煤で汚れた前掛け。
太い腕。
何度も炎にさらされたことで赤くなった手。
そして、鋭い職人の目。
マスター・クラフトマン。
このフォルトックでも指折りの鍛冶職人、アレックスだった。
アレックスは正春たち三人を見るなり、口元を豪快に吊り上げた。
「素材を受け取ってから三日。約束通り、最高の仕事をしてやったぜ」
「もう完成したのか?」
「ああ」
アレックスは胸を張った。
「ただし、簡単な仕事じゃなかったぞ。お前らが持ち帰ってきたミスリルは、普通の鉱石とは純度が違いすぎた。あれだけ純度の高いミスリルを加工するには、火加減を一歩間違えるだけで全部が無駄になる」
正春は頷いた。
「それでも三日で?」
「俺を誰だと思ってやがる」
アレックスはニヤリと笑った。
「フォルトック一の鍛冶師、アレックス様だぞ」
「自分で言うか、それ」
「言うさ。腕だけは誰にも負けねえからな」
豪快に笑うアレックス。
その隣では、レンカが腕を組んでいる。
「じゃあ、さっさと見せてよ」
「気が早いな、嬢ちゃん」
「三日も待ったのよ」
「そうかそうか」
アレックスは楽しそうに笑う。
そして工房の奥へ歩いていった。
「ほら、見ろ」
アレックスが持ってきたのは、二つの大きな布包みだった。
床に置かれた包み。
それを見た正春は、自然と息を呑んだ。
ただの装備品ではない。
布越しでさえ、その中から尋常ではない魔力が感じられる。
レンカも表情を引き締めた。
そして。
アレックスが、ゆっくりと布を取り払った。
――瞬間。
工房内が銀色の光に包まれた。
「……!」
正春は言葉を失った。
そこにあったのは、一着の銀色の軽鎧だった。
美しい。
その一言では足りない。
細身でありながら、決して脆そうには見えない。
胸部から肩、腰へと流れる装甲は無駄なく洗練されており、表面には細かな魔法文字が刻まれている。
ミスリル特有の銀色の輝きが、工房の炎を受けて淡く揺れていた。
「これが……」
正春は無意識に一歩近づいた。
「ミスリル・エイル・メイルだ」
アレックスが誇らしげに告げる。
「エイル?」
「ああ。治癒を司る女神の名を冠した鎧だ」
鎧の胸部には、小さな翼を思わせる意匠が施されている。
「お前は攻撃だけじゃなく、回復も補助もできる万能型だろ。だから単純な重装甲じゃなく、魔力伝導率と身体能力補助を重視した」
アレックスは鎧を指で軽く叩いた。
澄んだ音が響く。
「ミスリルそのものが魔力を通す。さらに内部に特殊な魔法回路を組み込んである。身体強化、魔法耐性、衝撃分散、自己修復補助。そして、治癒魔法を受けたときの魔力効率も上げてある」
「そこまで……」
「お前が持ってる力を考えりゃ、このくらいは必要だ」
正春は静かに鎧を見つめた。
強くなりたい。
そう思っていた。
だが、ただ強くなるだけではない。
仲間を守りたい。
誰かが傷ついたとき、その傷を癒したい。
そして、自分自身も倒れないようにしたい。
この鎧には、そのすべてが詰め込まれているように感じた。
「ありがとう、アレックス」
「礼はいい」
アレックスは鼻を鳴らした。
「素材を命懸けで取ってきたのはお前らだ。俺は、それを形にしただけだ」
その隣。
もう一つの布包みがあった。
「そして、こっちは……」
アレックスが布を取る。
銀色の胸当てが姿を現した。
「レンカの鎧だ」
「……!」
レンカの目が大きく見開かれる。
そこにあったのは、女性戦士のために設計された美しい胸鎧。
肩当てには翼を模した装飾。
中央には赤い宝石が一つ。
腰部には可動域を確保するための細かな装甲が連なっている。
「ヴァルキリー・ミスリル・キュイラス」
アレックスが名前を告げる。
「戦場を駆ける戦乙女をイメージして作った。防御力はもちろん、速度を落とさないことを最優先にしてある」
レンカはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……すごい」
小さく呟いた。
「それから、これだ」
アレックスが隣から盾を取り出す。
大きすぎず、しかし女性が片手で扱うには十分な重量感を持った盾。
中央には円形の紋章が刻まれている。
「アイギス・ミスリル・シールド」
その名を聞いた瞬間。
レンカの目が輝いた。
「これ……私の?」
「そうだ」
「本当に?」
「お前が使えるように調整してある」
レンカは盾を受け取った。
ズシリ。
普通の女性なら持ち上げることすら難しい重量。
しかしレンカは軽々と持ち上げる。
「……悪くない」
口ではそう言いながら、明らかに嬉しそうだった。
そんな二人の姿を。
少し離れたところから見ている少女がいた。
モイラだった。
「……綺麗」
その声には、純粋な感嘆が混じっていた。
モイラは僧侶として、装備の価値についてもある程度知っている。
ミスリル。
それは高位冒険者でも簡単には手に入れられない希少鉱物だ。
魔力伝導率。
耐久性。
軽量性。
魔法適性。
そのどれもが一級品。
だからこそ、目の前の装備がどれほど凄いものなのかも分かっていた。
だが。
モイラが羨ましいと思ったのは、装備そのものではなかった。
――二人が、お揃いの装備を身につけること。
そのことだった。
「いいなぁ……」
小さく呟く。
「正春さんとレンカさん……」
正春とレンカ。
二人の間には、長い時間を共に過ごしたような空気がある。
戦いを乗り越えた仲間。
互いを信頼している関係。
それが、この二つのミスリル装備によって形になってしまった。
まるで。
二人だけの証のように。
「私も……」
モイラは胸元をそっと握る。
「私も、正春さんと何か……」
そこまで考えて、頬が熱くなった。
「……何考えてるの、私」
モイラは慌てて首を振る。
自分は聖女だ。
僧侶として正春を支える。
それでいい。
そう思っている。
なのに。
正春がレンカの鎧を見て笑っている。
レンカが正春の鎧を褒めている。
それを見ていると。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
「モイラ?」
「ひゃっ!」
突然声をかけられ、モイラは飛び上がった。
正春が不思議そうにこちらを見ている。
「どうした?」
「な、なんでもありません!」
「顔が赤いけど」
「だ、大丈夫です!」
モイラは慌てて顔を背けた。
そんな二人の様子を、レンカがじっと見ていた。
「……」
レンカの目が細くなる。
「モイラ」
「は、はい?」
「正春の顔ばっかり見てない?」
「そ、そんなこと……!」
「見てるじゃない」
「見てません!」
「見てるわよ」
「見てませんってば!」
早くも火花が散り始める。
アレックスはその様子を見て、呆れたように笑った。
「若いってのはいいねえ」
「アレックス。余計なこと言わない」
「へいへい」
こうして。
三人の新たな冒険装備が完成した。
正春はミスリル・エイル・メイルを。
レンカはヴァルキリー・ミスリル・キュイラスとアイギス・ミスリル・シールドを。
そしてモイラは、これまで通りの僧侶装備を身につける。
その差は歴然だった。
モイラは改めて思う。
――私だけ。
少しだけ取り残されたような気持ちになった。
もちろん。
正春が自分を仲間だと思ってくれていることは分かっている。
命を預け合った。
何度も助けてもらった。
自分だって、正春を治癒魔法で支えた。
それでも。
心というものは、理屈では簡単に整理できない。
「……私も頑張らないと」
モイラは小さく呟いた。
その声を、正春だけが聞いていた。
「十分頑張ってると思うぞ」
「え?」
「モイラは何度も俺たちを助けてくれただろ」
「正春さん……」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
けれど。
その直後。
「ほら、正春。次の目的地に行くわよ」
レンカが正春の腕を掴んだ。
「分かったって」
「さあ、行きましょう」
レンカは正春を連れて工房から出ていく。
モイラは二人の背中を見ながら、少しだけ寂しそうに笑った。
しかし。
今日だけは。
まだ終わらない。
◇
三人はフォルトックの大通りを歩いていた。
目指すのは、街の外れにある巨大な地下迷宮。
フォルトックが冒険者の街として栄えている最大の理由。
それが、このダンジョンだった。
地底深くまで続く巨大な迷宮。
浅い階層には比較的弱い魔物が生息しているが、深く潜るほど魔物の強さは跳ね上がる。
そして。
深層には、地上では手に入らない財宝が眠っている。
古代文明の魔道具。
希少鉱石。
伝説級の武具。
そして、未知の魔法書。
「次は地下深くへ潜ろうと思う」
正春が言った。
「高難易度の階層には、それだけ強力な魔物がいる。だけど、その分だけ財宝も増えるはずだ」
「賛成」
レンカが即答する。
「新しい鎧の性能も試したいし」
レンカは胸元のミスリル装甲を軽く叩いた。
「私も賛成です」
モイラも頷く。
しかし。
その表情には、どこか迷いがあった。
「……正春さん」
「ん?」
「ダンジョンに入る前に……」
モイラは立ち止まる。
「少しだけ、二人でお話しませんか?」
正春が目を瞬かせた。
「二人で?」
「はい」
モイラはレンカを見る。
そして。
「少しだけでいいんです」
勇気を振り絞って、正春の袖を掴んだ。
「……正春さんに、聞いてほしいことがあります」
レンカの眉が動いた。
「……」
数秒。
沈黙。
「モイラ」
「はい」
「どうして二人で?」
「……」
モイラは答えに詰まった。
本当の理由を言えば。
正春を独占したかった。
レンカの前では言えないことを言いたかった。
そして何より。
自分の中に残っている、あの記憶を。
正春に伝えたかった。
「……昔のことを、話したいんです」
その言葉に。
正春の表情が少し変わった。
「昔?」
「はい」
モイラは頷く。
「私が……正春さんと出会う前のこと」
レンカもその言葉を聞いていた。
「……」
レンカは腕を組んだ。
「分かった」
「え?」
モイラが驚く。
「少しだけなら」
「レイラさん……」
「ただし」
レンカは正春の手を取った。
ぎゅっ。
「話が終わったら、正春は返してもらうから」
「……え?」
「その後、私たち二人で街のお店に行く約束だから」
「ちょっと待って、レンカ」
「何?」
「俺、そんな約束したっけ?」
「今したの」
「それは約束って言わないだろ」
「細かいことは気にしない」
レンカは堂々と言い切った。
モイラの頬が赤くなる。
「お、おしゃれなお店……」
「そう」
レンカはニヤッと笑った。
「海が見えるところでも行こうかしら」
「……!」
モイラの胸に、小さな焦りが生まれた。
そして。
正春が困ったように笑う。
「じゃあ……モイラと少し話してから、レンカと店に行くか」
「うん」
レンカは頷いた。
「楽しみにしてる」
そう言って。
レンカは一歩後ろに下がった。
だが。
その目は明らかに。
――二人を監視していた。
◇
モイラと正春は、フォルトックの路地裏を歩いていた。
「……すみません」
「何が?」
「レンカさんに、無理を言ってしまって」
「気にしなくていい」
「でも……」
モイラは俯いた。
「私、少しわがままになっている気がします」
「そうかな?」
「はい」
少し笑う。
「正春さんに会えてから……私、変なんです」
「変?」
「前より、自分の気持ちを隠せなくなりました」
正春は黙って聞いていた。
「昔は、何でも我慢すればいいと思っていました」
モイラはゆっくり話し始める。
「誰かを助けるなら、自分が苦しくてもいい。誰かが幸せになるなら、自分が寂しくてもいい」
「……」
「聖女として、それが正しいと思っていました」
モイラの指先が震える。
「でも……正春さんに会ってから」
彼女は顔を上げた。
「それだけじゃ駄目なんだって思うようになりました」
「どうして?」
「正春さんが、私自身を見てくれたからです」
正春は少し驚いた。
「私を聖女だからではなく、一人の人間として見てくれた」
「……」
「嬉しかったんです」
モイラは笑った。
「すごく」
その笑顔は、どこか泣きそうだった。
「だから……」
モイラは立ち止まる。
「怖かった」
「怖い?」
「正春さんに会えなくなることが」
風が吹いた。
フォルトックの街を抜ける風が、二人の髪を揺らす。
「前の記憶があるんです」
「前の記憶……」
「はい」
モイラは静かに頷いた。
「全部ではありません。でも……断片的に覚えています」
彼女は胸に手を当てた。
「暗い場所」
「……」
「誰かの泣き声」
「……」
「そして……正春さん」
その名前を口にした瞬間。
モイラの目に涙が浮かんだ。
「私は、正春さんを失ったことがある気がするんです」
正春は言葉を失った。
「……俺を?」
「はい」
「どういう意味だ?」
「分かりません」
モイラは首を振る。
「夢だったのかもしれません。前世だったのかもしれない。あるいは、別の世界の記憶なのかもしれない」
それでも。
「でも、あの時の悲しさだけは、本物だった」
モイラは胸を押さえる。
「正春さんがいなくなって……私、ずっと泣いていた」
「……」
「だから」
涙が頬を伝う。
「今、正春さんがここにいることが……嬉しいんです」
正春はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「モイラ」
「はい」
「俺はここにいる」
その言葉に。
モイラの瞳が揺れた。
「……はい」
「だから、そんなに怖がらなくていい」
「……はい」
「これからも一緒にいよう」
その瞬間。
モイラの涙が溢れた。
「……ずるいです」
「え?」
「そんなこと言われたら……」
モイラは涙を拭いながら笑った。
「もっと好きになってしまいます」
正春は固まった。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
モイラ自身も、自分が何を言ったのか理解した瞬間に顔が真っ赤になった。
「い、今のは!」
「……」
「忘れてください!」
「いや……」
「忘れてください!」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「……でも、忘れないでください」
「どっちだよ」
二人は顔を見合わせた。
そして。
同時に笑った。
少しだけ。
距離が近くなった気がした。
◇
その頃。
少し離れた場所では。
「……」
レンカが壁の陰から二人を見ていた。
「……何話してるのよ」
腕を組みながら、眉間に皺を寄せる。
「……笑ってるし」
さらに眉間の皺が深くなる。
「……近いし」
一歩前へ出ようとして。
止まる。
「いや……」
レンカは首を振った。
「約束したんだから」
少しだけ待つ。
そう決めた。
しかし。
心の中は落ち着かなかった。
自分でも分かっている。
嫉妬している。
正春が他の女性と楽しそうに話している。
それだけで胸がざわつく。
しかも相手は。
聖女。
自分とは違って、柔らかくて、優しくて。
正春に対して素直だ。
「……私、何やってるんだろ」
レンカは小さくため息をついた。
だが。
その直後。
モイラが正春の肩に寄り添う姿が見えた。
「……」
レンカの目が細くなる。
「……あれは近すぎない?」
さらに。
モイラが正春の顔を見る。
正春が笑う。
モイラも笑う。
「……」
レンカは拳を握った。
「……もう少しだけ」
そう言い聞かせた。
「もう少しだけだから」
◇
しばらくして。
「それじゃあ、行きましょうか」
モイラが言った。
「どこへ?」
「お店です」
「店?」
「はい」
モイラは少し恥ずかしそうに笑った。
「レンカさんとの約束があるのは知っています。でも……」
「?」
「少しだけ、私の行きたい場所に付き合ってくれませんか?」
正春は頷いた。
「いいぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
モイラは嬉しそうに笑った。
二人が向かったのは。
フォルトックでも少し高級な、海沿いの店だった。
岩山に囲まれた街なのに。
その店からは海が見えた。
夕暮れの光が水平線を赤く染めている。
店内は落ち着いた雰囲気だった。
大きな窓。
木製のテーブル。
柔らかな照明。
そして。
窓の向こうには広大な海。
「綺麗……」
モイラが窓辺に立った。
「こんなお店があったんだな」
「私も今日初めて知りました」
モイラは笑う。
「でも……ここに来てみたかったんです」
「どうして?」
「海が見たかったから」
二人は窓際の席に座った。
やがて料理が運ばれてくる。
温かなスープ。
焼きたてのパン。
魚料理。
果物を使った甘いデザート。
モイラは嬉しそうに料理を見る。
「美味しそう」
「食べよう」
「はい」
二人で食事を始める。
最初は少し緊張していたモイラだったが。
時間が経つにつれて、自然と笑顔が増えていった。
「正春さんって、昔はどんな人だったんですか?」
「昔?」
「はい」
「そうだな……」
正春は少し考える。
「普通だったと思う」
「普通?」
「ああ」
「絶対嘘です」
「なんで?」
「今でも普通じゃないですから」
「……」
正春は苦笑した。
「そう言われると困るな」
「ふふ」
モイラは笑う。
「もっと聞きたいです」
二人は色々な話をした。
冒険のこと。
街のこと。
昔のこと。
好きな食べ物。
これまで出会った仲間。
そして。
これからのこと。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
海の向こうに夜が広がっている。
水平線には無数の星。
そしてフォルトックの街明かりが、海面に細長く映っていた。
「……綺麗ですね」
モイラが呟いた。
「ああ」
「こういう時間……ずっと続けばいいのに」
「そうだな」
モイラは正春を見る。
そして。
「正春さん」
「ん?」
「今日は……ありがとうございました」
「俺も楽しかった」
「……本当ですか?」
「ああ」
「よかった」
モイラは胸に手を当てた。
鼓動が速い。
今なら。
今なら言える気がした。
「正春さん」
「どうした?」
「私……」
言葉が詰まる。
「私、正春さんに会えてよかったです」
「……」
「前の記憶が本当なのか、夢なのか。今でも分かりません」
モイラは夜の海を見る。
「でも、今こうして正春さんと一緒にいることだけは、本物です」
正春は黙って聞いている。
「だから……」
モイラは少しだけ身を乗り出した。
「これからも、私を仲間として……」
そこで言葉を止める。
少しだけ迷って。
「……一人の女の子として、見てくれたら嬉しいです」
正春の目が見開かれた。
「モイラ……」
「はい」
モイラは顔を赤くしながらも。
逃げなかった。
「私は……正春さんのことが、大切です」
その言葉に。
正春は何も言えなかった。
やがて二人は店を出た。
◇
夜のフォルトック。
街灯が石畳を照らしている。
昼間とは違い、人通りも少ない。
モイラと正春は並んで歩いていた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「……正春さん」
「ん?」
「一つだけ……」
モイラは足を止めた。
「お願いしてもいいですか?」
「何?」
モイラは正春の前に立つ。
少しだけ背伸びをする。
そして。
「……これからも、私のそばにいてください」
「ああ」
正春が答えた。
その瞬間。
モイラは微笑んだ。
「……ありがとうございます」
そして。
そっと。
正春の頬に唇を触れさせた。
「……!」
一瞬。
時間が止まったようだった。
モイラはすぐに離れる。
顔は真っ赤。
「……お、おやすみなさい!」
「え?」
正春が固まっている。
モイラは逃げるように数歩進んだ。
しかし。
「……」
立ち止まる。
振り返る。
「正春さん」
「ん?」
「……嬉しかったです」
それだけ言うと。
モイラは再び歩き始めた。
正春は頬に手を当てる。
「……」
何が起きた。
そう思った。
だが。
その瞬間。
「――ちょっと」
背後から。
低い声が響いた。
「……」
正春の背中に冷たい汗が流れる。
ゆっくり振り返る。
そこには。
腕を組んだレンカが立っていた。
「……レンカ」
「何?」
「いつからいた?」
「最初から」
「最初から?」
「ええ」
レンカの笑顔。
だが。
目が笑っていない。
「店に入るところも」
「……」
「楽しそうに話してるところも」
「……」
「二人で帰ってくるところも」
「……」
レンカが一歩近づく。
「全部見てたわ」
「……」
正春は黙った。
「ねえ、正春」
「はい」
「私との約束」
「覚えてる」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ」
レンカはモイラを見る。
モイラも立ち止まった。
「どういうことか説明してもらえる?」
モイラは顔を赤くした。
「……」
「モイラ?」
「……その」
「何?」
「正春さんに……」
「うん」
「キスしました」
「……」
レンカの表情が固まった。
「……」
数秒。
「……は?」
「頬にです」
「分かってるわよ!」
レンカの声が夜の街に響いた。
「そういう問題じゃない!」
モイラも負けじと声を上げる。
「何が問題なんですか!」
「何がって……!」
「正春さんの頬にキスしただけです!」
「だけって言った!?」
「はい!」
「それは私だってまだしてないのよ!」
「……え?」
モイラが固まった。
レンカも固まる。
「……」
「……」
二人は互いを見る。
正春は頭を抱えた。
「頼むから落ち着いてくれ」
「正春は黙ってて!」
「はい」
「これは女同士の問題だから!」
「……分かった」
レンカはモイラに詰め寄る。
「あなたねえ……」
「なんですか!」
「私が譲ったのをいいことに……」
「譲ってくれたのはレンカさんじゃないですか!」
「だからってキスする!?」
「したかったからしました!」
「開き直った!」
「正春さんに会えたことが嬉しかったんです!」
「……!」
その言葉に。
レンカは一瞬黙った。
「……」
モイラは胸の奥から溢れた気持ちを、もう止められなかった。
「私は……正春さんを失ったような記憶があるんです」
レンカの表情が変わる。
「だから……」
モイラの声が震える。
「もう二度と失いたくない」
「……」
「正春さんがここにいる。それだけで嬉しいんです」
レンカは何も言えなかった。
やがて。
「……ずるい」
小さく呟いた。
「え?」
「そんなこと言われたら……怒れないじゃない」
レンカは顔を背ける。
「でも」
再びモイラを見る。
「だからって、私が譲ると思ったら大間違いだから」
「……!」
「正春は私にとっても大切な人なの」
モイラは静かに頷いた。
「分かっています」
「なら……」
「でも、私も負けません」
レンカの目が細くなる。
「……言ったわね?」
「はい」
「聖女だからって遠慮しないわよ」
「私だって聖女だからって引きません」
二人の間に。
再び火花が散った。
正春は二人を見ながら、深くため息をつく。
「……どうしてこうなったんだ」
すると。
二人が同時に振り返る。
「正春!」
「正春さん!」
「はい!」
「どっちが大切なの!?」
「え!?」
正春は絶句した。
夜のフォルトック。
海から吹く風が、三人の間を通り抜けていく。
そして。
レンカが先に口を開いた。
「……正春」
「はい」
「今日の店、私とも行くからね」
「分かった」
「今度は二人で」
「……ああ」
するとモイラが手を挙げた。
「私もまた行きたいです」
「あなたは今日行ったでしょう!」
「また行きたいんです!」
「もう!」
二人が再び言い争う。
正春は頭を抱えた。
だが。
どこか。
少しだけ嬉しかった。
これまでの旅は、戦いの連続だった。
命の危険。
魔物。
迷宮。
火山。
失う恐怖。
そんなものばかりだった。
けれど。
今。
自分の隣には二人の仲間がいる。
自分を大切に思ってくれる人がいる。
そして。
その二人が、自分を巡って言い争っている。
正春は苦笑した。
「……まあ」
小さく呟く。
「悪くないか」
「何が?」
「なんでもない」
正春は二人の隣へ歩いていった。
レンカが右側。
モイラが左側。
三人は夜の街を歩き始める。
その背後には、遠くまで広がる夜の海。
空には無数の星。
そして。
フォルトックの地下深くには。
まだ誰も知らない巨大な迷宮が、三人を待っていた。
◇
その夜。
宿に戻ったあとも。
モイラは眠れなかった。
ベッドに横になりながら。
自分の唇に指を当てる。
「……キス、しちゃった」
思い出すだけで顔が熱くなる。
「私……本当にしたんだ」
正春の頬。
ほんの一瞬。
触れただけ。
それなのに。
胸の鼓動が止まらない。
「……嬉しい」
モイラは枕に顔を埋めた。
そして。
少しだけ笑った。
だが。
「……明日から、レンカさんとどう接すればいいんだろう」
その瞬間。
隣の部屋から声が聞こえた。
「……正春」
レンカの声だった。
「ん?」
「明日、ダンジョンに行く前に」
「何?」
「私にも時間をちょうだい」
「……分かった」
「絶対だからね」
「ああ」
モイラはその会話を聞いて。
「……」
少しだけ唇を尖らせた。
「負けませんから」
小さく呟く。
聖女としてではなく。
一人の少女として。
正春を想う気持ちを。
もう隠さない。
それが。
モイラの新しい決意だった。
◇
一方。
レンカもまた眠れずにいた。
「……頬にキス、か」
ベッドに座りながら呟く。
「私だって……」
自分の頬を触る。
「……したことないのに」
少しだけ悔しい。
でも。
モイラの言葉を思い出す。
正春を失った記憶。
もう二度と失いたくないという言葉。
「……」
レンカは静かに窓の外を見る。
夜空には星が輝いていた。
「私も……」
小さく息を吐く。
「正春を失いたくない」
それは。
戦士としての言葉ではなかった。
一人の女性として。
正春のそばにいたい。
そんな気持ちだった。
「……明日」
レンカは拳を握る。
「少しくらい、私も素直になってみようかな」
◇
そして翌朝。
「おはようございます、正春さん」
「おはよう」
「正春」
「おはよう、レンカ」
三人が顔を合わせる。
一瞬。
誰も何も言わなかった。
だが。
モイラが正春の左側に立つ。
レンカが右側に立つ。
そして。
二人が互いを見る。
「……」
「……」
「今日はダンジョンですよ」
「そうね」
「深層まで行くんですよね」
「そのつもりよ」
「なら、頑張りましょう」
「もちろん」
二人とも笑顔。
しかし。
目だけは笑っていない。
「……」
正春は嫌な予感がした。
「二人とも」
「何?」
「どうした?」
「……仲良くしてくれよ」
「もちろん」
「ええ」
二人は同時に答えた。
だが。
次の瞬間。
モイラが正春の左腕を取った。
「正春さんはこちらです」
「え?」
レンカも負けじと右腕を掴む。
「正春はこっち」
「ちょっと」
「私の隣です」
「私の隣よ」
「……」
正春は両腕を左右から引っ張られた。
「痛い痛い!」
「すみません!」
「あ、ごめん」
二人が同時に手を離す。
そして。
顔を見合わせる。
「……」
「……」
やがて。
モイラが小さく笑った。
「レンカさん」
「何?」
「やっぱり、私たち……似ていますね」
「……そうかもね」
レンカも苦笑する。
「正春のことになると、余裕がなくなるところとか」
「……」
正春は二人を見て。
苦笑した。
「仲良くなったのか?」
「どうでしょう」
「さあね」
二人は同時に答えた。
だが。
昨日までとは少し違っていた。
完全な敵ではない。
互いに正春を大切に思うからこそ衝突する。
そして。
いつかは。
その関係そのものが、三人の旅を大きく変えていくことになる。
正春はまだ知らない。
新たなミスリル装備。
新たな仲間。
そして。
二人の女性から向けられる想い。
そのすべてが。
これから挑む迷宮の運命と、深く絡み合っていくことを。
――フォルトック地下迷宮。
その入口で。
三人は立ち止まった。
巨大な石門。
その奥から。
冷たい風が吹き上がってくる。
「行くぞ」
正春が言った。
「はい!」
「ええ!」
二人が答える。
そして。
三人は迷宮の中へと足を踏み入れた。
銀色のミスリルが、暗闇の中で淡く輝く。
まるで。
これから始まる新たな戦いを祝福するかのように。
そして。
そのさらに奥。
誰にも知られていない深層で。
何かが。
ゆっくりと目を覚ましていた。
――次なる冒険が。




