第八話
「あの男はもう助からん。諦めて残りの日々を過ごすがええ」
孤独の魔女の言葉に、アニエスは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「た、助からない? どうしてですか? 寿命を奪ったのは、あなたではないのですか!?」
「あたしは奪ったんじゃない。むしろ延ばしてやったのさ」
「どういうこと……?」
頭がぐらぐらと揺れる。孤独の魔女の言葉がきちんと理解できない。アニエスは額に手を当てながら、なんとか自分を落ち着かせようとした。
「……孤独の魔女よ、どうか教えてください。あの日、シルヴァンに何があったのですか?」
「知りたいのか? なら対価に何を差し出す?」
「私の声でも寿命でもなんでも! だから真実を教えて!」
「ヒェヒェ。じゃあお前さんのこれからの人生で一番幸せな記憶をもらおうかねぇ」
孤独の魔女が宙に何かの文字を描く。それは紫色の光を放ち、すっとアニエスの額の中に溶けていった。
「………」
自分の体に何か変わった様子はない。それでも何か、アニエスの心はぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。
「さぁ、教えてやろう。あの日、お前さんの夫と交わした契約を――」
◇◇◇
――アニエスに会いたい。
シルヴァンの願いの対価に、孤独の魔女は彼の『大切なもの』を要求した。
『お前さんの大切なものは――そうかいそうかい。妻が大切なんだねぇ』
ならば妻の寿命と引き換えに、今ここで尽きかけているお前の命を延ばしてやろう。
孤独の魔女が宙にまじないの文字を描こうとする。それを阻止するように、シルヴァンは魔女の足首を掴んだ。
『だ、めだ……。アニエスからは、何も、奪わせない……』
『じゃあお前さんの願いは叶わないね。大人しくここで死ぬんだよ』
『頼む……。愛していると、伝えたい、のだ……』
『じゃあお前さんが対価を払うかい? その死にかけた体で』
孤独の魔女の言葉に、シルヴァンは迷いなく頷く。魔女はそれに、少し目を見開いた。
『いいだろう。お前さんが二番目に大切にしているもの――妻との記憶をもらおうじゃないか。ただし、延ばせる寿命は一年だけだ』
『かまわ、ない。何度彼女を忘れても、必ず彼女に、恋をするはず、だから……』
『さぁて。妻を忘れたお前さんが、愛を伝えられるかねぇ?』
素早く描かれた紫色のまじないが、シルヴァンの体を覆う。やがてそれは分割して、一つは額に、もう一つは心臓へと溶けていった。
『ヒェヒェ。どうなるか見ものだねぇ』
◇◇◇
「あの男は選んだのさ。己を差し出して、妻に愛を伝えることを」
「そんな……! シルヴァン……!」
溢れ出す涙が止まらない。シルヴァンの死の間際でさえ、自分のことを想っていた。その事実が痛くて、苦しくて。嬉しくて、愛おしくて。アニエスは次々と溢れる嗚咽を、手で覆いながら押し殺した。
「あの男の寿命を延ばしてほしいか? それなら対価はお前さんの命だ。だが、真実を知った今でも、お前さんはその命を蔑ろにできるのか?」
孤独の魔女が口元を歪めながら笑う。アニエスはただ、はらはらと涙を流しながら答えに詰まった。
(私もシルヴァンを愛している……! 彼を失いたくない……!)
もう自分のことを忘れていてもかまわない。生きていてくれるのなら、それでいい。
「っ、私の命で彼は生きられるのね?」
「そうさ。お前さんの寿命がそのままあの男に移るのさ」
アニエスは涙を拭う。それでも溢れてくる涙をそのままに、孤独の魔女を睨みつけるように見据えた。
「なら、やってちょうだい。彼を、シルヴァンを生かして!」
「――交渉成立だ」
孤独の魔女の指先が宙を指す。そこに紫色で文字が刻まれる。
(怖い……! 死にたくない……! でも、シルヴァンを救いたい……!)
震える体を叱咤して、アニエスは静かに両手を広げる。そして目を閉じて、最期のときを待った。
「……お互いを犠牲にし合うだなんて……馬鹿な夫婦だねぇ」
ぽつり。孤独の魔女が小さく呟きながら、まじないを描く。紫色の文字が、飛び立とうとしたときだった。
「――アニエス!!」
ドンッと音がして、孤独の魔女が地面へと転がる。アニエスが目を開けば、そこにはシルヴァンがいた。
「シルヴァン!?」
「な、お前さん、どうやってここが――」
孤独の魔女が驚きに目を見開く。シルヴァンが魔女からアニエスを庇うように、身を盾にした。
「アニエスからは何も奪わせないと言ったはずだ」
「シルヴァン、記憶が――」
「ああ、事故の日のことを思い出した。そこの魔女と、何を契約したのかも」
孤独の魔女がゆっくりと起き上がる。シルヴァンはそれを警戒するように見ていた。
「――やれやれ。人間の感情っていうやつはどうも厄介だ。時にまじないの効力を超えてくる」
孤独の魔女が、ローブの汚れを払う。溜め息をつきながら、心底煩わしげに顔を歪めた。
「あたしはその女の願いを叶えようとしただけさ。お前さんが死の間際に選択したように、その女にも選択する権利がある」
「……アニエス、どうかやめてくれ。私のために、命を投げ出そうとしないでくれ」
シルヴァンはアニエスの両腕を押さえながら、懇願するように俯いた。
「シルヴァン……。私はシルヴァンに生きていてほしいわ」
「私はアニエスに生きていてほしい。例え、私が傍にいなくても」
「……随分とひどいことを言うのね。あなたがいないなら、私は生きていけないわ」
無数の涙がアニエスの頬を伝う。シルヴァンはそれを優しく拭うが、涙は乾かない。
「このままあなたを死なせない」
「アニエス!」
「これは私の選択よ。お願い、止めないで」
「頼むよ、アニエス。そんなことを言わないでくれ……」
「――ああ、煩わしいねぇ。なら二人とも、仲良く死ねばいいじゃないか」
割って入った孤独の魔女の言葉に、シルヴァンは凍える瞳で魔女を睨みつけた。
「互いがいなきゃ生きていけないんだったら、死ぬしかないだろう?」
「私たちの会話に入らないでくれ――待てよ。仲良く死ぬ……?」
孤独の魔女の言葉に何か思うことがあったのか、シルヴァンが顎に指を当てて思案し始めた。
「寿命は譲渡することができる。それなら……」
「シルヴァン?」
「――アニエス。私と一緒に生きて、私と一緒に死んでくれるか?」
シルヴァンがアニエスの両肩に手を置く。その目は、穏やかだった。
「もちろんよ。どこまでもあなたと一緒がいいわ」
アニエスはシルヴァンの手に自分の手を重ねる。そして柔らかく微笑み返した。
そのままシルヴァンはアニエスと手を繋ぐ。その両手は力強く、結ばれていた。
「――孤独の魔女。契約だ」
「……なんだい、藪から棒に」
孤独の魔女が警戒したような様子を見せる。シルヴァンはそれを真っ直ぐ見据えた。
「アニエスの命と引き換えに、私の寿命を延ばしてくれ。そして私の寿命の一部と引き換えに、私の残った寿命をアニエスと分けてくれ」
一つの寿命を二人で分け合う。それが、シルヴァンの出した答えだった。
「……随分と勝手な契約だね。だが対価としては成り立っている」
孤独の魔女がしかめ面をしながら、渋々言った。
「お前さんたちに残る寿命は、長くはないよ」
「かまわない」
「かまわないわ」
孤独の魔女は大きく溜め息をついてみせる。そして無言で宙にまじないを描き始めた。
「本当、人間というものは理解できない。寿命を削り合ってまで、何がしたいんだか」
アニエスとシルヴァンは互いに見つめ合う。そして額をくっつけて、目を閉じた。
「――シルヴァン、愛してる」
「私も。アニエスを愛している」
紫色のまじないが二人を包む。眩しい光が、暗い森を照らした。
「シルヴァン! 痣を見せて!」
光が収まったあと、アニエスがシルヴァンの服の胸元を広げる。そこには、十二枚の花弁の花束が描かれていた。
「散った花弁が……戻ってる……!」
今にも泣き出しそうなアニエスへ微笑みかけ、シルヴァンは彼女を抱きしめた。
◇◇◇
数年後のとある屋敷にて。穏やかなサンルームに、赤子の笑い声が満ちていた。
母親は腕の中にいる赤子に微笑む。だが、この子が生まれたときのことは、まったく思い出せない。しばらくすると父親が後ろから現れ、母親の頬に口づけを落とす。その家族は、幸せそうに笑っていた。
《母となった君も美しい。――私は今日もまた、彼女に恋をする。》




