第七話
《占い師の魔女に会ってから、アニエスが俯くことが増えた。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。笑っていてほしいだけなのに。
どうして私は、彼女を幸せにしてあげることができないのだろうか……?》
◇◇◇
国境近くにある深い森を目指して、王都を出発してから約一ヶ月。馬車の中は、沈黙で満たされていた。
(もしここに、孤独の魔女がいなかったらどうしよう……)
シルヴァンの大切な時間を費やして、ここまで来たのだ。手ぶらで帰るわけにはいかない。アニエスの手は、緊張と恐怖で小さく震えていた。
「……ええっと、アニエス、と呼んでいいかな? そんなに体に力が入っていては、森歩きをする前に疲れてしまうよ」
「シルヴァン……。でも、もしものことを考えるとすごく怖くて……」
「そうだね。それは私も同じだ。君に苦労をかけて、申し訳ない」
「……いいのよ。私があなたのためにしたいだけだもの」
アニエスは微笑んでみせる。上手く笑えたかどうかは、分からなかった。
やがて馬車が停まる。外から護衛が扉をノックした。
「旦那様、奥様。森に着きました」
(いよいよね……)
シルヴァンのエスコートを受けながら馬車を降りる。目の前には、朝なのに陽の光が入らず、暗い森が広がっていた。
(何か出そうで怖い……)
思わずアニエスはシルヴァンの手をぎゅっと握る。そんな彼女を安心させるように、シルヴァンもまた握り返してくれた。
「かなり深い森のようなので、足元に気をつけて進んでください」
ランタンを持つ護衛の後ろを歩いていく。一歩足を踏み入れれば、動物たちの気配がした。
獣道を歩いていく。歩みを進めるたびに、カサカサと草むらが音を立てる。森に住む動物なのか、はたまた別の何かなのか。アニエスは誰かに見られているような感覚を覚えていた。
「ここは変な森ですね……。動物の気配はするのに、どこか息を潜めているようだ」
護衛も違和感を覚えているらしい。眉をひそめながら、慎重に歩いていく。
「あれ。これは……」
アニエスは足元に一輪だけ咲いていた紫色の花に気づく。それは事故現場の崖下で見た花に似ていた。
「孤独の魔女の花だわ! 魔女が近くにいるのかもしれない!」
アニエスたちはさらに森の奥を目指す。しばらくすると、シルヴァンの歩みが遅くなっていた。
「シルヴァン? だいじょう――」
ぐらりとシルヴァンの体が傾く。地面に膝をつき、彼はそのまま倒れてしまった。
「シルヴァン!!」
アニエスと護衛が駆け寄る。シルヴァンは胸元を押さえ、脂汗を流しながら顔を苦痛に歪めていた。
「く、ぅ……っ」
「っ、花弁が散ったのね……!?」
いつもより苦しんでいる時間が長い。アニエスは護衛を見た。
「このあたりに休めそうな場所がないか探して!」
「かしこまりました!」
護衛の走り去る音が聞こえる。アニエスはシルヴァンの頭を自らの膝に乗せ、その汗をハンカチで拭った。
「シルヴァン、大丈夫よ。もうすぐ、きっともうすぐだから」
「ぐ……、アニ、エス……」
「私はここにいるわ。あなたの傍にいるわ」
不安で涙が滲む。それでも今一番つらいのはシルヴァンだと自分に言い聞かせて、痛みでこわばっている彼の手を握りしめる。その体は、ひんやりとしていた。
「――奥様! この先に小屋がありました! そこで休ませてもらいましょう!」
シルヴァンは自力では歩けないほど、ぐったりとしている。戻ってきた護衛とともに、シルヴァンを支えながら歩いた。木々を抜けた先が少し開けており、そこに古びた小屋があった。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」
護衛が小屋の扉を叩く。しかし中から反応はない。アニエスと護衛は互いに頷き合い、小屋の扉を開けた。
薬草の匂いだろうか。中は渋いような爽やかなような匂いがしていた。部屋の奥に置かれているベッドにシルヴァンを寝かす。未だ彼は、胸の痛みと戦っていた。
苦痛に耐えるシルヴァンを見ていることしかできない。アニエスは唇を噛みしめて、ただシルヴァンの手を握り続けた。そしてようやく、シルヴァンの呼吸が穏やかになり始める。それと同時に、彼は気を失ったようだった。
「孤独の魔女は絶対に見つけてみせるから……」
両手で握ったシルヴァンの手を祈るように額に当てて、アニエスはそっと誓った。
「奥様。ここは最近まで誰かが住んでいた形跡があります。火も使えるようなので、今日はここで一泊させてもらいましょう」
「家主が戻ってこないかしら?」
「事情を説明してみましょう。病人を追い出すようなことはしないと思いますが……」
護衛の提案にアニエスは頷く。そしてシルヴァンの様子を見ているうちに、アニエスは慣れない長旅の疲れでいつの間にか意識が落ちてしまった。
「……アニエス……」
シルヴァンの声がする。アニエスがゆっくりと瞼を開ければ、異様に白い顔をしたシルヴァンがこちらを見ていた。
「シルヴァン……?」
「もう、時間が来てしまったようだ。ごめん、アニエス」
「時間って……そんな!?」
アニエスは慌ててシルヴァンの胸元の服を広げる。胸元に残された花弁は、あと一枚だった。
「ど、どうして!? まだ五枚は残っているはずなのに!?」
「アニエス……。何度君を忘れても、私は君を愛している」
「いや! 行かないで! 行かないで、シルヴァン!!」
シルヴァンの胸の花弁が散っていく。シルヴァンの瞳から光が消えていった。
「……貴女は、誰だ……?」
最期の言葉だった。シルヴァンの目が静かに伏せられる。そうして力なく倒れていくシルヴァンの体に、アニエスは手を伸ばした。
「――シルヴァン!!」
アニエスは、自分の声ではっと目を覚ました。息が荒い。嫌な汗をかいている。自分が恐ろしい夢を見ていたのだと、すぐに分かった。
「……シルヴァン?」
シルヴァンの温もりを確かめたくて、手を動かす。しかし触れたのは、土の冷たい感触だった。
「え……?」
先ほどまで小屋の中にいたはずなのに。アニエスは今、深い森の中に一人で立っていた。シルヴァンも、護衛の姿もない。
「ここは、どこ……? 私はまだ、夢を見てるの……?」
「これは現実さあね。お前さんを呼んだのはあたしだよ」
声がした方を振り返る。木々の暗闇の奥から、紫色のローブをかぶった老婆が姿を現した。
「あなた……もしかして、孤独の魔女……?」
「人はそうとも呼ぶねえ」
「っ! お願い! シルヴァンの寿命を返して!」
アニエスの願いに、孤独の魔女はニィっと笑った。
「じゃあ対価はお前さんの命だね」




