第四話
――花のような痣が出る症状を知らないか?
友人、出入りしている商人、王宮の医務官。あらゆる伝手を使って、アニエスはシルヴァンの病について手がかりを得ようと奔走していた。
痣の花弁が散ってから一週間。未だ何の収穫もない。アニエスの疲労は、限界を超えていた。
「奥様! このままでは奥様が倒れられてしまいます! どうかお屋敷にお戻りください!」
複数の国と取引をしている大商会のもとへ向かおうとしているアニエスの腕を引いて、サブリナは今にも泣きそうな顔で声を上げた。
「サブリナ……、私は大丈夫だから。商会長とお話をしたら屋敷に戻るわ。ね?」
「今すぐお戻りください! もう足元もふらふらで……これ以上は見ていられません!」
サブリナが少し腕を引く力を強めれば、アニエスは簡単によろめいてしまう。目の下のクマもはっきりと分かるほど濃くなり、頬も少しこけていた。
「奥様! お願いです! ここで奥様が倒れられたら、旦那様がご自分を責めてしまいます!」
「……それは、困るわね。あの人を、悲しませたいわけじゃないのに……」
アニエスは微笑もうとする。しかしわずかに口の端が持ち上がっただけで、それは笑顔にならなかった。
「あ……」
「奥様!?」
アニエスの視界がぐるりと回る。サブリナの声が、歪んで聞こえる。倒れると思ったときには、目の前が暗転していた。
「――極度の疲労と睡眠不足ですな。ゆっくり休んで、しっかり食事をお取りになってください」
「ありがとうございます」
「ん……」
話し声がして、誰かが部屋を出ていく音が聞こえた。アニエスは瞼を震わせながら、ゆっくりと目を開く。
「奥様! 目覚められたのですね!」
「サブ、リナ……? ここは……」
「お屋敷ですよ。奥様は外で倒れられたのです」
「……そう。あなたに迷惑をかけたのね」
起き上がろうとするアニエスを、サブリナが制する。思うように力が入らなくて、アニエスは大人しくベッドの中に戻った。
「シルヴァンは? どうしているかしら?」
「とても奥様のことを心配されていました。目覚めたら知らせるようにと」
「そう。あの人にも迷惑をかけたわね」
「迷惑だなんて……っ。旦那様も私も、そんなこと思ってません!」
サブリナは何かを堪えるようにぎゅっと口を結ぶと、立ち上がった。
「……旦那様に知らせてきます」
サブリナが目覚めを知らせれば、シルヴァンはシモンに支えられながら、すぐにアニエスの部屋へと訪れた。
「アニエス! 心配したよ!」
シルヴァンがベッドの端に腰かける。いつもの逆の光景に、アニエスは小さく笑いを零した。
「いつもと、立場が逆ですね……」
「何を笑っているんだ。君は倒れたんだぞ?」
「ご迷惑をおかけしました……」
シルヴァンがアニエスの額に手を伸ばす。ひんやりとした手のひらが、火照った額に心地よかった。
「……私のことで無理をさせていたんだな。すまない、アニエス」
「……いいえ。私がしたくてやっていることだもの。シルヴァンが謝る必要はないわ」
「君が無理をしているのを過去の私は気づいていた。もっと早くに止めるべきだったんだ」
シルヴァンはぎゅっと眉をしかめる。その顔が痛そうで、アニエスはそっと手を伸ばして、頬に触れた。
「そんな顔、しないで……?」
「アニエス。私は、君を失う方が怖い。もう無理はしないでほしいんだ……」
頬にあるアニエスの手を、シルヴァンの手が包み込む。その体温が心地よくて、アニエスはほぅと息をついた。
「――アニエス、このままではだめだろうか? このまま、二人で最期までゆっくりと時間を過ごすのはどうだろうか?」
「……二人で、ゆっくり……?」
それは、今のアニエスの耳にはとても甘美な誘いに聞こえた。
どれだけ本を調べようとも、どれだけ人に尋ねようとも、誰も痣について知らないという。どれだけ夜遅くまで調べようとも、辺境まで手紙を出そうとも、何も得られない。いつしか、調べることそのものが苦しくなっていた。
「……でも、あなたの記憶を取り戻さないと……」
「私はこのままでもいい。毎日君に恋をしているんだ。それで十分だよ」
「……本当に?」
「もちろんさ。とにかく今は体を休めることだけを考えて。私と一緒にゆっくり過ごそう」
「……ええ、分かったわ」
そして、二人でただ一緒に過ごす日々が始まった。
「貴女は?」
「妻のアニエスです」
毎朝の挨拶から始まって、シルヴァンは自分が綴った日記を読む。読み終える頃にはいつも、アニエスを愛おしそうに見つめてくれた。
「今日は天気がいいね。庭を散歩するのはどうだろう?」
「まあ、いいわね。前にあなたが贈ってくれた花が満開なのよ」
「私が前に……? ああ、そんなことがあったんだね。なら今日は、君に花輪を贈ろうか」
「シルヴァンが編んでくれるの? 素敵だわ」
同じ時間を過ごしているはずなのに、思い出となる記憶は忘れ去られてゆく。何度も繰り返される思い出話に、日ごとにアニエスの口数は減っていった。
十日過ぎた頃。アニエスは、笑うのが上手くなった。
(――シルヴァンと一緒に過ごせるのはうれしい。けれど、本当にこのままでいいの?)
何度目かの朝を繰り返したある日、アニエスはふと思った。「初めまして」から始まって、「愛している」で終わる日々。
(幸せなはずなのに……、どうして私は、こんなにも苦しいの?)
寝る前に愛を伝え合っても、翌朝には忘れられてしまう。まるでそこにあった愛が、否定されたような気持ちになる。自分のことを覚えてくれていないことに、分かっていても落胆してしまう。
(――ああ、私は……毎日忘れられるのが、辛いのだわ)
シルヴァンさえいてくれれば良いと思っていた。例え自分のことを忘れても、一日の中で何度でも私を愛してくれる。それだけで十分だと思っていたのに。
けれど、本当は。ずっとシルヴァンに覚えておいてもらいたい。どんな些細なことでも、二人の間にあったことを一片たりとも忘れずにいてほしいのだ。
「――シルヴァン……」
ある夜、アニエスは眠るシルヴァンの頬を撫でながら、静かに涙を零していた。
――胸元の花弁はあと十枚。
アニエスはシルヴァンがここにいることを確かめたくて、彼の寝息に耳を澄ませた。
(――大丈夫。シルヴァンはまだ、生きている)
そのときキラリと、視界の端で何かが光った。視線を向ければサイドテーブルの上。金で縁どられた本が置かれていた。
「これは……」
アニエスはその本を手に取り、広げてみる。それは、シルヴァンの日記帳だった。
《胸の痣を見ると、言い知れぬ不安に駆られる。
花弁を見るたびに、体が震える。でも、君の前では笑っていたい。
私はいつまで、アニエスの傍にいられるのだろうか?》
《また花弁が散った。それを見たアニエスが悲しそうな顔をする。
君を置いて死ぬことが怖い。でも、もし私が死んでも、どうか君には泣かないでいてほしい》
「――っ、シルヴァン……!」
アニエスは漏れそうになる声を押し殺す。声の代わりに、目から大粒の涙が次々と零れた。
(――どうか神様がいるのなら、彼を助けてください。どんな代償でも払います。だから彼を助けて)
窓の外は新月で、明かりはない。アニエスはまるで、神に見放されたように感じた。そのときだった。
(……そう言えば昔、お祖母様が言っていた。新月の夜には、魔女が歩く、と)
それは、古くから国に伝わる言い伝えだった。同時に、書庫で見た魔女に関する古語の本を思い出す。
「――『魔女』……?」
はっと顔を上げる。言い伝えの一節を思い出したのだ。
――まじないを使うとき、魔女は花を描く。
「魔女なら、シルヴァンの痣について何か知っているかもしれない……」
言い伝えを信じるなんて、馬鹿げているのかもしれない。それでもアニエスはシルヴァンの日記を胸に抱き、窓から新月の夜空を睨むように見上げた。
――魔女を探そう。




