第三話
(今日も収穫がなかった……)
王立図書館からの帰り。アニエスは落胆の溜め息を吐きながら、伯爵邸へと戻った。そしてそのまま、愛しい夫が待つ寝室へと向かう。シルヴァンは、ベッドの上で書類を見ていた。
「ただいま、シルヴァン」
「……おかえり、アニエス」
出迎えてくれたシルヴァンの微笑みは、少しだけぎこちない。毎朝、自分の記憶にない妻に会うのだ。その動揺も仕方ない。そう思うのだが――。
(何を悲しんでいるの、アニエス。シルヴァンがおかえりと笑ってくれるだけで十分じゃない)
「もしかしたら今日こそは」と、期待をしては何度も裏切られた。その度に、心が槍で貫かれたように鋭く痛んで、熱いものが込み上げて唇が震えた。
「図書館はどうだった?」
「……駄目ね。端から順番に見ていっているけど、目ぼしい本は見つからないわ」
伯爵邸の書庫を調べ終えたアニエスは、次に王立図書館に目をつけた。通い始めて三日が過ぎたが、未だに成果は得られていない。
アニエスはベッドの端に腰を掛ける。照明に照らされた彼女の顔には、以前よりも深く影が落ちた。
(彼女は、ひどく疲れている……)
妻に関する記憶はない。それでも、アニエスの目の下の濃いクマに気づけないほど、シルヴァンは鈍くはなかった。
「……すまない、アニエス。私のせいで……」
「あなたのせいじゃないわ。あなたのために、私がやりたいのよ」
「……ありがとう」
瞳を揺らすシルヴァンに、アニエスは優しく微笑む。そして書類を持っている大きな手に自分の手を重ねて、そっとシルヴァンの頬に口づけを落とした。
「あなたはまず、体を治すことを優先に考えて」
「ああ、そうするよ」
アニエスが寝室を出ていく。その背中は、とても華奢だった。
一人きりになったシルヴァンは、サイドテーブルから日記を取り出す。たしかに自分が書いた記憶はあるのに、書かれている内容は記憶にない。中はすべて、アニエスに関することだった。
《アニエスは強い人だ。その強さが眩しく、愛しいと思う。
明日の私よ、どうか忘れないでくれ。私は、彼女に恋をしている。》
今日も想いを日記に記す。明日の自分が少しでも何か思い出せるようにと、心を込めて。
《今日はアニエスに花を贈った。小さな花束だったのに、彼女は喜んでくれた。
次は、自分で花を摘んで贈ってあげたい。》
《夜遅くまで仕事をしていると、アニエスが少し目を尖らせる。
私の体を心配してくれているようだが、その表情がただ可愛いことを、彼女は気づいているだろうか?》
《出会って初日で、アニエスが愛しいと思う私はおかしいのだろうか?
どうして私は彼女のことだけを覚えていられないのか。――悔しい。》
◇◇◇
「ぐ……! う……!」
「シルヴァン!? ……っ、誰か! お医者様を呼んで!!」
事故から一ヶ月経ったある日。二人の思い出を語っていたアニエスの前で、突然シルヴァンが胸を押さえて苦しみ出した。尋常ではない痛みを感じているのか、彼の額に脂汗が滲む。顔は青く、食いしばっている歯がギリリと鳴った。
「シルヴァン! どうしたの!? 胸が苦しいの!?」
シルヴァンが押さえているのは、痣がある左胸のあたりだ。嫌な予感が駆け巡って、アニエスはただ医者の到着を待った。
「――奥様、こちらをご覧ください」
痛み止めを打ってシルヴァンが落ち着いた頃、医者が彼の左胸を指した。
「痣が、変わってる……?」
「はい。十二枚あった花弁のようなものが、一枚消えています」
「痣が変わるなんて……そんなことあるの?」
「大変恐縮ながら……現代の医学では例のない症状です」
不自然に花びらが欠けた花のような痣。言い知れぬ不安が胸を覆って、アニエスは思わず胸元をぎゅっと握りしめた。
「それから、奥様。覚悟して聞いていただきたいことがございます」
「覚悟……?」
「旦那様にはお話しましたが……旦那様の寿命は、あと一年も持たないでしょう」
「え……?」
医者の言葉がうまく理解できない。目を見開いたままシルヴァンへと視線を移せば、彼は困ったように微笑んでいた。
「待って……。今、なんて……?」
「旦那様の心音が、以前よりはっきりと弱まってきています。このまま弱り続ければ、一年と持ちません」
「う、嘘だわっ。そんなことって……!」
アニエスが顔を青くしてよろける。足が引っかかって、ベッド横に置かれていた椅子が倒れた。
「夫を助けるにはどうしたらいいんですか!?」
アニエスは医者へと縋りつく。伯爵夫人としてみっともない姿をさらしている自覚はあったが、今はそんなことは気にならなかった。
「お、奥様! 落ち着いてください! 私も今、懸命に治療法を探しています!」
「―――!!」
それは実質的に、治療法がないと言っているようなものだった。
「どうして……っ。どうしてあなたが……っ」
よろよろと、ベッドで眠る夫に歩み寄る。そしてその体を覆うように、顔を伏せた。
「お願い……、私を置いていかないで……っ」
「……アニエス。私は大丈夫だから」
「どうして冷静でいられるの!? あなたの命のことなのよ!?」
「怖くないと言えば嘘になる……。でも、君や先生が懸命に私を生かそうとしてくれている。それを信じているんだよ」
ためらいながら、シルヴァンの手がアニエスの頭を撫でる。そして親指でそっと、涙に濡れるアニエスの頬を拭った。
「……もしかしたら私の寿命は、この痣と何か関係があるのかもしれない」
「それはどういう……?」
「花弁のようなものが散る……。まるで、私の余命を示しているようじゃないかい?」
「………!?」
シルヴァンの言葉に、アニエスも医者もはっとした顔をした。
「すぐにでも痣について症例を調べ直してきます!」
「私も――」
医者が慌てた様子で寝室を出ていく。アニエスもまた、すぐに調べるために動こうとしたときだった。
「――アニエス。しばらく、傍にいてくれないか」
シルヴァンにそっと手を引かれ、アニエスは振り返った。
「あ……」
そこには眉を下げ、不安そうにしているシルヴァンがいた。
(そうよ、私ったら何をしているの。一番不安なのは、シルヴァンのはずなのに……)
アニエスはシルヴァンの手を両手で包み込む。そしてベッドの端に座って、できるだけ穏やかな笑顔を作ってみせた。
「痣が原因だと分かれば、きっとすぐに治療法も見つかるわ。お医者様がすぐに見つけてくれる」
「ああ、そう信じているよ」
「あなたの隣には私がいるわ。それを忘れないで」
「……ああ。何度でも思い出すよ」
シルヴァンは、日記に書かれた自分の妻への想いを思い返す。何度忘れようとも、何度も「愛しい」と思い出す。記された文字を見るたびに、胸が甘く疼いた。
「――シルヴァン、愛しているわ」
「私も……愛しているよ、アニエス」
ゆっくりと目を伏せるシルヴァンに、アニエスが近づく。二人はシルヴァンが記憶を失って以来、初めて口づけを交わした。
その夜、アニエスはシルヴァンとともに眠りについた。そして、朝が訪れる。
「――っ!?」
隣で息を呑む音が聞こえて、ベッドの上掛けがはぎとられる。アニエスはそれで、ゆっくりと目を覚ました。
「あ、貴女は……」
隣には冷や汗を流しながら動揺しているシルヴァンの姿が。彼からすれば、知らない女と同衾していたのだ。顔を青くするのも無理はない。
「――おはよう、シルヴァン」
胸が痛い。鋭い刃物で何度も刻まれたような痛みとでも言えばいいのだろうか。
――シルヴァンの記憶を取り戻したい。けれど、毎日忘れられるのは辛い。
アニエスは毎朝、傷つく心を隠して、シルヴァンに少し作り慣れた笑顔を見せた。




