第五話
翌朝。何か手がかりがあるかもしれないと、アニエスはシルヴァンの事故現場へ向かうことを決めた。
「――待ってくれ。何が何だかよく分からないけれど、君が行こうとしているのは、私のためなんだね?」
準備を整え出発の挨拶をするために訪れたアニエスを、シルヴァンが引き留める。
「私も一緒に行こう。シモン、準備をしてくれ」
「かしこまりました」
「でもシルヴァン、あなた怪我がまだ……」
「もう動けるくらいには回復している。大丈夫だ」
二人で馬車へと乗り込む。行き先は、王都とペルティエ伯爵領の間に位置する山。伯爵邸から馬車で三日ほどの距離だった。
山道に差し掛かると、馬車の揺れが大きくなる。道幅も狭く、馬車の速度も落ちた。
(ここが、シルヴァンが事故に遭った場所……)
窓から外を覗けば、深い谷が見えた。底には川が流れている。目が眩むほどの高さに、自然と体が震えた。
「アニエス、大丈夫かい?」
「え、ええ。ここが事故現場だと思うと、少し怖くなってしまって……」
記憶を失う前のシルヴァンであれば、肩を抱きしめてくれただろう。しかし今、その温もりはない。アニエスは冷えた肩を温めるように、自分でそっと抱きしめた。
細い山道ですれ違うための、少しだけ開けた場所に馬車が停まる。シルヴァンのエスコートを受けて馬車を降りれば強い風が吹き上げて、アニエスは飛びそうになる帽子を押さえた。
「………」
見上げたシルヴァンの表情は、どことなく硬かった。
「シルヴァン? どうかした?」
「……ここに来てから、少し頭痛がしていて」
「馬車で休んでいてもいいのよ?」
「いや、君に万が一のことがあってはいけない。私も一緒にいるよ」
周囲は崖と木々に囲まれている。何か魔女の痕跡を探そうと思っていたアニエスだったが、正直、何を探せばいいか分かってはいなかった。
アニエスは崖下を覗き込む。そこにはまだ、かつては馬車だった大きな木材の破片が転がっていた。その側には、紫色の花が咲いている。その花に、どこか見覚えがあった気がした。
(あの花、シルヴァンの痣と似てる気がする……?)
しかし遠目ではよく分からない。じっくり見ようと、崖下に身を乗り出す。その瞬間、下から風が吹き上げて、体がふわりと浮いた気がした。
「……っ」
同時にこの高さから落ちていくシルヴァンを想像して、ひゅっと息が詰まる。ここから落ちたにも関わらず、シルヴァンは生きている。その奇跡に、アニエスは感謝した。
「アニエス。あまり身を乗り出すと危ないよ……」
そっとシルヴァンの手がアニエスに差し出される。彼はかなり頭が痛むのか、もう片方の手で頭を押さえていた。
「あなた、顔色が悪いわ」
「……ああ。頭痛と耳鳴りがひどくて……」
そのとき、ふらりとシルヴァンの体がよろめく。アニエスはその大きな体を支えた。
「シルヴァン!?」
シルヴァンが地面に膝をつく。その顔は苦痛に歪んでいた。
「……あの日、私は崖から落ちて……死を悟ったんだ……」
「何を言って――」
「……でも、どうしても、君に会いたくて……。君に会えないまま、死ぬのは嫌で……」
「っ、事故のことを思い出しているのね!?」
◇◇◇
視界が霞む。目の奥で光が弾ける。痛みの濁流に飲まれながら、シルヴァンは事故の日のことを思い出していた。
――ただ死ぬ前に、もう一度妻に会いたい。
そう願ったとき、紫色のローブを着た老婆が姿を現した。
『――おやおや、命の灯火が小さいねえ。最期の言葉はあるかい?』
しわがれた声に、シルヴァンは必死に声を絞り出した。
『……アニエスに、会い、たい』
『会わせてやろうか? 代わりにお前さんの大切なものをもらうがねえ』
ローブから覗く口元がニィっと笑う。その瞬間、世界から音が消えた。
◇◇◇
「……そうだ。私はその老婆に願ったんだ……」
「魔女だわ……。シルヴァン、あなた、魔女に会ったのよ!」
「まさか……あの老婆が魔女だと言うのか……?」
「魔女は実在するのよ。――そうだ、あの本なら何か分かるかもしれない……!」
アニエスとシルヴァンは、急いで伯爵邸へと戻った。着替える時間も惜しんで、書庫へと向かう。そこでアニエスが手に取ったのは、古語で魔女に関して書かれたあの本だった。
「シルヴァン、この本よ」
「『魔女異聞録』。魔女の伝承について調べた本のようだね」
書庫のテーブルで本を広げる。そこには魔女の通称から外見的特徴、まじないに使われる紋章まで描かれていた。
「きっとどこかにシルヴァンの痣と同じ紋章があるはずよ」
次々とページをめくっていく。しかし、あの花は見つからない。そして中ほどを過ぎた頃、ぴたりとシルヴァンの手が止まった。
「これは……私の……」
十二枚の花弁が描かれた花。胸の痣と同じ紋章が、あった。
「これだわ! 崖下に咲いていた花ともそっくり! シルヴァン、なんて書いてあるか読める?」
「あ、ああ……。魔女の名前は、『孤独の魔女』。その名前の通り、孤独を好み、あまり人前に姿を現さないらしい」
住む場所を変えながら、世界を点々と旅する魔女。本にはそう記されていた。
「急がないと、花弁が散るまでに会えないかもしれない……!」
「でも、どうやって……」
シルヴァンはまだ半信半疑なのだろう。困惑したように目を瞬かせた。
「魔女について調べるのよ。大商会の商会長に手紙を書くわ。それから傭兵ギルドにも話を聞いてみましょう。何か情報を持っている人がいるかもしれない」
「……アニエス。君は本当に、魔女の仕業だと思っているのか?」
「ええ、思っているわ」
――それ以外に、縋るものがないもの。
その言葉は、飲み込んだ。
アニエスは夜通しで手紙を書いた。市場の商人や傭兵ギルドにも、使いを送った。そうして一週間後。各所に魔女の情報を求めたアニエスたちの元に、朗報が届く。
孤独の魔女ではないが、別の魔女の居場所を知っている。その情報を頼りに、アニエスとシルヴァンは王都を出発する。シルヴァンの痣の花弁は、残り九枚となっていた――。




